第一章
第一章
右スワイプ、右スワイプ、右々々、左スワイプしてまた右スワイプ。するとハートが無くなる。深夜三時のルーチンワーク。
十八時くらいからマッチングのチェック。マッチしたら一言「マッチありがとう!良かったら通話しましょう!」と送る。大体三割くらいから返事が来て、インスタの裏垢をお互い交換して、少し話をして会う約束。会ったら飲んで「何もしないから少し休もうか。」なんて言う。夕方六時のルーチンワーク。
ピサの斜塔の階段はすり減って凹んでいると言うけれど僕のスマホの画面もすり減るのではないかと思う。斜塔は歴史の積み重ねで、フィルムは欲の積み重ね。比べものにはならないけれど。毎日の繰り返しは僕の心もすり減らしていたと思う。毎日興味もない相手と通話して、会って、飲んで、肌を重ねて。この繰り返しは僕の心から優しさのようなものを無くしてしまったように思える。もしかしたら分厚くなって何も感じなくなったのかもしれないけど。続けていれば遂には分厚くなった何かが僕の心の穴を埋めてくれたのかもしれない。けど、多分前者だ。
とにかく心の空洞を埋める度に、無理矢理組み合わせた本当ははまらないはずのブロックの穴の側が甘くなっていく様にして徐々に穴は広がった。そういえばフィルムのすり減りで出たカスや心のすり減った後のカスは一体何処に行くのだろうか。少なくとも拾い集めて元に戻すことはまあ無理なのだろうなとは思う。
僕の心は大概すり減って愛を求める気持ちは更に強くなっていたと思う。口先ばかりが上手くなっていて、蛇口を捻れば水が出るように「可愛いね」なんて言葉も簡単に出てきた。「『好きだよと愛してる』って言葉くらいは安売りしたくないな。」なんて思いながらもいつか平気で使うのだろうなと思っていた。だから僕らの始まりが彼女からのメッセージだった時も言っちゃ悪いけど「手間が省けたな。」程度にしか思わなかった。
確かマッチしたのは確か夜の十一時くらいだったと思う。その時は確か別の女の子と遊ぶ約束をした後でそろそろ寝るつもりでいた。だけど彼女とマッチした時「今メッセージ送っとけば返事帰ってきそうだな。」って打算と睡眠欲がせめぎ合いつつもメッセージを送ろうとした。そんなときに彼女から「マッチありがとうございます。お話しませんか。」って来たから「こちらこそありがとう、ご趣味はなんですか。」って送った。
まあその後はいつも通り、「かわいいね。」とか「すごいね。」「行ったことあるよ。」なんてあることないこと言ってインスタを聞いて電話する。スト値で言ったら三から四くらい。どうせ加工しているから実際はもうちょっと下。まあどうせその日だけなのだしまあいいかと、その日の夕方会う約束を取り付けた。
電車が遅れてしまって待ち合わせギリギリに行くと女の子が立っていた。前もって服装は聞いていたけど、肩まで伸びたきれいな黒髪とすらっとした姿勢、きりっとした口元、少し服装は芋っぽいっていうかこなれてないっていうか、可愛らしいっていうか、とにかく出会い系には珍しいタイプでその雰囲気に驚いた。ってかプロフィールよりかわいいな、この人で合ってるんだよなとか思って少したじろいだ。彼女の方も少し首を傾げながらこっちを見ていた。雪のぱらつく駅ビルの前で二人、一瞬間できる。「じゃあ行こう。」彼女を伴ってあらかじめ予約した店に向かい始めた。珍しく雪は降っておらず、夜空には星々が広がっている。だからこそ寒さは一段とこらえ二人の距離は思いのほか近かった。何というかそういうのもいいななんて思ってしまった。何を考えているんだと自分でも苦笑してしまう。
薄暗い店内は自分で狙ったものだった。闇というのは心にきつくかかった錠を緩めるっていうか人の理性を緩めてしまう。少し大っぴらになるといえばいいのか。つまりは普段言わないようなことを言わせてしまう。そんな魔力がある。その魔力とアルコールとで魔法にする。寂しさを紛らわす魔法に。
