こんな鈍感な人、いますか?!
『ちゃんと修士課程卒業出来るかなー。』
私、高崎 陸は、今日から生物学科修士生として、S大学に通う。
「はあ。」
「どうした、タメ息なんか吐いて。」
急に後ろから話しかけられ振り向くと、教授が入ってきたところだった。私は少し驚いたが顔には出さず答えた。
「いやー、私、ちゃんと卒業できるかなーと思って。」
私は、自他共に認める極度の人見知りだ。
その私が、[今日から]と言いながら、なぜこんなに教授と打ち解けたような話しが出来ているかというと、4年間の学部大学生活も、ここS大学だったからだ。
「高崎だったら大丈夫だろ。」
そして、この、半笑いで答えてくれた初老の方は、学部の頃からお世話になっている十文字先生だ。
うちの大学では怖い恩師トップ5には入ると言われているが、私はなぜ皆にそう思われているのか分からない。
確かに厳しい事も言われるが、それは全て正論であり私を思って言ってくれている。ちょっと変わったところもあるが、私はとても尊敬している。
他の学生は、笑った顔は見たことが無いそうだが…。
「まあ、真面目だけが取り柄ですし、頑張ります。」
私は、苦笑いしながら答えた。
そう、私はとにかく自分に自信がない。そりゃ運動も勉強も、普通よりは出来るけど…。
「………いつもクールに何でもこなすくせに。」
「今何かおっしゃいましたか?」
「何でも無い。」
「あ、先生、今日の午後お時間ありますか?私の修論(修士論文)について相談したいんですが。」
「ああ。14時くらいで良いか?」
「はい。よろしくお願いします。」
「俺はこれから1回生の講義に行ってくる。はあ、面倒だな。」
教授はブツブツ言いながら、部屋を出て行った。私が今いる部屋は私が所属する研究室。講義が無い時は、大体この部屋で自由に過ごしたり、実験室で実験をしている。
そんな事言って…と思いながら私は少し笑ってしまう。他の先生方が自分の研究を優先し講義を適当にしがちなのに対し、十文字先生は、研究と同じくらい真剣に講義に取り組み、寝る間を削って生徒が分かりやすい授業資料作りをしていることを、私は知っている。そんなところも、私が教授を尊敬している理由だ。
もうすぐお昼だ。ご飯を買いに行くか、学食に行くか、どうしようかな…と部屋の扉を開けたところに、女の子が立っていた。お互い驚く。
「ええと、うちの研究室に何かご用?私以外今は誰もいないけど?」
おそらく無愛想だろうなと思いながら聞く(だって人見知りですから!)と、その子は、顔を赤くしながら、
「た、た、高崎先輩!これ、良かったら食べてください!!」
と言ってずぃと差し出されたのは、どうもお弁当のようだ。
取り敢えず受け取ると、
「き、き、き、今日何時までいらっしゃいますか!?」
「…今日は17時くらいまではいるかな。」
あまりに、噛みながら話すので、笑いを堪えながら答える。
「で、で、でしたら、そ、そ、そ、その頃にまた取りに来るので!!!」
もう限界だった。私は少し笑いながら、
「ふふ、ありがとう。待ってるね。」
と言った。すると彼女は一瞬止まったかと思ったら、更に顔を真っ赤にしながら、「で、で、では、しゅちれいします!!」と言って走って行った。その走った先にはお友達が待っていてくれたようだが、そのまま走って行くので慌てて友達が追いかけている。面白い子だな。
やった、お弁当だーと思って再び自分の席に座ろうとした時、コンコンというノックと同時に、「高崎ー、学食行こうぜ。」と言いながら、1人の男子学生が入ってきた。
「ノックしながら入って来たら、ノックの意味がないって前から言ってるよね?」
私が笑いながら言うと、
「はは!ごめんごめん。取り敢えず混む前に行こうよ。」
彼の名前は須藤 拓海。私と同じ、学部から持ち上がりで大学院に入っており、割りと仲が良い。
「あー私さっきお弁当になったから、今日は学食行かない。」
「さっきって、お前また弁当もらったの?相変わらずモテるな、男女ともに。」
私は度々知らない女の子からお弁当をもらう。年上の先輩方には男女ともにご飯をご馳走になったりする。
「別にモテてるわけじゃないよ。お弁当もらっただけだし。」
「はあ?どんだけ…だよ。」
男女ともにって…。私は、よく顔が中性的だと言われ、身長が175cmと女性にしては高身長。色白で鼻は高めだが、目は少しタレ目のくせに二重。髪は地毛だが少し茶色がかっており、長めのショートカットだ。たまに男に間違われるし?どうなの、この中途半端な感じ。男女ともにモテる気がしない。
