一歩一歩、前に進もう
◇◇◇◇◇
努力をするに差し当り、まず僕がすべき事といえば。誰もかれもが出来て当たり前の、さしずめ生き物の前提条件。
ーー歩く事。
まずは、それだろう。
……いや、違うな。どうやら僕は、動かす事から始めなければいけないらしい。改めて自分の状態を再確認すると、指先1つ動かなかった。
マジか。
いやいや、そう悲観する事でもないな。この僕が全力を出せばこの通りーーハハッ、どうだ。人差し指がピクリと動いたじゃあないか。
……風に揺られただけであった。
ん? 風?
「お、おじゃましまぁ〜す」
恐る恐ると言った感じに店の中へ入ってきたのは、マスターと同い年か、もしくはそれ以下の女の子。
この人形だらけの空間に、圧倒されているようだ。萎縮ともいっていい。
「ようこそ、リトル・リドル・ドールズへ。今日は、1人で来たの?」
こ、これはマスターの声。くそっここからじゃ見えない! 一体誰だこんな入り口近くに僕を置いたのは!
マスターでしたねすいません!
「は、はい。今日は私、1人で来ました!」
「そう。店内ではお静かに、ね」
「あわわっ、すみません……」
完全に店の雰囲気に呑まれた少女に、マスターは深呼吸をお勧めした。流石マスター。何たるご慧眼。
言われた通りに大きく息を吸ったり吐いたりした少女は、ようやく落ち着きを取り戻した。それでも周りの人形達を怖れる視線は変わらない。
……場違いだな、と思った。
この店に来る人間は、多くが貴族や一部の富裕層。人形といえど安くはないのだし、よほどの余裕がなければ指を咥えて鑑賞するしかない。
貴族なんかはプライドが高いのだろう。内心の怯えを見せずに、店内を「ふむふむ」頷きながら人形を手に取る。そういう意味でも、この慌ただしい少女は場違いなのだ。
というか、見えない。マスターが見えない。動けぇー! あ、指が動いたかも!
「あの、その、実はですね。今日は人形師さんにお願いがあって、来たんです。すいません」
「謝られても、私には貴女が何をお願いしに来たのか分からないけれど」
「す、すいません」
「……自己紹介をしましょうか。私はメリー。ミ……貴女の名前は?」
「ミリアと言います!」
「そう。いい名前ね。……私の次に」
「はい?」
「ううん、何でも」
変に自信のあるマスター。最高。
「それで、お願いというのは?」
「あ、はい……迷惑なのは分かっているんです。私、お人形が欲しいんです」
「欲しい。というのは、つまり……」
「……お金、ちょっとだけです」
ミリアという女の子は、ポケットから銀貨1つを取り出した。
確かに、少なすぎる。どの人形が欲しいのか知らないが、銀貨1枚では話にならない。その5倍でようやく、この店の1番小さな小指サイズの人形が買えるくらいだ。
例えマスターが聖母の様に優しかろうが、お金が無ければ人形が作れない。おいそれと頷けるお願いではないな。
「その銀貨は、どうしたの?」
「えっと、私の全部です」
「そう。そこまでして欲しい物があるのね。一応聞いてみるけど、何が欲しいの?」
「それは……」
ミリアが見たのは……僕? いやいや、まさか。しかしどうだろう。ミリアは着実に僕へと近づいているではないか。
い、いくら僕の出来栄えが凄かろうと、この身はマスターのもので……残念だね。嬉しいのは嬉しいけど君の期待には応えられないーー
「この、クマさんが欲しいんです」
ミリアが手に取ったのは、僕の隣にいたピンク色のクマであった。
……そっか。良かった。
「良かった……うん、ミリアちゃん。そのクマでいいの?」
「……いいんですか?」
ミリアは自分でお願いをしたくせに、申し訳なさそうに聞いた。
「ーー金貨1枚と銀貨2枚」
マスターは言った。
「その、人形というよりはクマだけど。売り物というよりは飾りだけど。妥当な値段をつけるなら、そのくらいかな」
「……そうですか」
ミリアはゆっくりとクマを元の位置に戻そうして。しかしマスターの言葉はまだ終わっていなかった。
「1週間、という期限付きなら。特別に銀貨1枚でもいいよ」
「えっ……ほ、本当ですか!?」
「うん。ちゃんと返してよ?」
「はい! 絶対に!」
◇◇◇◇◇
マスターは優しすぎる。
大体、ミリアの言葉に嘘がないとは限らないではないか。1週間経っても返ってこなかったら? よしんば返ってきたとして、傷や汚れでもついていたら大きな損害だ。
「不満なの?」
心臓がドキッと跳ねた。いや、僕には跳ねる心臓も流れる血も存在しないけど。
動かせない体ではあるが、どうにかして視界の中にマスターの顔を捉える。
マスターはこちらを見つめていた。蒼の双眸が僕の心を探るように。黄金の髪は僕の体をくすぐる。
ってか、パジャマ姿のマスター可愛すぎる! ほのかに膨らんだ胸とか。破壊力ありすぎてびっくりするわ。
……何より、その容姿。整いすぎたシンメトリーの顔は、100人が100人こう答えるだろう。
ーーまるで、人形のようだと。
「私、間違ってたかなぁ」
マスターは大きな欠伸をする。その全てが絵になるのだから、美少女というのは困りものである。
……しばらくしてマスターは目を閉じ、動かなくなった。時は深夜の12時。いつもと同じだ。マスターはこれから、朝の6時まで起きることはない。
ーーピクリと、僕の指は動く。念じればいいのだ。巡り巡る糸が自分の体に流れていると仮定して、こうーー手を。足を。動かす。
生まれたての子鹿よろしく弱々しく、何より作り物のように不気味な動きだが、僕は確かに今、自分の足で立っている。
「ぁ……あ」
どうやら喋れるようだ。どういう仕組みかは知らないが、色々と便利なので良しとしよう。これもマスターの素晴らしさだと思えば納得ができるというもの。
(ご安心を。この桜スマイルが、貴女の代わりに事を成しましょう……お休みなさい……桜・メリーゴールド)
マスターの優しさは、僕の厳しさで埋めよう。間違っていれば正せばいい。その役割は、僕がやればいい。
全ては、マスターの為に。