あなたが勝ち誇るにはまだ早いようですよ
「クローディア嬢、この四月分支出ですが、合計が三十リーブル過大に計上されています。直しておいてください」
隣の席から男子生徒が書類を渡してくる。
「……はい。分かりました」
書類を受け取って私は小さくため息をついた。
やっぱりこういう仕事、向いてないのかなぁ。
王立学園の生徒会で、会計の仕事を始めてから2か月が経っていた。
私には卒業後に婚約を予定している令息もいる。普通の令嬢なら数字を扱う仕事など必要ないのかも知れないけれど、私はとある理由から立候補していた。
まだ不慣れな部分もあり、ミスをすることもしばしば。
私はちらりと先ほどの男子生徒を見た。
彼、ブルース・ベルモンテ侯爵子息は一年先輩の三年生で、同じ会計を担当している。
彼はその完全無比な計算能力と業務遂行能力から、生徒会内では信頼の厚い人物だ。
黒い髪に凛々しい眉。深緑の大きな、それでいて鋭い瞳は彼の利発さを表しているようだ。
実は学園内に彼のファンは多い。「クローディアは良いわね。ブルース様と一緒に過ごせるなんて羨ましいわ」なんて言われたことは一度や二度じゃない。
では変わって下さらない? と思ったことも同じ数だけあるのだが。
彼は氷の貴公子などとファンの間では呼ばれているようだけれど、「氷」の部分には同意する。
私がミスをすると、先ほどのように無表情で指摘してくる。その声も表情も、まるで氷のように冷たく感じるのだ。
また、彼はほぼ私語をしない。生徒会のメンバーも業務のこと以外では、敢えて彼に話しかけようとしない。
全くのミステリアスな存在だった。
とはいえ、同じ会計の私としては、全く話をしないというのも気まずい。一から業務を教えてくれた恩もある。せっかく同じ職なのだからと思い、休憩時間には毎日話しかけるようにしていた。
無視されることは無いけれど、帰って来る言葉は一言二言。
本当に何を考えているのか分からない。
「もしかして迷惑ですか?」と聞いてみたこともあるのだが、彼は「いいえ、そんなことはありませんよ」という。
にしては会話が弾まなさ過ぎる。床にケーキでも叩きつけているかのような弾まなさだ。
以前、生徒会長が「あいつにも可愛いところがあるんだけどな」と言ったことがある。けれど彼からどんな要素が飛び出そうと、「可愛い」という感情など湧き出さない自信があった。
とにかく生徒会でも、それ以外の学園生活でも、毎日私は気が重かった。
そう、悩みの種は一つではない。
というか、ブルース様に関する悩みなど小さいものだ。
主に私を悩ませているのは婚約者のことである。
ああ、そのことを考えたら余計に身体が重くなってきた。
***
翌日、私は体調を崩していた。熱は無いけど眩暈がするのだ。
身体が重い重いと思っていたら、本当に不調が出てしまったらしい。
それでも今日欠席するわけにはいかなかった。文化祭全体の予算見積もりを、チェックしてまとめるという作業が残っており、今日が期限なのだ。
本来ならばとっくに終わっているはずの業務だった。けれど直前で大幅な変更をしたクラスが幾つかあったため、急遽再計算が必要になったのである。
ブルース様が幾ら優秀でも、あの量を一人でこなすのは大変だ。それに、体調不良を理由に欠席なんてしたら
「体調を崩したのは、日ごろの体調管理を怠ったからでは?」と詰められるだろう。あの冷徹な感じからして、そうとしか思えない。
何とか、根性でやるしかない。
私は早起きして、始業前に生徒会室へ向かった。間に合わせるためには、朝から飛ばすしかないのだ。
一歩歩くたびに頭がズキズキ痛む。視界に黒い点が飛んでいる。
ちょっとまずいかも知れないと思いながら、私は生徒会室の扉を開いた。
ブルース様が居た。日差しを後ろから受ける彼は、オレンジ色に輝き、何だか神々しかった。
「クローディア嬢」
私が着席しようとした瞬間、声を掛けられた。
「な、何でしょうか?」
私は無意識のうちに肩をビクッと震わせていた。
「体調が悪いのですか」
「え? はい……」
彼は書類に目を落としたままだ。どうやって分かったのだろう。
「少し眩暈がするのですが、これくらい大丈夫です」
私は胸の前で、両手で拳を作ってみせた。ブルース様は初めてこちらを見たかと思うと、ため息をついた。
「とても『少し』には見えませんね」
カバンから何かを取り出し私の机に置く。
小瓶だった。朝陽でキラキラ反射して綺麗だ。
「これは?」
「うちの領地ではポーションの生産が盛んでしてね。これは疲労回復、滋養強壮などに効果があるものです」
「え、えっと、頂いても?」
「倒れられたらこちらが困りますから」
「あ、ありがとうございましゅ?」
頭も舌も回っていなくて疑問形になった上に噛んでしまった。
あの冷徹人間かと思われたブルース様が、絶対に詰めてくるだろうと思っていたブルース様が、唐突な人間味あふれる気遣いをしてくれた……だと……!
