黒犬の訪問
夜の、まだそんなに遅くない時間。
フリシュ少年はシャワーを浴びていた。普段、無表情なわけではないが情動の薄い彼にしては珍しく、誰が見ても機嫌の良いふうで、微笑みながら熱いお湯を身体に受ける様は無邪気ですらあった。
それというのも、深夜に帰って来てはフリシュが目覚めるより早くいなくなってしまうこの部屋、いや、この城の主ヴァイス・ドラークフィールが、もうすぐ帰ってくるからだ。
日がな一日、部屋からほとんど外へ出ることもなく、ヴァイスの帰宅を待つばかりの身であるにもかかわらず、そのヴァイスと一緒に過ごす時間は片手で足りるフリシュにとって、1時間でも、30分でも、1分でも、その時間が増えるのはとても嬉しいことだった。
バスローブを羽織り、洗い髪の水気をふかふかのタオルで丁寧に拭きながらシャワー室から出ると、隣の部屋にかすかに誰かの気配がある。
『今夜は早く帰れる』と知らせを受けてからシャワーを浴び始めたのだから、ヴァイスにしても少し早すぎるような気がする。
このドラークフィール城の最奥にある部屋に出入りするのは自分とヴァイス以外では専属侍女の二人くらいだが、しかし、それにしては侍女としての仕事をしている感じではない。どちらかというと〝寛いでいる〟といった感じの、ゆったりとした動きの小さい、そんな気配なのだ。
ならば、やはり隣にいるのはヴァイスなのだろう。たぶん、思っていたよりも早く用事が片付いたのに違いない。こんな格好だがヴァイスなら気にはしないだろうと、少し高揚気味の気持ちを抑えながらドアを開けた。
「お帰りなさい、ヴァイス。思ってたより早かったんです……ね……」
ドアを開けた格好のまま、フリシュの動きは固まってしまった。
フリシュの目線の先、いつもヴァイスが腰かけて酒を飲むソファのその場所に、見知らぬ男がゆったりと座って寛いでいたからだ。
艶やかな緑の黒髪、大きめだがキリっとした瞳、ヴァイスに負けず劣らずの白い肌、紅を引いたかのように朱い唇、白鳥のような細い首。どれをとっても女性のようだが、その者は東洋の着物を粋に着こなし、エキゾチックな遊び人という風情だった。
意匠の違う二種類の犬だか狼だかの柄が描かれた着物は、上半身だけ左右の色が違っていて、パッと見ただけでは片袖を脱いでいるような勘違いをしそうだ。
「おう、お初にお目にかかりやす……」
フリシュに気づいた男は、手をあげてにっこりと笑って言った。まだ続きがありそうだったのだが、フリシュはバタンッとドアを閉めた。
(誰? 誰? 誰? 誰? だれ!? ヴァイスの知り合い? でも、どこから入ってきたの? お客さんなら、ルナさんかリサさんが連れてくるだろうし、だいたいこんな時間に前置きもなくいるって……)
そこまで一気に考えたフリシュは、一つの答えにたどり着いた。
(…………神代……者……?)
神代者とは、フリシュが古代民俗学の研究者に師事していた頃、師匠から聞いた言葉だ。曰く、人間が世界を席巻するより遥か昔から存在する者達の総称である。
それを思い出したフリシュは、今度はそーっと窺うようにドアを薄く開け、覗くようにして男の方を見る。
男はうつ伏せた顔を右手で支え、肩を震わせていた。小さく「クックックッ」という笑い声が聞こえる。そしてふと顔をあげたので、二人の眼が合った。瞬間、
「ヒャーッヒャッヒャッヒャッ!」
その美貌からは想像できない奇態な声で、体をのけ反らせ、腹を抱えながら、ものすごく面白い物を見たかのように笑いだした。
呆気にとられたフリシュはドアノブから手が離れたのにも気づかず、そのままスーっとゆっくりドアは全開になった。
「いやー、いまだにそんな反応する奴がいるたぁ、思ってませんでしたぜ。大概は『お前は誰だ!』って言うもんでしょう? 知らない奴が自分の部屋にいたら」
笑いの合間にそう言って、笑いすぎて出た涙を男はぬぐった。
『あなた誰ですか?』『ヴァイスのお知り合いですか?』『どこから入ったんですか?』
頭の中にある質問の、どれから発していいのか分からずに、フリシュはぼーっと立ち尽くす。すると男はすっと立ち上がり、さっとフリシュの目の前まで近づいた。
「お初にお目にかかりやす。黒犬と申しやす」
何気なく手を掴まれる。
「く……ろい………ぬ……?」
そのままゆっくりと部屋の中に引き込まれる。
「へい。お前さん、もうお気づきでしょう? おれが人じゃねえ事くれぇ……」
黒く美しい瞳に、鏡のようにフリシュの姿が映っている。
「お察しのとおりこの黒犬、人外の者でございやす。だが、悪鬼悪魔・精霊妖精の類とも、少々違っちゃぁいますがね」