「まあ良いや。学食でも弁当食えるだろ。一緒に行こうぜ。」
「えー…。分かった、分かった。」
私が折れて準備をはじめると、須藤くんは少し顔を背けた。
なぜか笑っているようだ。
「須藤くん、私じゃなくて、他の子誘えば?須藤くんが誘えば即来てくれるだろうし。」
そう、彼は身長は185cm、顔もさわやかスポーツマンタイプで性格も明るくとてもモテる。
「………お前は即OKしないくせによく言うよ。」
須藤くんが何か言ったけど、聞こえなかったので気にせず部屋を出た。
「明後日の飲み会来るんだろ?」
「須藤くん、一次会の幹事だっけ?んーどうしようかな。知らない人来るしな。」
「そりゃ、新大学院生の顔合わせ会みたいなものなんだからな。他大学から来てる人とかいるだろ。」
「そうだよね。うん、そうだよね…。私、やめと」
「今、断ろうとしただろ。ダメだぞ。」
「聞いといて選択肢無いの?」
「お前は人見知りだからな。大丈夫だ。俺がいるんだから。」
「何が大丈夫なのか分からないんですけど。
須藤くんは誰とでもすぐ仲良くなれるから良いだろうけど。…でもまあ、行きますよ。一応。」
「よっしゃ、詳しいことはまた連絡するから。」
なんだかすごく嬉しそうだ。知らない人達との飲み会、そんなに楽しみかねぇ…。
食事を終えて研究室に戻って来た。
シンクでお弁当を洗い終わると、そろそろ14時になりそうだったので、隣の教授の部屋へ行き、修論の研究テーマや実験計画等について話し合った。話し終わった頃には16時になっていたが、教授と研究について話しはじめると、気づいたら何時間も過ぎていることはよくあるので、いつもより早く終わったくらいだ。
教授の部屋から研究室に戻ってくると、
「あ!先輩、お疲れ様です!!」
講義が終わって研究室に来ていた後輩、河上 実香が満面の笑顔で迎えてくれた。十文字先生は滅多に自分の研究室に生徒を所属させないらしく、この研究室には私と彼女しか学生はいない。他の研究室には毎年2、3人入るところもあるというのに…。とにかく、唯一の後輩である彼女は今年4回生、卒論(卒業論文)のせいか、ほぼ毎日研究室に来ている。大学というのはなかなか自由であり、卒論があるとはいえそんなに毎日来る必要はないのだが…。まあ、研究が楽しいのだろう。
「河上さん、おつかれ。毎日来て偉いね。」
「先輩に会えるからです!!」
更に嬉しそうな笑顔で答える彼女は、身長155cm、髪は肩くらいの長さで茶色、目も大きくとても可愛い。しかも出るところは出て、くびれもある。所謂ナイスバディ。何人もの男性から告白を受けているようだが、「好きな人がいるので。」の一点張り。彼女に思われる人は、一体どんな人なんだろう。こんな私にもよく懐いてくれて、いつもこのような冗談を言ってくれる。
「はいはい、ありがとう。」
といつも通り笑って返すと、「そうやっていつも相手にしてくれなーい!」とか言っている。
そのようなやり取りをしていると、コンコンとノックがした。
河上さんが「はいはーい。」と言いながら扉を開ける。そう言えば、あの噛み噛みの子、お弁当取りに来るって言ってたな?
河上さんは、
「どちら様?」
と聞いた。「あの、高崎先輩いらっしゃいますか?17時頃にお弁当をとりに来ますとお話ししていたのですが。」
やっぱりあの子のようだ。あれ、噛んでないじゃん。普通に話せてるし。
「あなた、今日の人?」
河上さんは急にわけの分からないことを聞いている。だが、その子も、
「はい。そうです。」
と答える。たまらず私は、会話に入る。河上さんの身長は155cm、その子の身長は150cmくらいで、尚且河上さんが扉を塞ぐように立っているため、座っている私にはまだその子が見えない。立ったら身長差でその子も見えるだろうが、2人の会話に入りたかったため、立ちながら少し腰は折りまげた前屈み状態で、河上さんの顔の横から顔を出して聞く。
「何の話し?」
…なんか、急に現れた感じになってしまった。
「っっ///。」
「な、な、な///。」
河上さんは真っ赤な顔でバッと耳を押さえて部屋から出た。お弁当の子?はというと、さっきから「な」しか言ってない。しかも目はこれでもかと言う程見開いているし顔は両手で覆われていて目以外見えない。
「ご、ごめんね?驚かせちゃって。」
謝ってみるも、お弁当の子は「な」はやめたものの首をふるふると横に振るだけで何も言ってくれない。