初めて彼氏ができたのは高校一年生の夏。そんなに長くは続かなかった。高校三年生の春二人目ができた。初体験もその人と。正直痛かった。その人からは受験勉強に専念したいからと振られた。今思えば元カレたちを本当に好きだったのかは分からない。もしかすると一三時過ぎの暑さと蝉の鳴き声、夕方の蒸し暑さを残した風とひぐらしの鳴き声、日中の暑さを残しつつも秋の虫が鳴く夏の夜の雰囲気にただ浮かされていただけなのかもしれないし、冬の芯から凍えるような寒さと頭上を埋め尽くす陰鬱な雲とから解放され自由になった心が春に飛び交う小鳥の羽が春の日差しの下ふわふわと舞い蜘蛛の巣に引っかかってしまった結果として付き合っただけだったのかもしれない。思い返してみればどちらも求められ、何となく付き合ったのだから多分好きではなかった。
誰かを本当に愛したことは当然あった。彼に頭を撫でてもらいたかった。彼の腕に抱きしめられたかった。腕の中で眠りたかった。けれど向けた物に見合う見返りを受け取ることは遂になかった。誰かに恋をしたとしてその相手からも愛してもらえることはあるのか。私を愛してくれる相手が現れたとして私はその相手を愛すことは出来るのか。なんだっていい。愛したい。愛されたい。大事にしたい。大事にされたい。
でも無理なのだと思う。
その気づきは残酷でとても耐えうるものではない。せめて一晩でもいいから愛されてみたいと思った。その相手を愛することでその一晩限りは幸せの絶頂に包まれうるのではないかと思った。愛し愛された一晩一晩の積み重ねが徐々に皮を厚くし心を強くしてくれるのではないか。そしてだから出会い系を始めた。そして今日初めて会うことになっている。昨日の深夜マッチし、今日の明朝には約束し、気づけば夕方会うことになった。
多分相手は遊び慣れていて私は一晩遊ばれるだけ。でもいい。その相手を愛し私も愛されたつもりになれば私は満足なのだから。
正直で純粋でこんなことしていいのかなって感じてしまうような子だった。多分、いや絶対遊び慣れなんてしてない。理由が何なのかは知らないけど一瞬の気の迷いでこんなこと恋愛ごっこに片足を踏み入れてしまったんだと思う。
ゴミ一つない道にポイ捨てするのは誰だって抵抗はあるはずだ。僕がしていたことは小汚い路地裏の道で噛んでいたガムを吐き捨てるようなものであって花畑の中の一番美しい花を摘むようなものじゃない。そんなきれいなものを傷つけることは僕にはできないしその資格もない。だけれど、それが嘘から始まるのだとしても、それを真実として進めることができるなら、それが花壇を土足で踏み荒らす行為だとしても最後にはちゃんときれいな植え込みにするなら土足で踏み荒らしてもいいじゃないか。
いつも通り、でもいつも以上に優しく僕は初めて花を摘み取った。
翌朝の別れ際「付き合ってくれないか。」と彼女に言った。了承してくれるという確信があった。ここら辺の話はすごく抽象的で物事が事前にそう決まっていたかのように進めてしまって申し訳ないけどそうとしか言えなかった。彼女は了承してくれた。
「好きだよ。」という言葉すら蛇口から当然のように流れてきた。救いようがないものだ。けどとにかくここら辺が僕にとっては潮時で限界で足の洗い時だったんだと思う。なんにせよ僕は僕を愛してくれる相手を手に入れた。うまくははまらないブロック同士でもはまったままそのままにしておけば接ぎ木のように上手くいくんじゃないか。そう思っていた。
身体を重ねるごとに僕らはお互いを愛していったと思う。会えない日の長電話とか、会った日のデートとか、そんなのを繰り返して最後には抱きしめあって眠った。その度に胸の空白が色鮮やかに彩られた。それは雨上がりに雲が消え去ってそこに虹がかかるように、胸の隙間を埋めていた暗闇を払い去り、そこに残った青空に虹をかけていった。満たされていた。