のこり数日のlove affair
なんだか急き立てるような音と共にドアが開く。停止した車体から、僕は駅のホームに着地する。階段を降りて、改札口へ。駅を出ると広がっているのは、一ヶ月ぶりくらいに見る地元の景色。妙に色鮮やかで、キラキラと輝いているようだった。
――さすが南国、日差しの強さが違うんだろうな。
空気も透き通っている気がした。街路樹の緑がくっきりとしているようにも。
東京と比べると駅前の道は広い。走る車がいないせいで、余計にそう感じられる。ずっとまっすぐな道。その両脇に並ぶのは、違う国に来てしまったんじゃないかと錯覚するような、ヤシの木に似た植物。背が高くて、てっぺんにだけ、フサフサと葉っぱを生やして。
きっとこの光景を初めて見た人は、びっくりするだろう。本当にここが日本だとは思えない。
――まあ、僕には見慣れた景色だけど。
そしてもうすぐこの見慣れた景色とも……。
いけない、と僕は首を振った。
もう少しでこの景色ともお別れなんだとか、センチメンタルなことを考えそうになってしまっていた。
そういうのはカッコ悪い。もっとクールでドライでなくちゃいけない。そんな生き方するって決めてるんだから。
振り返らない、後悔しない。やるだけのことはやって、前に進んでるんだから。
だから……着替えとか、参考書とか、赤本とか、ぎっしり詰まったバックを抱えて、僕は胸を張って家路についていた。口笛とか吹きながら。平然とした顔で。
そもそもが堂々の凱旋だった。
一ヶ月近く東京に遠征して受けた大学の試験の手ごたえはばっちり。結果はもちろん、合格通知のハガキが続々と届いていた。ほとんど全部受かっている。最後に受けた大学だけは……まあ、最初から無理目のラインだったからしょうがない。
僕のことを信用していないご両親と教師の「勧め」で受けさせられた、滑り止めの滑り止めの滑り止めあたりの大学、僕から言わせればホントしょうもないランクの大学なんかは、はっきり言って試験を受ける前から結果がわかっていたワケだし、ほかの大学にしても別に喜ぶほどのことでもないんだけど、合格するのが当たり前なんだけど、あのヒトたちがこれをどう思っているのかっていうのは気になっていた。
「滑り止めを受けろって言ってるだろ!」
というご両親の言葉に僕が、
「いや、だからココ、受けるって言ってるんだけど」
と返したとき、あのヒトたちはこう怒鳴った。
「お前の言っているそこは、滑り止めじゃない!」
――僕には滑り止めだったんだよ。あの程度の大学。ったく。
結果が出てから言っているわけじゃなくて、僕には最初からわかってたんだ。ホント。
あのヒトたちがどんな顔で僕を出迎えるのか、いまから楽しみだった。
家についた僕は拍子抜けしてしまった。
満面の笑みでクラッカー鳴らして、ケーキまで用意されてたら、いやみのひとつも言う気にもなれない。「お前ならやれると思っていたよ!」とか言い出しそうな顔して、実際そんなふうなことを仰って、おまけに悪気はないんだから、このヒトたちは……。
「あ、ありがとう」
こっちまでつられて笑顔になってしまって、楽しくもないのに。まったく、クールじゃない。
食卓の上に置かれたケーキの箱を見て、僕はちょっと驚いた。近所の店のものじゃなかった。電車で3駅くらいのトコにある店のケーキだった。
そこは「知る人ぞ知る」っていうのがはったりにならない、珍しい店だった。甘さ控えめで、上品で。でも味が薄いわけじゃなくてしっかりしていて。この店のケーキを食べると、いままで食べていた普通のケーキがみんな「おもちゃ」に感じられるってくらい。
僕の驚きは二つ。僕のご両親がこの店を知っていたんだ、ということと、わざわざ買ってきたんだってこと。
まあ、本当に喜んでくれているんだろうな、とは思う。
受験前は僕のことを信用していなかったくせに、そういうのをすっかり忘れてこんな風に喜んでしまえる、都合のいい「無神経さ」は好きになれないんだけど。
「さっそく下宿を決めないとな!」
ケーキを食べているときにそう言われて、気がついた。東京の大学に通うとなると、受験のときのようにホテル住まいってわけにもいかない。住む場所を決めないといけない。その前に、引越しの準備もある。これからあわただしくなりそうだった。ゆっくりできるのはあと数日といったところ。
――ま、こんな街に思い残したこともないんだし、別にいいや。
ショートケーキの上に乗ったイチゴをフォークでつつきながら、僕はそう思った。