そうこうしているうちに、河上さんが「ふう。」と言ってこっちを見ると、「そういうところですから!」と大きな声で言っている。そういうところってどういうところよ?と思いながら、
「えっと、君、名前は?何回生?」
と聞くと、
「あ、あたしの名前は、多田 加奈子です。に、2回生です。」
と答えてくれた。
「そっか。多田さん、お弁当ありがとね。すごく美味しかったよ。これ、一応洗ったから。」
と言ってお弁当を返した。多田さんは、
「あ、洗って頂いたんですか?!そ、そんな、よかったのに!で、でも、ありがとうございます!!」
と、赤い顔で逆にお礼を言われてしまった。
「ううん。作ってくれたんだから、洗うのは当然。ふふ、さっきまで噛んでなかったのに、また噛みはじめたね。はじめよりは良いけど。」
と少し笑いながら言うと、また「え、え、ええ、ええと//」とかなりあたふたしはじめたので、あれ、悪化してる。変なこと言ったっけ?と思っていたら、河上さんが、ムッとした顔で多田さんに「他に何か用あるの?私、これから陸先輩と2人で約束があるんだけど。」と言った。
あれ?何か約束してたっけ?しかもいつもは、陸なんて呼ばないのに。たまに呼ぶんだよね。
「い、いえ、お弁当を取りに来ただけですから!でも、先輩は、高崎先輩とはどういうご関係ですか?!」
2人は睨み合っている。ええ、何この雰囲気。2人ともどうしたのー?!と思っていると、1人の男性が話し掛けてきた。
「なんだなんだー。陸っち、修羅場?」
このちょっとチャラい男性は、博士課程1回生の高槻 光一さん。近くの研究室なので、声が聞こえてしまったようだ。
「高槻さん、すみません、うるさくしてしまって。あと、修羅場って意味分かりません。」
全くこの人は何を言っているのか…と思いながら答えていると、逆に「分かって無いなぁ。」と言われた。そして、ヘラヘラしていたかと思ったらスッと顔を引き締めて、睨み合っている2人に対し、
「お2人とも、少し声が大きいな。実験をしている人もいるんだからね?」
と、真面目に注意した。そう、一見チャラく見えるが、実は研究には努力を惜しまずストイックなところがある彼。身長は178cmくらいで男性としてはそこそこ高いくらいだが、金髪で少し長髪。整った顔をしていて所謂美形で、無駄にイケボなわけで、注意された2人は、少し頬を染めながら、
「「す、すみません…。」」
と謝った。[無駄に]と言ったのは、その後すぐ、「陸っちの取り合いは別のとこでやってね!」とか「でも最終的には僕がもらうよ!!」とか、やはりわけの分からないことを言うからだ。
せっかく場が静まりかけたのに、また2人が「ええ!!」とか、「そんなの認めません!!」とか言い出してしまった。ああ、もう、どうしよう。と思っていたところに、
「お前ら、何をしてるんだ。」
という、地獄から聞こえたような声がした。振り返ると、十文字先生が腕を組んで立っていた。後ろには≪ゴゴゴ…≫≪ミシミシ…≫という効果音が目に見えそうだ。
「!!!」
「き、教授!ちょっと話していただけですよ!」
「そ、そうです。高槻先輩の研究について伺っていただけで!」
高槻さんと河上さんは交互に話しているが、多田さんは青白い顔で今にも泣きそうだ。
「高崎、そうなのか?」
十文字先生は私に聞いてきた。3人はバッと私を見る。私は苦笑しながら、
「はい。高槻さんの研究は興味深いですからね。」
と答えた。すると教授は、「ったく。」と小さく言うと、
「そういうのは研究室の中でしろ。終わったならさっさと帰るなり、自分の研究室に戻れ。」
「「は、はい!」」
そう言うと、教授は去って行った。
「助かったよ、ありがとう。」
「さすが、先輩!」
高槻さんと河上さんが目を輝かせながら言う。私は多田さんが心配で、
「大丈夫?ちょっと研究室で休んで行く?」
と声をかけたが、
「い、いえ!やっぱり高崎先輩は最高ですね!あたしは大丈夫です。ご心配頂きありがとうございます!また先生に怒られないようにもう帰りますね。」
と、元気に答えてくれた。何が最高か分からないが、取り敢えず元気になってくれたようでホッとした。
「そう?それじゃ気をつけて。」
「はい!失礼します!」
多田さんは帰って行った。高槻さんも「僕も研究室に戻るよ。」と言って去って行った。
「そう言えば、河上さん、私、この後何か約束してたっけ?」
と聞いてみると、河上さんは目を泳がせながら、「ええと…してませんでしたっけ?」と言うので、
