第七話 最後のヒント
ぬるぬるになった風呂場の床の後始末をして、子ども達を風呂から出し、ベッドに寝かしつけるまでに一時間はかかった。それまで待っていてくれた古木夫婦を居間のソファーに座らせ、二人の前にお茶を入れて出す。俺も二人の前に座った。
「ビックリしちゃった。あの子達の身体」
アキさんがそう呟いた。子ども達の身体を見て古木夫婦も絶句していた。その後子どもの傷の手当てを、二人して手伝ってくれたのだ。
「酷いところで育ったんだな。あの子達」
古木もいつになく真面目な顔で言う。俺は言葉もなく頷いた。
「ねえ、亮君。私たちの子には絶対に虐待しないようにしようね」
「当たり前だろう。あんな酷いこと出来るわけないじゃないか。アキちゃんの産む子に」
「やだ、亮君。私の子じゃなくて、亮君と私。二人の子でしょ」
放っておけばいつまでも続きそうなイチャイチャトークを、俺は咳払いして終わらせた。
「うぉっほん。それはさておき、アキさん。快のジーンズの中、何か入ってましたか」
「あ、はいはい。コレが入ってました」
アキさんは我に返ったのか、思い出したように手を打った。そして小さく折りたたまれた紙を俺に差し出す。俺はそれを受け取ると、紙を開いた。その紙は白い便箋だった。そこには一人の女性の名前が書かれていた。
『坂田洋子』
俺はその名前に覚えがあった。高校の時の同級生で、美紗子の親友だ。
「坂田洋子って、今井さんの友達だよな」
「ああ。多分な」
「会いに行けって事なのかしら?」
首を傾げたアキさんに、俺は肩を竦めて見せた。
「多分ね」
俺はもう一度紙に目を落とし、裏向けてみたが、他には何も書かれていなかった。
「何だが、拍子抜けだな」
そう言った古木の言葉が、一番今の場の空気を的確に表現していただろう。
俺はとりあえず、坂田洋子に会いに行くと古木たちに告げ、古木夫婦はもう夜も遅いからと自宅へ帰って行った。
翌日。
俺は爽、風、快を連れ坂田洋子の自宅を訪ねた。
坂田洋子の家の住所も電話番号も、同窓会名簿に載っていた。高校を卒業してから何年もたっているので、引越しなどで住所が変わっているという危惧もあったが、そんな心配は無用だった。
坂田洋子の家は何処にでもあるような住宅街の中にあった。築十年位のこじんまりとした庭付きの一戸建てだ。庭は綺麗に雑草が抜かれているが、木が三本生えている程度で、他は花一つなく殺風景だった。呼び鈴に応じて、姿を現した坂田洋子は、微笑を作って俺と子ども達を迎えてくれた。
「一ノ瀬君はあんまり変わらないわね。私はすっかりオバサンになっちゃったけど」
ソファーに座った俺と子ども達に、麦茶の入ったコップを出しながら、坂田洋子は笑った。
俺が見る分には、坂田も差ほど高校の時と印象は変わらない。化粧をしているか、いないか位の差に思われた。
「坂田だって変わってないよ。街ですれ違ってもすぐに気づくくらいには」
「それって、褒めてもらってると思っていいのかしら」
「もちろん」
「お父さん。お庭に出て遊んでもいい?」
大人の会話に口を挟んだのは、言わずもがな、風である。
「いいわよ。三人で遊んでらっしゃいな。家の庭には、むしられて困るような植物はないしね」
笑顔を向けられて、風は残りの二人を連れて玄関へ向った。靴を取りに行ったのである。
「一ノ瀬君がここに来たって事は、美紗子の暗号を解いたって事でしょ」
俺が子供たちに庭の外には出るなよと、注意した後、坂田がそう言った。
「いつ、美紗子と会ったんだ?」
「そうね、直接会ったのは一週間前かな。でも、失踪してすぐに電話は貰ってた。だから、あの子達が美紗子の子どもだって事も知ってるし、本当の父親があなただってことも知っている」
俺は憮然とした表情を作った。美紗子が失踪した直後、坂田に俺は美紗子の所在を尋ねたのだ。だが彼女は全く知らないと俺に言った。アレは嘘だったのだろうか。
「どうして言わなかったって顔ね。私はね、一ノ瀬君。一ノ瀬君にどうしても、何があろうとも、美紗子を見つけ出すっていう意気込みがあったら、美紗子が何処にいるか教えるつもりだった」
「……」