「疲れただろう?」
とか、
「お風呂入ったら?」
とか、妙に世話を焼きたがる感じのご両親に従って、あれやこれや片付けていると、もう夕方になっていた。そういうの、うっとおしいって、いちいち噛み付いたっていいんだけど、僕はそれほど子供じゃない。彼らだって、根本的に悪いヒトたちではないのだ。きっと。たぶん。祝ってくれているんだったら、それを受け入れるくらいの度量はある。
言われるままにお風呂に入り、リビングに向かうと食卓に大量の料理が並んでいた。
「これは……?」
「向こうに行ってた間、ろくなもの食べてなかっただろ? 母さんが準備してくれたんだ」
父親のヒトがそう言って笑っていた。
「それはありがたいけど……」
食卓に並んでいる料理は、いくらなんでも多すぎた。寿司やら、てんぷらやら、から揚げやら。しかもすべてが山盛り。何も考えずにとりあえずご馳走のイメージのある食べ物をかき集めた、という感じ。センスがなくて、無駄に好意だけはあって。このヒトたちのこういうところが苦手だ。ペースが乱されてしまう。
「だいたいさっきケーキ食べたしさ……順番がおかしいよ……」
「まあまあ、デザートは別腹だよな!」
父親のヒトはあいかわらず豪快に笑っている。そうやって僕のおなかの具合を勝手に決めないでほしいと思う。本当にこのヒトたちは無神経だ。
そして空のグラスを僕に手渡してくる。
「……?」
「ほら、お祝いだ!」
ビールのビンをかたむけようとする。
「まだ、未成年だよ!」
さすがにこれにはつっこまざるを得なかった。
話に付き合って、ひたすら食べ続けて、気がつくと外はすっかり暗くなってしまっていた。
部屋に戻って、もう永久に使わない参考書を片付けていると、おなかがぐうと鳴った。そんな馬鹿な、散々食べたのに、と思って時計をみると11時。ちょうど夜食の時間だった。
受験勉強をしていたときは、必ずこの時間に夜食を食べていた。ペンを指先でくるりと回して、参考書を広げたい気分にもなってくる。習慣とは恐ろしいものだ。
――もう夜食を食べる必要ないんだけどな。そもそもおなかすいてないし。
と思いながらも手持ち無沙汰になって、僕はキッチンに向かった。そこでは母親のヒトがまだ洗い物をしていた。
冷蔵庫を開けて、なんとなく中身を眺めていると、正体不明のピンク色の箱が冷蔵庫の扉の内側に刺さっていた。丁寧にラッピングされて、リボンまでついている。
――なんだろう、これ?
背後に気配を感じて振り返ると、母親のヒトがニヤニヤ笑いながらこちらを見ていた。
「それ、アンタにだって」
「僕に?」
「そう。かわいーい女の子が持ってきたのよ」
「はあ? 何それ?」
ちょっと考えて、思い当たった。バレンタインだ。
僕が東京に行って大学入試のテストを受けている間に、世間ではそんなイベントが開催されていたらしい。
当然もらえるはずはないと思っていた。その日、僕はこの街にいないわけだし、東京には知り合いなんていないし。
――けど、家まで持ってきてくれた子がいたのか。
よく考えてみるとそれほど驚くことでもなかった。毎年山ほど貰っていて、そもそも甘いのが得意じゃないのもあって、チョコレートに興味がなくなるくらいだったんだから。
山ほどいた女の子たちのうちのひとりが、僕の家まで持ってこようと思いついても、不思議ではない。
冷蔵庫の中の、きれいにラッピングされたチョコレートの箱を見つめる。
ま、悪い気分じゃない。
いったい誰だろうな、と頭の中のフォルダを開いて、ズラリと並んだ「オトモダチ」の女の子たちの写真を眺めているうち、ひとりの写真がピックアップされた。
その子は僕よりひとつ年下で、二年生になってから僕と同じ部活に入部した後輩だ。
強くつかんだら折れてしまいそうなほどに痩せていて、でも病的っていう感じじゃなかった。薄く日焼けしているせいもあるだろう。
手足が長くて、顔が小さくて……あまりにもほかの子とバランスが違うので、別の種類の生き物――たとえば妖精とか――じゃないかって思えるくらい。
黒い髪がふわりと彼女の小麦色の肩――ちょうど鎖骨の辺りに落ちて、長いまつげを伏せるようにしてうつむいている姿なんかは、セクシーって言葉には胸とかお尻とかが必要不可欠なわけじゃなかったんだ! という新たな発見を僕に与えてくれた。
それでいて、顔を上げてにっこり笑うと、本当に高校生? というくらいに可愛らしい。
彼女を見ていると、
――ああ! セクシー!