「ごめん、覚えてなくて。何?この後空いてるし、大丈夫だけど?」
と、困り顔で言うと、河上さんは「何て…人なの…。そんな顔…だわ。」と小さい声で言ってから、
「先輩すみません!私今日バイトだったんです!だから後日、付き合ってもらえませんか?」
ということで、今日はもう帰ることとなった。
翌日研究室に行くと、河上さんはもう来ていた。
「先輩、おはようございます!」
安定の可愛さで挨拶してくれる。私も「おはよう。」と返し、席に着いてPCを開く。今日は研究テーマの参考になる文献を読んでいく予定だ。
しばらく読んでいると、コンコンとノックが聞こえ、「はーい。」と河上さんが扉を開けると、「高崎はいるか?」と十文字先生の声が聞こえた。
「はい、いますよ?」
私は立ち上がりながら答えた。河上さんが半歩下がったので教授の顔が見える。なんだか、何か期待しているような顔だ。
「先生、どうしたんですか?」
河上さんに変わって扉の方に行くと、
「ちょっといいか?今俺の部屋は使えないんだが。あの装置を使いたいっていう奴がいてな。」
教授の部屋にはこの大学で1つしかない、何ちゃら測定装置があり、度々、生徒のみならず先生方も使用しに来る。何でもかなり高い装置らしく、なかなか買える物ではないらしい。それを持っている十文字先生は、やはり只者では無いんだろうな。と思っていると、
「私なら気にしないで、ここでお話しして頂いて大丈夫ですよ?」
と後ろから河上さんが言ったので、『高崎も良いか?』という視線を向けられ、「私も大丈夫ですよ。」と答えた。まあ、そんな聞かれてはまずい話しでは無いだろうし、と思いながら。
「じゃあ、そこに座って話すか。」
研究室にある対面の席に座った。
「早速だが、お前、どっか就職先の希望はあるのか?」
え、就職先って、修士課程がはじまったばかりだし。ってまあ、早い人はもう動き出すのかな?と思いながら答えた。
「いえ、全く無いですね。」
「博士に進むのか?」
「いえいえ、就職しますよ。」
「だったら、東京の徳川製薬に就職しないか?」
は?東京?徳川製薬?私が声を出すより早く、
「徳川製薬?!すご!!いやいや!先輩、そんな遠くに行かないでください!!!」
と急に立ち上がって河上さんが言った。
「河上、何でお前が出てくるんだ。黙っていろ。」
「そ、そうですけど!…す、すみません。」
河上さんはシュンとして座った。
「で、どうだ?」
「どうだって言われても。徳川製薬と言えば、日本で1、2を争う世界にも引けをとらない製薬会社じゃないですか。就職してみないか?ってそんな簡単に入れるところじゃないですよね?それに東京…。」
私は地元から離れたことが無い。就職や進学で県外に行く友人を横目に見ながら、この場所から出ることは私には出来なかった。生まれてずっと住んでいるここは私にとって安全地帯。ここから出る勇気が私にはあるのだろうか。
「大学時代からの友人が、徳川製薬の重役でな。最近、新卒から芽が出そうな奴がいないんで、誰かいないかと泣き付かれたんだ。俺はお前なら自信を持って推薦出来るんだが。」
教授の真剣な目が私を見ている。
「…1日、考えさせて頂けませんか?家族にも相談してみます。」
「ああ、1日じゃなくても、もっと考えても良いんだぞ?」
「いいえ、大丈夫です。」
「分かった。じゃあ明日な。」
「はい。」
教授が出て行った後、河上さんは私に何か話し掛けようとして、やめたように見えた。
研究室の扉を開けると、河上さんは既に来ていた。おかしいな、今日は講義が入っているんじゃなかったっけ?
「先輩、おはようございます。」
いつもより元気が無い。「おはよう。」と言い、今日は講義じゃなかったっけ?と聞こうとした時、
「昨日のお話し、どうするんですか?」
と言われた。答えようとした時、
「おはよう。高崎、決まったか?」
2連続で自分の言葉を遮られた、と思いながら、入って来た教授に向かって答えた。
「お受けしようと思います。」
私は逃げてきた。自分の囲いの中で生きてきた。怖かった。そして、そんな私の過去は後悔ばかりだった。あの時こうしていれば違ったんじゃないだろうか。それは、友達、部活、家族、進学…そして、恋人。怖くて怖くて…。でも、今はまた後悔することの方が怖い。もしかしたら、この選択もいつか後悔するのだろうか。いや、きっとしない。だって今回は逃げじゃない。
「やってみようと思います。」
教授は今までで見たことの無いような顔をした。ホッとした?嬉しそうな?あれ、ちょっと泣きそう?