「…………」
「黒犬たぁ、化け物の先遣りの事なんでぇ」
「先遣り……?」
「手短に言やぁ、〝前触れ〟。おれが現れた場所には必ず化け物が湧いて出る。まぁ、そういうモンなんで」
綺麗だがどこか非人間的な顔がぐっと近づくと、背筋に寒気すら感じる。
「……だからね、もうすぐココにも湧いて出ますぜ」
「…………」
「……化け物が……」
男はニヤッと嗤う。
「それも、凄ぇ大物だ……。滅多にお目にかかれねえような大化け物だ。……ほら、もうすぐ……。すぐそこまで…………」
男の口調に呑まれて、金縛りにあったように動けない。
「…………ほら……」
という言葉と同時に小さなカチャッという音。しかし、その音がフリシュの耳に届くか届かないかという瞬間に、
「そこに!!!」
「きゃああああああぁぁぁぁ!!!!!」
フリシュは目を瞑って両耳を塞ぎ、その場に崩折れた。
得体の知れないモノへの恐怖感がフリシュを支配する。そんなフリシュの上から降ってきたのは、
「……悲鳴で出迎えとは、ずいぶんだな」
よく聞きなれた、好もしい声だった。
恐る恐る見上げると、見慣れた美しい貌が言葉ほど怒ってはおらず、どちらかというと呆気にとられた風の珍しい表情を浮かべて見下ろしていた。
「ヴァ、……ヴァイ……ス…………」
恋人の名を口にするとホッとして、フリシュは自分を驚かせた男に眼をやる。
男は、床に膝をつきテーブルに突っ伏して拳で叩きながら、ヒーッヒーッと戯けたように笑っていた。
その様子にフリシュの方こそ呆気にとられていると、ふと両脇に手が差し入れられ立たされる。ヴァイスはそうしながら男に向かって言った。
「お前、黒犬か」
ヴァイスの声にやっと男は笑い止め、二度目の涙を拭いながら、
「へぇ、お久しぶりです、ドラークフィールの旦那」
平然と挨拶をした。
着替えを済ませたフリシュは、部屋に常備しているブランデーとグラスを対面しているヴァイスと黒犬の間に置いた。
昔馴染みらしい二人の間にはあまり遠慮というものが無いらしく、この黒犬という男、珍しいほどにヴァイスに対して馴れ馴れしいというか物怖じしないというか、とにかくヴァイスを恐れない数少ない神代者のようだった。ヴァイスの方も気にした様子もなくいつになく砕けた雰囲気でブランデーを勧めている。
「昼間にいい酒が送られてきていたようでね。いま持って来させてるが、それまでこれで我慢してくれ」
「おれぁ、酒なら何でも構いませんぜ。向こうも長かったんで東洋酒もまぁ、慣れました。こっちの酒なら尚更でさぁ」
ぼうっと立っていると仕種で隣に座るように促され、フリシュはヴァイスの隣に拳三つ分ほど開けてソファに座った。
「それにしてもずいぶんフリシュを可愛がってくれたみたいだな?」
ヴァイスの言葉にハッとして、フリシュは自分が名乗っていない事に気がついた。
「フ、フリシュ・ヴィントヴェーンです」
慌てて挨拶するのへ、黒犬はまたクッと笑いそうになるのを我慢したようだった。ヴァイスはというと横を向いて、やはり笑いそうになるのを我慢しているかのように肩を小刻みに震わせている。フリシュは消え入りたい心地になったが、さらっとヴァイスに頭を撫でられ、ほうっとなった。
「まぁ、確かに脅かしはしましたがね、嘘は吐いちゃいないでしょう?」
後半はフリシュに投げかけられたが、思い返してみるとなるほど、嘘は言っていない。ただ、効果的に脅かせる廊下側の扉の前へ、それとなく誘導されただけだ。
フリシュは、自分の無防備さに顔を赤くした。
「で、いつ戻ったんだ?」
「つい最近でさぁ。アッチはずいぶん物騒になっちまったんでね。おれは平和主義なもんで戻ってみりゃなんのこたねぇ、コッチもそこそこ物騒で。ま、それでも古巣はやっぱり馴染むもんです。どこにいたっておれぁ奈羅巴の、お化けでさぁ」
「一緒だった人間はどうした? たしか男二人と、女が一人……」
「よしてくだせぇよ。いくらなんでもとっくの昔に土の下で。いくらアイツらが人間離れしたバケモンみてぇな連中だったって、人間にはちげぇねぇ」
黒犬の目が、ふと遠くを見るように細まった。懐かしそうなその顔は、大事な人たちを思い出す時の表情に見えた。
楽しそうに会話を交わす二人を眺めていてふとある事に気づいた。
(名前が黒犬なら、妖狼の一族なんじゃ? でも、妖狼族とヴァイスの氏族はあんまり仲が良くないんじゃなかったっけ? だけど、こんなこと訊きにくいし……。それとも、氏族同士が仲が悪くても個人的にはそうでもない……ってこともあるのかな?)