「でも私にはそうは見えなかったのよ。確かに一ノ瀬君は美紗子を探していたけれど、見つからなかったらそれでもいい、そんな顔してた」
俺は返答に窮した。坂田の言った通りだった。美紗子が俺に何も言わずに、失踪した理由を、俺は美紗子が俺の能力が嫌になったからだと思っていた。それならば無理に見つけ出して、お互いに傷を広げる必要は無いと、俺はそう考えていたのだ。
「美紗子は言ってた。前に一ノ瀬君と子供の話しになった時、一ノ瀬君、俺は子どもはいらないって、そう言ったそうね」
「そんなこと言ったけ」
俺はついそう口に出していた。坂田は眉を上げた。
「覚えてないの? 美紗子はそれを物凄く気にしてたみたいよ。それで、あなたのもとから離れたって言ってたわ。一ノ瀬君の重荷にはなりたくないって」
「そんな、重荷だなんて。言ってくれてたら俺は……」
俺は、どういう反応を示しただろう。
実際。俺は子どもを作ることは考えていなかった。その理由は簡単なことだ。俺と同じ苦労を、生まれてくる子どもに背負わせたくなかった。それを美紗子に言った事があったのかも知れない。覚えてはいないが……。
俺は小さい頃、自分の持つ能力が特異なものだとは、思っていなかった。だが周囲にいる人間は違った。
今でもはっきり覚えている。俺が今の風達と同じような年の頃、母親に叫ぶように言われたあの言葉を。
『いやっ、近寄らないで。違う。あなたは私の子じゃない。気持ち悪い』
母親がそう叫ぶにはそれなりの原因があったはずだ。でも俺はそれを覚えていない。ただ言われた言葉だけが、今でもはっきりと脳裏にこびりついて、離れないのだ。
その後母は精神に異常をきたし、病院に入った。しばらく父と二人で暮らしていたが、中学に上がる頃に、俺は祖父に預けられた。父もきっと思っていたのだ。俺のことを、気持ち悪いと……。
「一ノ瀬君?」
はっとして俺は坂田に目を向けた。余計な事を思い出していたようだ。今はこんな感傷に浸っている場合ではない。
「悪い」
「別に。でもちょっと安心したかな。子ども達をつれてきた一ノ瀬君の顔。すっかりお父さんの顔になっていたもの」
「そうか?」
「そうよ。私一ノ瀬君は子どもが嫌いだと思ってたから、美紗子が一ノ瀬君に子どもを頼みたいって言った時、本当に大丈夫かしらって思ったもの」
「でも、美紗子はどうして俺に子どもを頼みたいなんて言ったんだ」
俺の問いに、坂田は一瞬しまったというような顔をする。俺はそんな坂田に追い討ちをかけることにした。
「美紗子が子どもたちを自分の手元から放すと言うのが、そもそも信じられないんだ。美紗子なら例え離婚しても、自分ひとりで何が何でも子どもを育ててみせるっていうだろう。そういう性格だからな」
俺はそこで一旦言葉を切る。坂田の顔から笑顔が消えた。
「だから俺は最初に電話を貰った時から考えていたんだ。美紗子は今、自分の意思じゃどうにもならない問題を抱えているんじゃないだろうか。一度捨てた男を頼るしか出来なくなるくらいの、危機を迎えている。そう言いかえてもいい」
「ふーん。結構考えてたんだね。一ノ瀬君も」
「坂田って、前から思ってたけど俺をバカにしてるだろ」
「バカにはしてないわよ。親友を取られて拗ねてるだけ」
笑顔で返されて、俺はまたも憮然とした表情を作った。
「まあ、美紗子に降りかかった危機がどんな物かは、会ったら分かることよ。私には美紗子を救うことはできないもの。美紗子が幸せになれるように、ちょっとしたお手伝いをすることくらいしか」
「で、坂田は美紗子に、どんなちょっとしたお手伝いを頼まれたんだ?」
俺がそう言った時だった。
「あ、危ない」
坂田が急に立ち上がった。坂田は庭に目を向けている。俺も背にしていた庭を振り返った。
「あのバカ」
ついそう言葉が出た。庭木に風がよじ登っていた。そう高くはないが、細い枝に足を絡ませた子どもは今にも落ちそうだ。もし下手な落ち方をすれば、どこかの骨を折るかもしれない。
俺はガラス戸を開いて風の元へ駆け寄ろうとした。
「風」
俺の声に驚いたのか、風が手を滑らせた。
落ちる。