どれも違う。言葉では言い表せない表情だ。
「分かった。取り敢えず俺から連絡しておくが、今度一緒に挨拶にいくぞ。」
「はい。よろしくお願いします。」
「あ、そうそう、そこでお前はMR(医療情報担当者)として働くから。」
「え、MR?私、薬の知識ないですよ?」
「そう。だから、お前は就職と同時にK大学にも編入するんだ。午前は大学で薬学を学び、午後からは徳川製薬で働く。」
「なんじゃそれーーー!!!!!」
私の代わりに叫んでくれてのは、河上さんだった。
「先生、なんですかその鬼プランは?!!」
「何で河上がそんなに切れてるんだ。ちなみに、2年間で準薬剤師の資格を取るように言われている。」
「いやいやいやいや!!準薬剤師ってそんな簡単じゃないですよ!ただでさえ難しいのに、2年間って!そもそも単位はどうするんですか?!!!」
準薬剤師とは、最近新しくできた資格で、薬剤師が6年間薬学課程を修めて卒業した者にしか受験資格か無いのに対し、必要単位さえ取得していれば試験が受けられる。試験内容および合否判定は薬剤師と同じため、知識量が薬剤師と同じであることを証明する資格である。実際に薬剤師としても働くことも出来る。
6年間で薬剤師資格試験の勉強をするのに対し、2年間でというのは、本当にもう…鬼プランを超越している。
「高崎はもう、共通科目や一般的な理系科目は取っているだろ?だからあとは薬学+αで良いから、2年間でクリア出来るはずだ。あとは試験に受かれば良い。」
「ああ、K大の編入試験に受からないといけないから、修論の合間にその勉強もしとけよ。」
私は、2人の話しを聞きながら、はじめは心の中で無理じゃない?と思っていた。しかし、当然出来ると確信している教授の顔を見ながら、そしてさっきの何とも言えない教授の表情を思い出したら…。しかも、私のために普段怖れている教授にこんなに大声で反発してくれる後輩を見ていると、なんだか気分も軽くなり、出来るような気がしてきた。
「そんな!そんな!!そ」
「分かりました。」
ずっと、目に涙を溜めながら私のために教授に抗議してくれている河上さんの肩に手を置きながら答えた。
「そんな!せんぱ…」
河上さんは私と目を合わせるなり、口を閉じた。
「よし。」
教授は頷いて自分の部屋に戻った。
部屋は急に静かになった。河上さんは下を向いている。
「河上さん。ありがとう。何か、私が言いたいこと全部言ってくれて。」
「でも、ちょっとびっくりした。もっと、何で納得出来るんですか?!みたいなこと言われるかと思ったから。」
河上さんは何も言わない。どうしよう。呆れられた?嫌われちゃったかな?
「……から。」
「え?」
「先輩が今まで見たことない強くて綺麗な目をしてたから。」
ずっと見てたんだから。私が1回生で入学した日からずっと。
約3年前、私はこのS大学の合格発表を見に来ていた。ネットでも見ることが出来るが、合格していたら大学の学内も見ておきたかった。
私の受験番号があった。良かった、取り敢えず合格か。学内見て回って帰ろ。と思ったら、少し遠くで「う、受がった。良がった!」と友達と号泣しながら喜んでいる子達がいた。私は、「げ、泣いてる。」と思った。周りの人や手伝いに来ていた在学生の人達も、「号泣(笑)」とか「あんなに泣かなくても」等々、ヒソヒソと笑いながら話している。
バッと強い風が吹いて、例年よりも早く満開をむかえた桜の花びらが一気に散った。瞑っていた目をゆっくり開けると、花びらに囲まれながら、1人の人が立っていた。少し微笑みながら、優しい、少し寂しそうな目で、彼女達を見ていた。綺麗だった。私は、一瞬で心を奪われてしまった。
入学してすぐその人について調べた。
名前は高崎 陸。2回生。十文字教授の研究室に入ることが決まっている。そして、女性だった。今まで女性を好きになったことは無い。でもそんなのどうでも良かった。それからずっと見てきたんだ…
「河上さん?」
「あ!いや、マジな目だったので、もう決めちゃったんだなーと思って諦めました!」
正直驚いた。先輩は優しい目をしてるけど、たまにあの時見たような寂しい目や、何かを諦めているような目をすることもあって。どの先輩も綺麗で儚くて、好きだったけど、さっき見た先輩の目はそのどれにも当てはまらない目だった。ああ、何を言ってもダメだって分かった。
「うん。頑張ってみるよ。」
「なんだよそれ!!ふざけんなよ!」
