第九話 つくろいエクスプレッション
こまちの弟と病室でしばらく談笑した後、私はこまちに外にある公園にまで連れられていった。
病院の外へ出ても明るい雰囲気を纏ったままの彼女だったが、一度深いため息をするとそれも消える。
あれは表面上のものだったとだと再び思い知らされて、私もつい険しい顔をしてしまう。
張り詰めた空気は居心地が悪く、先にこまちが苦笑して、話し出した。
「あはは、なんかごめん。月花がいないうちにいろいろあってさ」
「いろいろって?」
それを聞かれた彼女は悲しそうで、まずいことを訪ねたのかと後悔しかけた。
でも、こまちは決心してくれたらしい。答えが返ってくる。
「うん。話さなきゃ、だよね。
私ね、本当は三人姉弟の真ん中なんだ。お姉ちゃんがひとり、弟がひとり」
弟はさっき会った少年だ。姉には会ったことがない。
私たちが高校生だから、大学生かもう社会人になっているかだろう。
きっと弟くんやこまちのように、親しみやすい笑顔の持ち主だったのだろう。
「……月花が眠ってから、そう経たないうちにね。
ある事件が起きたの。見たことあるかな、容疑者が公開指名手配されたって、こないだ新聞に載ったの」
「あ、うん。見たことあるけど、それとなんの関係が?」
「被害に遭ったのは、大学生と小学生の姉弟。
姉は失血死、弟は重い後遺症が残って。次女は偶然、友達の家に行ってて無事だった」
落ち着いてそう告げるこまち。
私は、どうしても気づかないではいられない。
目の前の少女が目尻に涙をにじませていることに。
そして、その事件の被害者がいったい誰だったのか。
「もしかして」
「……とられちゃったんだ、私のお姉ちゃん」
あまりにつらい告白だった。
思い返せるこまちの笑顔が、ぜんぶ悲しみを押し込めるためのものにさえ思える。
私は思わず彼女を抱き寄せて、慰めようと背中を撫でた。
「寄り添ってくれるんだ。月花は優しいね。月花だって、大変なのにさ」
「こまちがすこしでも楽になってくれたら嬉しいから」
「相変わらず変な月花……ごめん、胸借りていいかな」
私が頷くと、彼女は飛び込んでくる。こらえきれなくなったのだろう。
感情を押さえつけることをやめた彼女をやさしく受け止めて、少しでも落ち着けるように撫で続けた。
いつの間にか私の服がびしょ濡れになっていたけれど、私は気にしなかった。
「あっ、ご、ごめんっ、私、こんなに濡らしちゃって」
「好きな女の子の涙を受け止められて、制服も喜んでると思うよ」
「……ふふっ、なにそれ。まるで制服が変態さんみたいじゃん」
頬に残った一滴を拭い、彼女は私の胸元から離れる。
気持ちは落ち着いたようで、目元を真っ赤にしながらも、その笑みは強がって隠しているふうではなかった。
そうしてこまちのことを知ることができ、私は彼女のことも受け止めようと心に決めた。
そんな中、視界にふと、どうしても目に止まる人影が映り込む。
「ちょっと月花? 私のこと口説いておいて、さっそく浮気?」
「いや……なんか、目立つ女の子だなって」
私たちの視線の先にいたのは、地図を片手にあたりをしきりに確認する女の子だ。
真っ白な肌と髪の毛に金色の瞳が輝いて、どこか彼女の周りだけ幻想的な空気が漂っている。
年は私やこまちと同じくらいで、着ているのはレースがあしらわれた上品な服だ。
地図を片手にということは、道に迷っているのかもしれない。
なら、助けてあげたほうがいいだろう。
「えっ、話しかけるの? なんか月花のそういう誰彼構わずなところ逆に尊敬する」
どうして目を細めたこまちにそう言われるのかよくわからず、私も首をかしげたが、彼女にはなんでもないとごまかされた。
それから私はその白い女の子に話しかけた。
彼女の名前は飼古川稲葉というらしく、どこかぎこちない敬語で行きたい場所があるということを教えてくれる。
それは私とこまちがさっきまでいた病院のことで、すぐそこの位置だった。
「せっかくだし、案内しようか」
「いや、もう目と鼻の先だし、ってか月花も今日はじめて来た場所じゃん」
「いえいえ、ワタシも案内していただけるのなら嬉しい限りです」