と、
――ああ! 可愛い!
の二つのキモチの間を行ったり来たりすることになってしまう。
こんな子、普通ならほうっておくわけにはいかない。なんとかして「お近づき」にならなきゃいけないわけなんだけど、残念ながら僕は受験生だった。そんな暇はなかった。
首尾よく「お近づき」になって、受験勉強の隙間に無理やりふたりの時間を作ったとしても、結局、僕は遠い大学に行ってしまう。そうすると彼女に辛い気持ちを味わわせてしまうことになる。
学校の帰りとか、図書館の自習室の前とか、彼女とはなぜか顔を合わせる機会が多かった。そういうとき、思わず「偶然だね」と声をかけそうになるのも僕は必死でこらえていた。いや、何回かは声をかけたけれども。その先の「やっぱり運命だね」のくだりまではたどり着かなかった。
彼女の笑顔がくっきりと僕のココロに浮かぶ。
彼女はよく笑う子で、友達の前では「セクシー」でも「可愛い」でもない、年相応の表情を見せていた。僕の前では緊張しているのか、ちょっと澄ました顔をしていることが多かったけれど。
そういうあれこれを思い出して、この一年で「できなかったこと」を考えて、なんだかチクリと痛んだ。
ま、取り返せないことをいつまでも考えたって仕方がない。意味がない。そういう生き方はしないって決めているんだ。
――彼女に辛い思いをさせなかったってことはつまり、幸せにしたってことさ。
と言い聞かせて、僕は何も考えないようにした。
チョコレートのラッピングの隙間には小さな便箋が挟み込まれていた。それを取り出して、何気なくひっくり返して、便箋の裏を見て――。僕は深い深いため息をついた。
そこには彼女の名前が書いてあった。
部屋に帰って、便箋を机に置いて、ベッドに倒れこんで、僕はまた大きなため息。
頭に浮かぶのは彼女の笑顔。
残り数日で、何ができるってわけでもない。
たとえば一年後、僕は大学のキャンパスを歩く新入生の中に彼女の姿を見つける。
「久しぶりね」
そう言って彼女は微笑む。ちょっと誇らしげな顔で。
「久しぶり。本当にうちの大学に入ったんだ? ずいぶん無理したんじゃない?」
僕の通っている大学は彼女の学力では大変に難しいはずだ。
「ええ、とっても。ものすごく努力したのよ」
と彼女は目を細める。長いまつ毛が影をつくる。
「でも――約束したから。待っててくれたんでしょ?」
思わず、「さあね」とはぐらかしそうになる。いけない、こういうときはきちんと答えないと。
「もちろん、待ってたよ。キミのこと――キミともう一度会えるのを」
――なんて、甘ったるい妄想が一瞬頭の中をよぎって、僕は首を振った。
現実はそううまくはいかない。それくらい知っているんだ。結局、辛い思いをするだけ。
僕のことを大好きだと言ってた女の子。僕しかいないって言ってた子。次々に顔が思い浮かぶ。潤んだ瞳で僕を見上げて、手が触れたくらいで真っ赤になっちゃって。それでいて、その後は、大胆で……。
彼女たちは、しばらくするうちに、離れていった。あんなに好きだって言ってたのに。なんか思ってたのと違う、みたいな顔して。裏切られたって表情をして。
――裏切られたのはこっちのほうなんだって……。ったく。
今度の子は大丈夫だからと思って、こんなに可愛らしいんだからって。そしておんなじことを繰り返して……。繊細な僕は、毎回深く深く傷ついたのだ。
結局言えるのは、女の子は気まぐれだってこと。そこには悪気はなくて、気が変わったってだけのこと。
男の子はただ黙って傷つくしかないのだ。
でも、彼女は違う。今度こそ……。
――と悪いクセが出そうになって、また首を振る。
遠く離れて、しかもそれが一年。どうなるのか考えるまでもない。結果はわかりきっている。
だから、机の上の便箋を開くことはなかった。