今私は、新大学院生の顔合わせの飲み会の場にいる。須藤くんに就職と編入のことを話して返ってきたのがこれだ。
「ええ……なに?なに怒ってるの?」
「別に怒ってねーし!」
怒ってるじゃん。と思いながら、ビールを一口飲む。それから須藤くんはなぜか機嫌が悪かった。何か言っただろうか?機嫌を損ねたなら他の席に行ってくれても良いのにと思うも、私の隣から動こうとはしない。まあ、私は例によって誰かに話し掛けることも出来ないまま一次会は終わったのだけれど。
『二次会行かないで帰ろうかな。』と思っていると、
「ねぇ、君、高崎さんだよね?僕は藤 健斗。数学科でS大学に入った修士1回生なんだ。」
急に知らない男子学生に話し掛けられた。なぜか私の苗字を知っている。
「そうなんだ。私は生物学科の1回生だから同期だ。私数学苦手なんだよね、すごいね。」
「いやいや、僕は逆に数学以外は全然ダメなんだよ。ところで二次会、行くの?」
「んー、私は帰ろうかなと思ってる。」
「そうなんだ、じゃあ良かったらこの後…」
「高崎、帰るなら駅まで送っていく。」
須藤くんが話しに割り込んできた。さっきよりも一段と機嫌が悪くなっている。藤くんを睨んでるし。
「ちょっと、君だれ?今僕が話してるんだけど?」
藤くんがムッとしながら言っている。確かにそうだ。さっき何か言いかけてたし。
「俺は須藤だ。で、高崎帰るのか?」
「須藤くん、藤くんが話してるのに。藤くん、さっき何言おうとしてた?」
「ああ、だからこの後…」
「さあ、帰るぞ、高崎!!」
須藤くんは、私の手を掴んで歩き出した。「俺と高崎は帰ります。」と二次会の幹事の人に言いながら、ぐいぐいと引っ張って行く。
「ちょ、ちょっと!ごめん、藤くん、またね!!」
私はこれを言うので精一杯だ。何なの?須藤くんはたまにこういう行動をとる。
「須藤くん!!」
無視。ああ、もう諦めるしかない。駅までは離してくれないんだから。
駅に着いた。
「悪かったな。気をつけて帰れよ。」
はあ、毎回謝られるから、怒るわけにもいかない。そもそも行動が謎すぎて、何を言ったら良いか分からない。
「……うん、またね。」
電車に乗って帰った。
当初は、徳川製薬の方に教授とご挨拶に行く予定だったが、会社説明会でこっちに来る用事があるそうで、その際に教授の旧友の方と広報の方と2人で大学を訪れてくれることになった。
その後の学生生活はというと、お弁当をもらったり、先輩にご飯に連れて行ってもらったりしながら、修論と編入試験の勉強をして過ごしている。
4回生になる頃に就活をしていたはずの河上さんは、修士に進むことにしたらしく、しかも他大学を受けずうちに残ることにしたので、私の方が先にここを去ることになりそうだ。
今日は、徳川製薬のお2人がいらっしゃる日。河上さんと話しながら研究室で待っていると、ノックが聞こえた。「どうぞ。」と言うと、十文字先生が2人を連れて入ってきた。
「君が十文字ご自慢の、高崎さん?」
かなりゴツい体の男性が、ゴツい声で話し掛けてきながら、右手を差し出してきた。
「はい、高崎 陸と申します。恩師の期待を裏切らないよう、精進します。」
と言いがら、私も右手を差し出して握手する。
「私は熊谷 興十郎。徳川製薬の常務だ。広報もしている。そして、こちらは…」
「陸ちゃん!陸ちゃんだよね!私よ!!」
熊谷さんの隣にいた女性は急に私の両腕を掴み、グラグラ揺らす。
なになに、どうした急に!ん、もしかして…
「ひ、瞳?!」
「そう!常務から名前聞いて、もしかしたらと思ったんだよね!」
瞳は目を輝かせながら早口に話している。こういう場面でこんなに取り乱すのはどうかと思うが、慣れているのか、熊谷さんは落ち着いて聞く。
「越智、知り合いなのか?」
「はい!私、高校まではこちらの県にいたんです。陸ちゃ、高崎さんとは小さい頃からの知り合いなんです!」
十文字先生がチラッとこちらを見る。私はコクッと頷く。
「まあ、取り敢えず場所移すか。近くの店にでも行こう。」
十文字先生の提案で4人に外で話すことになった。
「じゃあ河上さん、行ってくるね。」
私が河上さんに話し掛けると、河上さんはなぜか放心状態だった。
「河上さん?河上さん!」
「え?!は、はい、行ってらっしゃい!」
どうしたんだろう。まあ、反応したし、大丈夫だよね。
河上さんに手を振って出掛ける。
扉が閉まった瞬間、両手両膝を床についた。なんなの?!あのゆるふわ美人!!先輩が下の名前で呼ぶなんて!私の知ってる限り皆苗字呼びなのに!!!