自分の考えに入り込んでいるとヴァイスが気がついたらしく訊いてきた。
「なんだ? なにか言いたそうだな」
「え、で、でも、こんな事、訊いていいのかどうか…………」
フリシュは言葉を濁すが、ヴァイスは何も感じないかのように
「構わないさ。僕も黒犬も、お前が何を言ったところで気にはしない」
と言った。
「それじゃ、あの、思い切って訊きますけど、黒犬さんって『妖狼族』の方なんじゃぁ……」
「ああ、その事か」
フリシュの言葉をヴァイスは遮った。邪魔をしたのではなく、すぐにフリシュが何を考えていたのか察したのだ。
「まぁ、確かに四つ足じゃぁありますがね。妖狼族とはちと異類でして」
答えたのは黒犬だった。
「さっきも言ったでしょ、『化け物の先遣りだ』って。おれぁ、もともとそれだけの存在なんですよ」
「?」
いまいち分からないフリシュを見て、ヴァイスが口をはさむ。
「そうだな……。シュテック・マウルベールを知っているだろう」
「はい」
「アレの正体も承知だな?」
「はい」
「シュテック・マウルベールは『目』だ。その質は〝見ること〟それに特化している。だから偵察や見回りなどをやっているが、あれはあれだけで氏族を持たない。代わりにどの氏族にも属さない、中立の存在だ。それと同じように、黒犬も〝先遣り〟としての存在以外に意味はない。氏族もないから……」
「どの氏族にも属さない中立の存在…………」
「そういうことで」
黒犬はニマッと嗤った。
そういうことならこの二人が仲が良さそうなのはなんとなく解る。ルナやリサ、ハイデローゼなどの多種多様な人外がヴァイスに仕えている事からも、竜族はドラゴンだけで構成されているわけでない事はいくらぼんやりした自分でも分かっている。それどころか、ドラゴン種ではない構成員の方が多いようなのだ。
ヴァイスは個人の能力を重視し評価を下すので、いろんな特質を持った雑多な者達が集まってくる。強大な力を持つヴァイスからすれば取るに足りないような者でも、ヴァイスは使いどころを見つけてくれる。だからますます小さな氏族や力の弱い者達だけでなく、氏族を失った者やはみ出した者などが集まってくる……。
フリシュは、竜族をそんな風に解釈していた。知っている事といえば、ルナやリサ達の仕える態度やかつての恩師に聞かされた神代者の話、そして、ヴァイスが自分に接する時の態度くらいしかないのだが、空想半分・直観半分でそう自然に思っていた。
だからどこにも属さない黒犬は、竜族ひいてはヴァイスに歯向かう事のない存在として、ヴァイスにとって警戒せずにすむ友人のような関係が結べたのだろう。
と、そこへお仕着せを身に纏ったルナとリサがワゴンを押して入ってきた。
「失礼します」
「お待たせいたしました」
「お言いつけの御酒を持ってまいりました」
双子の様に交互に言うと、ささっと酒宴の用意を整える。
涼しげなグラスは青色で、三つ。そして、テーブルの真ん中には時代がかった分厚そうなガラスの酒瓶が、ドンっとふんぞり返るように置かれた。
「それではごゆるりと」
「失礼いたしました」
丁寧に頭を下げて、二人は下がっていった。
酒瓶のラベルには女性の手らしいなよやかな書体で「オーゲンブリック」と書いてある。
「あ、そのお酒はもしかして……」
あの宿屋のものではないか。
二月ほど前、フリシュはヴァイスに連れられて、彼の知り合いがやっているというとある山奥の宿屋に逗留したことがある。
山奥ということもあって客といえば自分達しかいなく、気兼ねなく過ごさせてもらった。
その宿の女将が趣味で酒を作っていて、確か「オーゲンブリック」という自作のラベルが貼ってあったはずだ。
女将の持て成しでヴァイスに提供されたその酒のご相伴にあずかり、最終的には三人での酒盛りになったのだが、その時の口当たりのいい美味しい酒の味が口中によみがえるのを感じた。
「……僕も、いただいていいですか?」
