第九話 再会
翌日は晴天だった。暖かな春の朝を、俺は緊張の面持ちで歩いていた。
目的地は事務所からそう遠くない場所にある。バスに乗って、目的地近くのバス停で降りると、俺はその建物を見上げた。『梶野病院』と門の近くに緑色で書かれた看板がたっている。
美紗子の最後のヒントは『頭を見ろ』だった。だから俺は暗号の頭文字を拾って読んだのだ。
そして気づいた。
最初の文字を並べるとこうなる。
『かじのほすぴたる』
ホスピタル。つまり病院だ。
なぜ、わざわざホスピタルなんぞという言い回しをしたのか。それは何となく分かる。美紗子はさとうを抜けと書いた後で、病院という文字に、抜かなければならない『う』という文字が含まれていることに気づいたのだろう。だから、違和感のある文章が出来上がった。詰めの甘い美紗子がやりそうな失敗である。
俺は受付で美紗子の名と見舞いに来た事を看護士に告げた。
手には小さな花束を持っている。病院の近くにあった花屋で購入したものだった。
「まあ、今井さんのお見舞いですか」
驚いた口調でそう言われて、俺は戸惑った。それが表情に出たのだろう。看護士は笑って、こう言った。
「いやだ。私ったら。すみません。今井さんに初めて面会の方が来られたので、嬉しかったんです。今井さんは個室の205号室にいらっしゃいます」
「どうも」
俺はそれだけ言って、軽く頭を下げると、看護士に教えてもらった病室に向った。
美紗子の病名を、俺はもう知っていた。
病院に電話をかけて、美紗子に今日来ることを伝えていたのだ。さして迷うこともなく、俺は205号室の前に着いた。
ノックをする。
ノックをする手が震えているのが自分でも分かった。
情け無い。
ドアの向こうから、どうぞと言う声が聞えて来た。胸が詰まるような感覚が俺を襲った。俺はゆっくりとノブに手をかけ、ドアを開いた。
白を貴重とした病室は、太陽の光で明るく照らし出されていた。開いた窓から、少し熱気を含んだ風が、白いカーテンを翻し入ってくる。
そして。部屋の中央に据えられたベッドの上に、美紗子はいた。
俺は目を細めて、美紗子を見た。驚くほど痩せていた。高校の時の面影は無い。骨と皮だけの様に細くなっている。
目を逸らしたい感情に従おうとした時、美紗子が笑った。
俺は目を見張った。美紗子だ。そう思った。
笑顔は七年前と変わらぬ明るさを称えていた。
「七年ぶりね、涼」
「ああ」
美紗子の声に、疲れの色が見えた。俺は目を閉じて、涙が溢れそうになるのを堪えた。
美紗子は、癌なのだ。すい臓癌らしい。癌はいたるところに転移し、あと一ヶ月の命だそうだ。
俺は目を開けた。こんなところで泣いているわけにはいかない。痛々しい姿の美紗子の横に立った。持っていた花束を手渡す。嬉しそうにソレを美紗子が受け取った。
その時である。
(やっと逢えた)
美紗子の声が頭に響く。俺ははっとした。
美紗子の心の声が頭の中に響いたのだ。
予想外のことだった。俺はいつも力を制御している。その制御する力がはずれたのかもしれない。美紗子に逢って、動揺して。
「以外と早かったのね」
(ああ、涼だ。本当に涼なんだ)
美紗子の声が二重に聞こえてくる。美紗子は俺の手を握り、俺に折りたたみ椅子に座るように促した。美紗子に言われて、俺は持ってきた花束をベットの脇にある引き出しの上に置いた。
「子ども達は元気?」
「ああ、元気だよ。古木、覚えてるか? アイツが最近結婚してさ。その奥さんに今は預けて来てるんだ」
「そう。元気にしてるんだ。良かった。それにしても以外だな。古木君が結婚してるなんて」
「奥さん、若くて美人だよ」
「ふふ。悔しいんでしょう。先越されて」
楽しそうに笑って美紗子は少し疲れた様に、背中にそうように置かれた枕に身体を沈めた。枕をその背に添えていないと、起きられないのだと、美紗子は苦笑した。
「ゴメンね、涼。勝手に子供産んで」
美紗子が少しの沈黙の後、そう言った。
色の悪い顔が下を向く。
「でも、産みたかったのよ。涼が子ども作りたくないって言った気持ちも分かるから。一人で産もうって決心して、涼の前から姿を消したの」
(でも、本当は離れたくなんてなかった)
「バカみたいよね。結局一人でいることに耐えられなくなって、結婚して」
(幸せになんてなれるはずがなかったのに。涼から離れて、幸せになんてなれるわけがなかったのに)
美紗子が不意に顔を上げ、淡く微笑んだ。俺はただ、美紗子を見つめることしか出来なかった。
「結局結婚しても、子ども達を傷つけることにしかならなかった。自分が病気だって分った時、本当に怖かったの。子ども達を、あの男のもとに置いてなんて死ねないと思った」