完全に意表を突かれ、しどろもどろになっていた。
「それから、今日はもう帰りなさい」
「へ?」
「どうしたのですか。寮生なのだから一人で帰れるでしょう」
「いえ、仕事が残っています。私もやらないと……」
「私がやっておきます。心配しないで下さい」
「で、でも……」
「私がやっておきます。心配しないで下さい」
ブルース様は私の目を見据えて、ゆっくりと繰り返した。有無を言わせぬ迫力がある。
めちゃ怖い。
私が戸惑っているうちに、ブルース様は再び業務に戻っていた。圧倒的な「話しかけるな」オーラを発しながら。
後から思えば、これは私に帰りやすいようにしてくれていたのだろう。
「ありがとうございます……絶対、明日には治してきますから」
私は深々と頭を下げ、生徒会室を去った。
何だか胸が温かい。人にこんな親切を受けたのは久しぶりだ。冷たい人かと思ったけれど、凄く優しい一面もあるんだ。
寮に戻って、ブルース様から貰ったポーションを飲んだ。苦かったけれど、なんだかちょっと甘い気がした。
翌日、私の体調はすこぶる回復していた。身体がめちゃ軽い。ブルース様から貰った治療薬のお陰だろう。
放課後、私は勢いよく生徒会室の扉を開けた。来ているのは今の所、ブルース様だけだった。お礼を言うには丁度いい。
「ブルース様、ありがとうございます! お陰でとても良くなりました」
するとブルース様は一度だけこちらを見て、すぐにまた書類に目を戻した。
「そうですか。それは何よりです」
昨日までなら「やはり愛想のない人だ」で済ませてしまったかもしれない。けれど、彼の優しい一面を知った今は、また違って見えていた。恐らく彼は、ただ感情表現が苦手なだけなのだ。
私が席に着こうとした時だ。
「クローディアは居るか!」
勢いよく扉が開けられ、男女が一人づつ入って来た。私の身体は強張った。
その人物の一人が、婚約者であるギデオン・ノートルヴァルト様だったからだ。
「えっと、何でしょ……」
「お前との婚約を破棄させてもらう!」
彼は私の顔を見るなり、生徒会室どころか、廊下まで響き渡る声で言った。寝耳に水である。
隣に居るのはロクサーヌ伯爵令嬢。最近、ギデオン様と仲良くしている場面をよく見ていた。
「落ち着いてください、ギデオン様。どうして婚約を破棄したいと?」
私は宥めるように言った。こちらとしても破棄したいのは山々なのだけれど、そう簡単にはいかないわけがあるのだ。
「クローディア、お前はこのロクサーヌをイジメていたそうじゃないか。僕とロクサーヌが少し親しくしているからと、嫉妬して!」
ギデオン様はロクサーヌ嬢を抱き寄せながら言った。
今度は全くの濡れ衣だ。私は既にびしゃびしゃである。
勿論やっていないし、ロクサーヌ嬢とは話したこともほとんどない。
「わ、私はやっていません。そもそもロクサーヌ様とは……」
「それに」
ギデオンはまた食い気味に言葉を遮る。
「僕とロクサーヌは真実の愛に目覚めてしまったんだ。もうこの思いを止めることは出来ない」
二人は目を輝かせ、見つめ合っている。こんなところまで押しかけてきて、尚且つ自分たちだけの世界に没入するのは遠慮して欲しかった。
「この婚約自体、お前の実家には利益があれど、我がノートルヴァルト家にはメリットが無い。家格もつりあっていない。つまり、元から無理があったんだ」
ギデオン様は首を振った。確かに我がフェルメール家は男爵家で、彼は伯爵家の子息だ。この婚約がフェルメール家に利益をもたらすというのも本当だ。けれど、勿論一方的なものではない。