珍しく、フリシュのほうからねだってみた。酒は飲めるが好きという訳ではない。せいぜい誰かにつきあって飲む程度で、ヴァイスが楽しんでいるときも勧められれば飲みはするが、自分から手にした事はなかった。だが、この酒だけはもう一度味わってみたいと、時々思い出していたのだった。
「ん……、いや、やめておいたほうがいいだろう。どうしても飲みたければ、今はこっちで我慢するんだな」
そういうとヴァイスは、フリシュが用意したブランデーを青いグラスに少し注いだ。
フリシュはてっきり許されるだろうと思っていたので、またしても珍しく不服そうな表情で、
「じゃ、いいです」
と返した。
(だって、飲みたいのは女将さんのお酒だし)
「飲みたいって言ってんですから、飲ましてやりゃいいでしょうに。それとも、そんなに強い酒なんで?」
「強いと言えば強いかな。僕やお前ならともかく、人間にはな。薬も過ぎれば毒薬だ」
言いながらくいっと、青いグラスを煽る。黒犬も続いてグラスの中身を飲み干す。
「なるほどね。確かにいい酒だが、人にゃ、ちと毒かもしれませんな」
黒犬も同意したので、ますますフリシュが飲める機会はなくなった。
しかし一度は飲んだ事のある酒である。今更、毒だの強いだの言われても、フリシュは納得しかねた。
だが、黒犬の身の上話を訊くうちに、そんな事はすっかり忘れてしまった。
黒犬はヴァイス以上に人間社会に溶け込んでおり、一番フリシュを驚かせたのは、人間のふりをしていた訳ではないということだった。黒犬は黒犬として、特に三人の男女と交流があり、主にその人間のほうから騒動を黒犬に持ち込んでいたらしい。
最終的に巻き込まれる形で海を渡って、今までそちらで過ごしていたのだそうだ。
黒犬は、話してみると一目見た時の印象とは全く違っていて、とても人間臭かった。そういえば確かに、やたら表情豊かに笑っていたのをフリシュは思い出した。
「まぁ、おれは背負うもんがありゃぁしませんからね。身軽なら気ままに過ごすのも難しかぁねぇ。ただ、今はどこも居づらっくってしょうがねえや。あっちこっち、馴染みのねぇバケモンばっかりで」
「その事だがな、黒犬。危なくなったら僕のところに来い。今日、お前が尋ねてきたのも何かの縁だ。
不死城なら逸れ者の一人や二人、増えたところで問題はない」
「……覚えときやしょう。だが、おれはただの先遣りですからね。役には立ちゃしませんぜ? それに、他の連中以上に人と離れるのは…………」
「辛いか?」
「存在意義の問題でさぁ。『近くにオバケがいるぞ』と教える相手がいなけりゃ、おれはやることがねぇ」
「……そうだな。僕らは人に恐れられ、崇められて存在する。僕などは人間などいなくとも存在そのものは消えてなくなりはしないが、それでも……」
いきなり黒犬は手をぶらぶら揺らした。
「旦那、よしましょう。せっかくの酒が不味くならぁ」
「それもそうだな。フリシュ、もう一杯注いでくれ」
クッと笑ってヴァイスは言った。フリシュは言われるままに二人のグラスに酒を注いだ。
それからしばらく、黒犬の海の向こうでの暮らしぶりの話を笑いながら聞いた。
そして夜もすっかり更けた頃、
「すっかり長居をしちまった。そろそろお暇いたしやす」
「そうか。久しぶりに会えて、楽しかったぞ」
「そりゃぁ、良かった。おれも挨拶に来た甲斐があったってもんで」
黒犬は立ち上がると庭へ出た。ヴァイスとフリシュも続いて庭へ出る。いくらか気温が下がっていた。
「これからどうするつもりだ?」
「奴らを避けて、まだ無事そうな田舎にでも引っ込もうかと」
「それなら、海沿いはやめておけ。山も、結界の近く以外は避けた方がいい。そうだな、いっそアハトゥーゲかアルテベルクでも尋ねた方が早いかもしれん」
「ありがてぇ。旦那がそう言うんならそうしやす。じゃ、また会いましょう」
言うが早いか黒犬は一声遠吠えを上げると、ザッという音を立てて闇夜の中に消えて行った。
「また…か。会えればいいがな」
ヴァイスがぽつりと言った。
フリシュはそんなヴァイスの顔を見上げたが、何も言わなかった。
ヴァイスが優しく微笑んでいたからだ。