稲葉は全く表情を変えずに言う。
彼女の無表情はいつも仮面を着けているみたいで、何を考えているのかよくわからない。
とにかく病院に用事があるのは確かみたいで、私たちは彼女を連れて病院に戻る。
誰かに会いに来ていたのか、稲葉に尋ねてみると帰ってきたのは意外な答えだった。
「四条という少年を探していまして」
「四条? それってうちの弟ってこと?」
こまちが自身の名前を告げると、稲葉は目を丸くして、無表情だというのにわかりやすく驚いた。
「怪しい男の出入りがあったりしませんでしたか?」
「そんなこと言われてもな……そうだ、本人に聞けば早いかな?」
稲葉から悪意は感じられず、弟に会わせてもいいだろう。
それが姉の判断だった。
もちろん稲葉を連れて、彼のいる病室まで戻っていく。
その最中では、いつの間にこんな美少女と縁を持ったんだと冗談を言ったが、しかし稲葉の表情が一切変わらなかったこともあった。
そんなお気楽な空気で目的の病室にまで赴いて、扉を開く。
緊張はその瞬間から始まった。
「……っ、姉ちゃん!?」
広がっていた光景は、完全に私たちの想像していなかったものだった。
開け放たれた窓。目に涙を浮かべて叫ぶ少年。
そして、全身を白衣やマスクで覆い隠し、手にはナイフを握った男。
ナイフはまさに少年へと振り下ろされようとしているその瞬間で、切っ先はたしかに彼へと向けられていた。
突如現れた少女たちに男の動きが止まる。
同時に、理解が追いつかない私とこまちは立ち尽くす。
真っ先に動き出したのは稲葉であり、彼女は男の手元めがけて回し蹴りを繰り出して、ナイフを取り落とさせた。
勢い余って花瓶が蹴飛ばされ、陶器の砕ける音が響き渡る。
その音でやっと動かなければならないと認識し、私は咄嗟にナイフを蹴飛ばし、部屋の隅に追いやった。
男はそれ以上の凶器を持っていないらしく、開け放ってある窓から逃げ出そうとする。
男が躊躇うことなく飛び降りていったあと、窓の外を見てもその姿はなかった。
この病室はそう高い階ではない。木々に受け止められれば生きていられるだろう。
つまり、少年を狙った男はいまだ野放しなのだ。
「逃げられてしまいました」
稲葉はいたって落ち着いた様子で、残念そうに呟いた。
そんな彼女には、さっきまでただただ立っているしかできなかったこまちが詰め寄っていく。
「今のはなんなの。なんで私たちが狙われなきゃいけないの?」
「それはワタシにはわかりませんが、あの男は殺し損ねた相手を狙って現れたのでしょうね」
「……お姉ちゃんを殺したあいつってこと?」
「はい。人相は一瞬しか見えませんでしたが、目元は一致していましたね」
私にも、稲葉へ尋ねたいことはいくつもあった。
でも、こまちが一番吐き出したいものを溜めているだろう。
無理に止めるのもよくはないと思う。
彼女が稲葉と話しているあいだ、私は怯えきってしまった少年のそばに屈んで、せめて彼が追い詰められないように撫でてやるのが精一杯だった。
そうして慰めているあいだに、私はいいことを思いついていたのだが。
「大丈夫だよ、私たちもいるし……そうだ。君がきっと会いたい人、連れてこようか」
少年が首をかしげ、月花はこまちのかわりに笑顔を作る。
私のなかに思い浮かんでいるそれは、私からすればものすごくいいアイデアだった。
◇
せっかくのチャンスだったのだが、逃げられてしまった。失敗だ。
あの男が四条少年を狙いに来るだろうことは、あの警察官には知らされていたことだった。
記憶を盗んだ結果手に入った情報だ。
さらに、白衣とマスクをしたあの男が、昨晩緊急病棟の映像で映り込んでいた。
目元で確かに似ていると判断した稲葉は、その男を今からでも探し出して捕まえようと考えていたのだ。
またとない幸運だったのに、失敗してしまった。
また一晩桑名に会えないではないか。
さすがにそろそろ心配しているかもしれない。
いちおう用意しておいた奥の手は、早々に使ってしまうべきだろうか。
稲葉は目の前で息を荒らげる少女の問いに答えながらも、無表情のままそんなことを考えていた。