俺は咄嗟に能力を使った。坂田がいることなど頭から吹き飛んでいた。
風の落下が止まった。重力を無視して、風の小さな身体は地面から二十センチくらい上に浮遊している。
俺はほっと息を吐き出した。
「大丈夫なの」
坂田の慌てた声に、俺は振り向いた。その背後で風のイテッと言う声が聞こえる。俺が注意を逸らしたから地面に落ちたのだ。まあ、少しくらい痛い目をみてもいいだろう。
「ああ、大丈夫」
「はぁ、良かった。子供って身体が柔らかいから、なかなか大怪我にはならないのよね」
そう言って、坂田はほっと胸を撫で下ろす。
どうやら坂田には風が空中で一旦停止したのが見えていなかったようだ。坂田から見たら風は、俺の背に隠れていたのだろう。
「大丈夫?」
坂田が走り寄ってきて、座り込んだ風に手を差し出した。
「ごめんなさい」
落ちた拍子に枝を折ったらしい。手にしていた枝を差し出して、風が殊勝に謝った。坂田はその枝を受け取る。
「別にいいわよ。怪我しなかったら。でも、もう勝手に木に登ったらだめよ。落ちたら危ないんだから」
風を立たせた後、坂田は腰に手を当てて、風を叱った。俺が口にしたかった言葉を先に言われて、俺は言葉を捜した。
「風、何でお前は木に登ったんだ?」
「あのね、あそこにね。鳥がとまってたの」
答えたのは快だった。
「それで捕まえようとしたのか?」
俺がそう問うと、風は首を横に振った。
「ううん。近くで見ようと思って」
俺は溜息を吐いた。好奇心が旺盛といおうか、なんといおうか。
「もう、木には登るなよ。その約束を守れるんだったら、もう少し遊んでいていいぞ」
「ホント」
顔を輝かせて、三人が俺を見上げる。俺は重々しく頷いた。
「やったー」
そんなに嬉しかったのか? と疑いたくなるほどの大声で、子ども達は喜んだ。
「まあ、一件落着みたいだし。部屋に戻りましょうか」
坂田に言われて、俺は頷いた。その拍子に気づいた。靴下のまま、庭に出ていた事に。
「あ、一ノ瀬君。部屋に上がる時は靴下脱いでね」
振り返った坂田にそう釘を刺されて、俺は苦笑せざるをえなかった。坂田の言うとおりに靴下を脱いで、俺は部屋へ上がった。
出された麦茶の最後の一口を飲み込んだとき、坂田が口を開いた。
「美紗子に、一ノ瀬君が来たら言ってほしいと言われたことを言うわね」
俺は頷いた。坂田は神妙とも言える顔つきで、言葉を発した。
「頭をみなさい」
「は? どういう意味だそれ」
「さあ? 私には分からないわ。美紗子にはそれだけを言えばいいって言われてるから。ヒントはコレで最後だから、分からなかったらもう美紗子とは会えないわね」
坂田の言葉に眉を顰めて、俺は言った。
「美紗子に、見つけられなかったらバツとして、一生子ども達の面倒を見ろと言われたよ」
「それが嫌で、一ノ瀬君は美紗子を探しているわけ?」
坂田の顔つきが一瞬剣呑な物に変った。俺は首を横に振って、その問いを否定した。
「違うよ」
「そう。なら良かった。私としては早く美紗子に会って欲しいと思っているの。美紗子もこんな面倒くさいことしないで、素直に一ノ瀬君に会いたいって言えばよかったのにね。美紗子も妙なところで強情だから。……時間がないのに」
俺は坂田の目を見た。坂田が一瞬怯んだ顔をした。
「時間が無いってどういうことだよ」
「ああ、気にしないで、いや、気にした方がいいのかしら、この場合。ああ、もう、言っちゃったからしょうがないか。美紗子にはね、もう時間が無いの。だから。一ノ瀬君。お願いだから早く美紗子を見つけてやって」
かなり慌てている坂田に、少し圧倒されつつ俺は頷いた。
「でも、そこまで言うなら俺に美紗子の居場所を教えてくれたらいいじゃないか」
「そんなことしたら、美紗子に化けてでられるわよ」
苦笑交じりに、坂田が言った。
「……そう、かもな」
俺はそれだけ言って立ち上がる。
「ありがとう。今日はこれで失礼するよ」
「ううん、お構いも出来ませんで」
俺たちは顔を見合わせて、少し笑った。互いに気を使っているのが可笑しかったのだ。大人になったな、俺たち。そんな感じである。
俺は子ども達に声を掛け、坂田の家を後にした。