4人での話しは、私の方からは今までしてきた研究について、先方からは徳川製薬についてや仕事内容、準薬剤師の資格取得についてお話を伺った。
最終的には私の頑張り次第。ということが再確認されたわけだ。
「熊谷たちは今日帰るのか?」
十文字先生が聞くと、熊谷さんは、
「会社説明会も全て回り終えたが、せっかく来たし、明日は土曜日で休みだから、今日は泊まって明日帰るよ。どうだ十文字、久々に飲みに行かないか?越智達も、折角なんだから、2人で飯でも食いに行けよ。」
と言った。瞳が、パッと嬉しそうにしたが、すぐに心配そうに、
「でも、まだ本採用でない候補者とご飯に行ったりして大丈夫なんですか?」
と聞いたが、熊谷さんは右手を振りながら、
「お前は人事でもない広報だろ?心配ない。」
と言った。瞳は期待を込めてこちらを見ている。教授達は早速今日どこで飲むかの話しに入っている。私が何も言わずにいると、
「り、陸ちゃん、ダメ?今日予定あるの?」
シュンと下を向いた耳と尻尾が見えたような気がした。私は、可笑しくて、
「ふふ、ダメなわけないじゃん。行こうよ。」
尻尾が高速でパタパタ動き出したのは言うまでもない。
次の週の月曜日、研究室に入ろうと扉に手を掛けた瞬間、バッと扉が開いた。どうやら、河上さんが開けてくれたようだ。
「おはようございます。先輩。」
なんだか怖いぞ。「お、おはよう。」と答えて横を通り抜けようとすると、ガッと左腕を掴まれた。
「先輩。ちょーっとお話し良いですかー?」
顔は笑っているが、目が笑っていない。「う、うん。」と言っている間に、対面式の席に座らされた。話しを聞いていると、どうも瞳のことが知りたいようだ。まあ、昔から美人だったけど、更に綺麗になってたしな。気になるのは当然だ。少し天然なとこは変わらずだったけど。
なになに、先輩の3つ年上で、幼馴染み。大学で県外に行くまでは、よく一緒に遊んだりしていた。金曜日はそのまま2人で飲みに言ったから、研究室には戻らなかった。と。とーーー!
「なんで飲みに行くなら誘ってくれなかったんですか!」
「え、ええ…。瞳と河上さん接点ないじゃん。しかも、金曜日はバイトじゃなかった?」
う、私のバイトの日覚えてくれてる!嬉しい!!けど、けど!うう…
「…そうでした。」
そんなに瞳と飲みに行きたかったのかな?でも、もう瞳は帰っちゃったし…。取り敢えず謝るしかない。
「ごめんね?」
月日は流れ、私は無事K大学編入試験に受かり、晴れて徳川製薬の就職も決まった。
「かんぱーい!!」
今日は卒業式と謝恩会。卒業式は終わり、今、謝恩会がはじまったところだ。謝恩会とは、学生達が今までお世話になった先生方にお礼を伝える会だ。
「十文字先生、今まで本当にお世話になりました。」
「お前はあまり世話した記憶が無いな。河上の世話は大変だが。」
「先生!ひどいです!!私も頑張ってるじゃないですか!」
卒業生ではないのになぜか出席している河上さん。なんでも十文字研究室は人数が少ないため、河上さんも出席して良いと言われたらしい。そんな河上さんは、私の就職の話しで教授に大声で反抗してから、教授を過度に怖がることは無くなった。
こんなやり取りももう見ることはないのか…と寂しく思いながらも、楽しい時間を過ごした。
もうお開きの雰囲気が漂ってくると、須藤くんに「ちょっと話しがあるんだけど。」と言われて連れ出された。
「あー無事卒業出来て良かった。」
「あ、違う。須藤くんは余裕だったかー。優秀だもんね。」
何も答えてくれない。あれ?飲み過ぎたのかな?