(あの時にはもう、涼のことしか思い浮かばなかった)
「離婚して、結局私は一度捨てたあなたに、助けを求めるしかなかったの」
(本当はただ、逢いたいだけだった)
「でも、いきなりあなたに助けてなんて言えなくて。そこであなたに依頼することを思いついたの」
(死ぬ前にもう一度)
「本当に、本当にあの子達はあなたの子どもなのよ。嘘じゃ無いわ」
(もう一度あなたに逢いたかった)
俺は頷いた。
「分かってるよ。あの子達の能力は、俺のものと一緒だった」
「そう。私も驚いた。まさか。本当にあなたの能力を受け継いで生まれてくるなんて」
(……でも私は嬉しかった。だって、何より涼の子だっていう証になるんだもの)
「ねえ涼。私が死んだら。あの子達引き取ってくれる?」
美紗子は細い手で、縋る様に俺の腕を掴んだ。美紗子の爪が腕にくい込んで痛い。それ程強い力だった。
「あの子達にはもう、あなたしかいないの。勝手なお願いだって分かってる。あなたに黙って勝手に産んで、勝手に育てて、本当に悪いと思ってる。でも……」
美紗子は顔を伏せた。美紗子の目から涙がこぼれた。
「お願い。私が死んだら。あの子達にはもう……あなたしかいないのよ」
嗚咽が美紗子の喉から漏れた。俺はぐっと唇をかむ。
(お願い、涼。お願い)
「……当たり前だろう。俺が、子ども達を見捨てると思うのか?」
「涼……」
「お前は本当に勝手だよ。子どもが出来た事俺に言いもせず、勝手にいなくなって。やっと逢えたと思ったら、もうすぐ……死ぬだなんて」
俺は美紗子の腕を引っ張った。そして美紗子の細くなりすぎた肩を抱いた。
「本当に勝手な奴だよ。お前は……」
「ごめんなさい」
(ごめん。ごめんね、涼)
「なあ、本当なのか? 本当にお前……」
癌なのかと最後まで口に出来なかった。
美紗子の身体を見れば、美紗子の病名が嘘では無いことは分かる。でも、問わずにはいられなかったのだ。俺には、問わずにはいられなかった。俺が言おうとしたことを察したのか、美紗子が俺より先に口を開く
「癌よ。もうすぐ死ぬわ。もう体中に転移して治す術はないって。私ももう、あきらめた」
(本当は、死にたくなんて無い)
(せっかく涼に逢えたのに)
「どうしてっ……どうしてお前なんだよ。どうしてお前が……」
癌にならなきゃならないんだ。そう言い切る前に俺は口をつぐんだ。涙が、溢れそうになった。
「泣かないでよ。涼」
「泣いてねーよ」
俺はそう言って一層強く美紗子を抱きしめた。泣いていることを、俺は美紗子を強く抱きしめることで、誤魔化そうとしていた。
(愛してる。涼。本当はずっとあなたと一緒にいたかった)
「痛いよ。涼」
美紗子が俺の腕の中で身じろぎする。
(こんなに好きなのに、私が臆病だったばかりに、離れ離れになってしまった)
(……何もかも私のせいだ)
「いい加減に、離して」
(本当はずっとこうしていたかった。本当はずっとこうして、涼の腕の中で守られたいたかった)
「美紗子。俺もずっと好きだったよ。ずっと……お前を探さなかったのは、お前が俺の能力が嫌になったんだと、そう思ったからだ」
そう言ったら、美紗子が息をのんだ。
「涼。あなた、私の心読んだわね。……ダメって言ったじゃない。勝手に人の心読むなんて。本当に……バカなんだから。あなたの能力がいやになるなんて、そんなこと、思うわけないじゃない」
(私は能力も含めて、涼を好きになったのに……)
「結婚しよう、美紗子」
俺は美紗子を身体から離して、美紗子の病に犯されても、なお澄んだ目を見つめた。衝動的に口走ったわけではない。高校生の頃から、ずっと抱えていた思いだった。美紗子は一瞬動きをとめ、驚きの表情を作った。
「バカなこと言わないで」
(どうして? 私はもう死んでしまうのに)
「結婚なんてしたって、無意味でしょ」
「そんなこと無い。俺はもう、後悔したくない」
「涼」
美紗子が俺に戸惑いの視線を向ける。そんな美紗子に俺は、ゆっくりと語りかけるように言った。
「愛してる。美紗子」
美紗子が息を飲んだ。
「もう、俺の前から逃げ出さないでくれ。一度くらい、俺のわがままに答えてくれよ」
美紗子の目からまた涙が流れた。
「私も……私も、愛してる。涼」
「結婚しよう。美紗子」
俺はもう一度そう言った。
「死ぬなんていうな。俺のために、出来るだけ長く生きてくれ」
美紗子は頷いた。涙で顔をぐしゃぐしゃにして、それでも頷いてくれた。
俺はそんな美紗子を、もう一度強く抱きしめた。