少しの間、二人で黒犬が消えた方角を眺めていたが、ごく自然にヴァイスはフリシュの肩を抱いてきて、室内に連れ戻った。
ソファに並んで座り、酒瓶の中身を二つのグラスに注ぐと一つはフリシュに差し出す。
「え、でも、さっきは駄目だって……」
「黒犬がいたからな。あいつの前では飲ませられん。いらないなら僕が飲む」
「いいえ、貰います」
いまいちヴァイスの言う事が理解できなかったが、どうしても飲みたかったフリシュは慌てて受け取り、一息に飲み干してしまった。
「はぁ、やっぱり美味しい」
「そんなに美味いか」
ヴァイスはニヤニヤしながら訊く。
「はい。あの時も思ったけど、今まで飲んだどんなお酒よりダントツです。何が違うんだろう? やっぱりお水とか材料ですか? それとも作った人の技術とか」
「その全部だな。…………フリシュ……」
ふと顔を近づけてくると耳元で息を軽く吹きかけるように名前を呼ばれた。
とても不思議な事に、その行為でフリシュの身体がいきなりカッと熱くなる。
(????????????)
(なんで? 別に、触られてもいないしそんな話もしてないのに!?)
たったグラス一杯の酒である。酔うほどではない。それに、この熱さは酔いのそれとは全然違う。顔が赤くなっているのが自覚できる。身体の熱が下半身に集中しだす。
自分自身の変化に戸惑っていると、いつのまにか目の前にヴァイスの白皙の美貌があった。
視線がその形の良い薄い唇を捕らえる。
金縛りにあったように動けないでいると見つめている唇がゆっくりと近づいてきて…………。
フリシュは目を閉じるとヴァイスを受け入れた。それだけで身体中が敏感に反応している。
長い口づけの後、やっと解放してもらえた時には、すっかり力が抜けていた。
「お前はあの晩、ああいう事になったのは植えてあった花木の香りのせいだと思っていただろう?」
「……それって、まさか…………」
「女将もそんなつもりで作ったのではないだろうがな。人間が飲んでも毒にはならない。毒にはならないが、そもそも人間が飲むようには出来ていない」
ヴァイスの言う「あの晩」の事がまざまざと思いだされる。言われてみれば、今の自分の状態ととても良く似ている。
「なんで、言ってくれなかったんですか……」
熱い吐息混じりに不満げに小さな声で抗議する。あらかじめ言っておいてくれれば良かったのだ。教えておいてくれれば……。
「噂には聞いていたが、あの時が初めてだったからな。さすがの僕も気がつかなかった。気付いたのはお前の様子がおかしくなってからだ」
「じゃなくて、さっきです。知ってたらぼく、飲みたいなんて言わなかったのに……」
「僕は飲ませたかったぞ。飲ませてお前の様子を見たかったのにお預けを喰った。まさか黒犬が来ているとは思わなかったからな。こんなお前を、他の男に鑑賞させてやるつもりはない」
一応は庇ってくれたという事か。それには感謝せねばなるまい。それでも聞き捨てならなかったので、ヴァイスの台詞の前半部分には抗議をした。
「…………悪趣味です」
フリシュの言葉を聞いてヴァイスはクッと笑った。さっきからニヤニヤ笑いが止まらない。
普通なら、こんなにニヤニヤした顔はだらしなく見えるものなのに、ヴァイスは悔しいくらいに奇麗なままだ。
(ああ、なんでぼくはこの人を好きになっちゃったんだろう)
(意地悪だし、冷たいし、強引だし皮肉屋でちょっと変態入ってるし、時々子供みたいで、でもすごく強くて頭も良くて、とっても奇麗で…………)
悪口を考えていたはずなのに、いつの間にか褒めてしまっている。
(ぼくのこと、愛してるって。一緒に生きて一緒に死ぬって…………言ってくれる……)
ヴァイスを好きになった理由をどれだけ考えようと、答えはとっくに分かっている。それはきっと、ヴァイスも同じはずだ。
「……ここじゃ嫌です」
観念して、せめてもの希望を口にする。
ヴァイスは無言でフリシュの目尻にキスをすると、そのまま二人の姿が揺らめいてソファの上から消えた。
フリシュの希望は叶えられた。