「だいじょ…」
「いつ東京に行くんだ?」
急な質問だな。
「明後日だよ。」
「明後日?!早くないか?!!」
「忙しくなる前に土地に慣れたいから。」
「ああ……。そうか……。」
「寂しくなるね。須藤くんは大阪だったっけ。」
「…。」
「たまには、連絡してね。休み合うか分からないけど、また飲みにも行こう。」
「…。」
えーなんで何も言わないのー…。
「何か話しがあるんじゃなかったの?」
「無いならもう行くよ?」
私が戻ろうとすると、
「たまにかよ。」
「え?」
「俺と話すのはたまにで良いのかよ?」
なになに、どういうこと?!だってもうそんなに頻繁に話すこと出来ないじゃん?!私が何が言いたいのか分からないという顔でいると、須藤くんは少し笑って、
「本当にお前は…鈍感だよな。」
「どういう意味?」
「お前には直球で言わないとな。」
「……俺、お前のことがずっと好きだったんだ。」
「お前は俺のこと、そういう風に見てないのは分かってる。だから、返事はすぐじゃなくて良い。俺は遠距離でも構わない。考えてみてくれないか?」
え、え、マジ?全然気付いてなかったし。そりゃ須藤くんは話しやすいし良い人だと思うけど。
「……ごめん。」
「返事は今じゃなくて良いって言っただろ。」
「本当にごめん。」
「好きな奴がいんの?」
「ううん。いない。でも、私、そういうのはちょっと。」
沈黙が続く。沈黙を破ったのは須藤くんだった。
「はあ、そうか。何となく断わられるとは思ってたんだ。でも、これでお前と終わりにはなりたくない。これからも友達でいて良いか?」
「うん。須藤くんが良ければ、それは私からお願いしたい。」
「ふっ。あたりめーだろ!じゃ、またな!!身体に気を付けろよ!」
須藤くんは戻って行った。私はまだ驚きが残っていて、すぐには戻れなかった。
今日は最後ということで、研究室の大掃除をしに来た。今までお世話になった分、しっかり綺麗にしよう!河上さんも手伝ってくれたが、丸1日かかってしまった。
「あー疲れたね。手伝ってくれてありがとね。」
「いえ、先輩にはお世話になりましたし。長い間ありがとうございました。」
「私だって実験手伝ってもらったりしたし…お互い様ってことで!」
「はい!!」
この研究室ともお別れだ。色々あったけど、あっという間だったな。
最後に河上さんに、
「それじゃ、元気で。」
と言ったが、河上さんは涙ぐんでこちらを見ているだけで何も言わない。
「あと1年頑張ってね。」
と言って研究室を出ようとすると、ドンッと背中に衝撃がかかった。河上さんが背中にしがみついて泣いているようだ。
「せ、先輩…」
「ん?」
「こ、困らせること、言って良いですか?」
「ふふ、えーなんだろ。…良いよ?」
「好きです。」
え……。この状況で先輩としてって意味じゃないよね?昨日といい、なんで私なんか…。
「ありがとう。でも、ごめん。」
「グスッ。ふふ、分かってました。だから、困らせるって言ったじゃないですか。き、気持ち悪いって思いました?」
「そんなこと!そんなこと、思うわけないよ。嬉しかった。」
すると、河上さんはパッと背中から離れて、
「やっぱり先輩は先輩ですね!ありがとうございました。」
私は振り向いて、「あの、何て言って良いか…」と言葉を探していたが、河上さんは、
「私!諦めませんから!!私も徳川製薬に入ってみせます!だから覚悟しててくださいね!」
と満面の笑みで言った。私が、「え!でも、あの…」と言っていると、河上さんは私を扉の方に向かせると、外まで押し出した。
「十文字先生に最後の挨拶行くんですよね?!行ってらっしゃい!!その後もうこの部屋開けちゃダメですよ?先輩は卒業したんですから。頑張ってくださいね!」
そう言うと、ピシャッと扉を閉められてしまった。しばらくすると、「ううう…」という泣き声が聞こえてきた。
私は一度下を向いて目を瞑ったが、勢い良く目を開けて顔を上げ、隣の教授のところに向かった。
コンコン。「入れ。」中から十文字先生の声が聞こえる。「失礼します。」と言って入った。
先生は少し笑って、
「どうした、何かあったのか?昨日から?」
私は驚いた顔で先生を見た。先生は知っていたのだろうか?いや、まさか。
「いえ、何でもありません。」
私は一呼吸置いて、最後の挨拶を言う。
「今、河上さんと一緒にしていた大掃除が終わりました。なかなか綺麗になりましたよ。
これで、私がここですることは本当に無くなってしまいました。
ドキドキしながら、先生の部屋の扉を開けたのが懐かしいです。
先生には、色んなことを教えて頂いて、本当に感謝してます。」
もう、最後にお世話になりました。と言えば終わってしまう。どうしよう。本当にここを出て行かなければならない。
「大丈夫だ。」
「え?」
「お前は俺の自慢の教え子だ。お前なら出来る。俺が保証する。自信を持て。」
「先生…。」
「そして、いい加減自分の魅力にも気付けよ?」
「ふふ、私に魅力なんて無いですよ。」
笑った拍子に片目から涙がツーッと流れた。
『やはり、気付かないままか。ふふ。でも、いい顔になった。』教授は心の中で笑った。
「先生、お世話になりました。」
※注意
準薬剤師という資格は実在しません。
この物語のみの資格です。
また、この物語では、MRになるためには特別な知識や資格が必須のように書かれていますが、実際は有利になる可能性はあるかもしれませんが、必須というわけではありません。(それを知らない陸と河上さんに、十文字教授がわざと教えていません)