とはいえ、受験結果の報告で高校に向かったとき、僕はどこかに彼女の姿がないかを探してしまっていた。
久々の学校は、下級生は新学期に向けてのロスタイムといった感じだし、同級生は受験の関係で出席が自由ということもあって、妙にふわふわとした空気に包まれていた。廊下をうろうろしている生徒も多い。
その中に彼女の姿はなかった。まあ、いたらいたでどうするつもりなんだってハナシなんだけど。
職員室の担任の机に近づくと、僕を見つけてちょっと困ったような顔で笑っていた。
「すごいじゃないか! やったな!」
そうは言いながらも、どう反応していいものやら、という様子だった。僕はココロの中でふん、と鼻を鳴らした。
――そりゃあそうだろうな。
と思った。
――あんたが無理だって決め付けた大学全部、正確に言うと最後に受けた一校以外は全部受かったんだ。そりゃあ、そういう反応になるよな。当然だよな。
表情には出さないように、僕はココロの中でだけ、そう思っていた。
難関大学に合格した生徒がいるというのは、学校の実績になるらしい。今年は地元の大学に進む子ばっかりだったから、僕の受験結果は先生方にとってはありがたいことだったようだ。
あんまりよく知らない教師にまで肩を叩かれて、「よくやったな!」と言われてしまった。
――別にあんたたちのおかげじゃないんだけど、おこぼれに預かりたいって言うならご自由にどうぞ。僕が損をするわけじゃないし。
なんてことを思ったりもした。もちろん口に出したりなんかはしない。
そうして気分よく担任との話を終えたのだけれど、彼が言った一言にはカチンときた。
「国立だけは……残念だったな」
――あんたに言われなくたって、わかってるんだ。
そんなこと……わかってる。
そうだ。あれだけ勉強をしたっていうのに、僕は本命の国立だけは受からなかった。どれだけ滑り止めの合格を積み重ねても、たった一校、うまくいかなかっただけで、この一年間の苦労がすべて無駄になるような、本当に足元がガラガラと崩れていってしまうような、そんな気分になった。
――だから考えないようにしていたっていうのに……。
最後の最後まで、僕の担任はカンジの悪いやつだった。
帰り道、後輩たちに捕まって、「すごいですね!」と言われたりして、それで少しは気分が持ち直した。
「これくらいなんでもないんだけどね」
とか答えたりして。平然とした顔して、ココロのどこかでは引っかかっていたけど考えないようにして。
そのときに僕を取り囲んだ後輩たちの中にも、彼女の姿はなかった。
有名な難関私立と言えば? という質問をしたら、ベストスリーはだいたい決まってくると思う。その三つ全部に受かってるんだから、僕は十分よくやったといえる。だから、別に思い悩む必要はない。
とはいえ、とはいえ――
自宅に戻って、自分の部屋で大きなため息。昨日とは違う種類のものを僕はついていた。
有名な作家の表現を借りるなら、「猫の引きずってきた何か」みたいな気分だ。
後悔しないような生き方をするって決めているから、やれるだけのことはやったのだ。この一年。
それでも――ダメだった。
「あーあ!」
と大声を出してみた。
何にも変わらないし、誰も答えてくれない。
「本命だけは、ダメだった……」
つぶやいた。
そして、何か引っかかった。
――本命か。
机の上に置いたままの便箋が目に入った。
この町にいるのも残り数日。けど――
――後悔しない生き方するって決めてたんだった。
僕は、机の上の便箋を拾い上げていた。
便箋を大事に抱えて、僕は出かける準備をしていた。
まずやらなきゃいけないのは、彼女を見つけること。全部、そこから。
――ったく。甘ったるいの、好きじゃないんだけど。
ココロの中で思いながら、この町に帰ってきて、ようやく、はじめて、すっきりした気分になれていた。