男爵領では薬草を栽培しており、これまでは主に王都の魔導士や魔導士見習い向けに出荷していた。しかし最近、他領でも生産が可能になったらしく、値崩れが起きた。
領地の収入ががくんと減った我がフェルメール家は危機に陥っていた。
そこに縁談という形で助け舟を出してくれたのが、ギデオン様の父君、ロイ伯爵様だ。
伯爵様は「以前王都に出荷していたのと同じ値段で買い取り続ける。だからうちのバカ息子と結婚してくれないか」と一人で頼み込んできた。
彼は以前から、茶会などで見かける私に目を付けていたらしい。曰く「君はしっかり者だから」という。
そういった事情があるものだから、私としては婚約破棄されると困るのだ。
「どうした。何も言えないのか?」
ギデオン様は勝ち誇ったように、座った私を見下ろしている。私がどう説明したものかと、頭を悩ませていた時だった。
「あの、ギデオン君……で、名前はあってるかな。ちょっと良いですか」
注目が声の人物に集まる。ブルース様だった。
「あなたは確か……ブルース殿ではありませんか。何でしょう?」
ブルース様は侯爵家の出身であり、一学年先輩。ギデオン様は流石に敬語を使っているけれど、声はトゲトゲしい。中々の喧嘩腰だ。
「先ほどクローディア嬢がロクサーヌ嬢をイジメていたと仰ったが、具体的にはどのようなことをされたと?」
「ロクサーヌの髪飾りを盗りました。彼女の髪飾りが、クローディアの机から出て来たので間違いありません!」
ギデオン様は自信満々に宣言した。が、ブルース様は即座に反論した。
「見つかった場所だけで犯人を断定するのは早計です」
「……何ですって?」
「その髪飾りがクローディア嬢の机から見つかったというのは、この際否定しません。が、それは『クローディア嬢が隠した証拠』にはなりません。誰かが意図的に置いた可能性は考えないのですか? 例えば、彼女を陥れて得をする人物の誰かが」
ブルース様は立ち上がり、じっとギデオン様の目を見据えた。針のように鋭い瞳に気圧されたのか、ギデオン様の瞬きが増えている。
「ですが一番怪しいのはクローディアでしょう!」
「では髪飾りが無くなったのは何時で、見つかったのは何時ですか」
ギデオン様とロクサーヌ嬢は目を見合わせた。
「無くなったのが昨日の昼休み終わりで……」
「ではクローディア嬢は犯人ではありません」
ギデオンが言い終わるより前にブルース様は宣言した。
「な、何故断言出来るのですか」
「クローディア嬢は昨日の朝、早退しました。ご存知ありませんか」
二人の顔に、明らかな動揺の色が浮かんでいる。彼らは私とクラスが違う。ギデオン様は婚約者の私に構いもせず、ロクサーヌ嬢とばかりいちゃついていたから気付かなかったのだろう。
「もう既にクローディア嬢の犯人説は崩れました。が、しかし」
ブルース様の目が細められ、鋭さを増す。
「ここは学園とはいえ、クローディア嬢は貴族令嬢。彼女を罪に問おうと言うのなら、それなりの覚悟が必要。思い違いでは済みませんよ」
ブルース様は一歩間合いを詰める。
彼はミスを指摘することはあれど、ここまで高圧的に迫る場面なんて見たことが無い。
……あれ、もしかしてブルース様、怒ってる?
「彼女に謝罪してください」
「な、何故僕が……!」
ギデオン様がまだ反論の言葉を探している間にブルース様は畳みかける。
「まあ、この話は一旦置いておきましょう。それから婚約破棄をしたいということですが……」
一度言葉を切って、ため息の後、ひときわ大きな声で言った。
「馬鹿ですか?」
ギデオン様の目が点になった。一瞬何を言われたか分からなかったのだろう。
「ば、馬鹿だと?! 幾らあなたが侯爵家の出だからと言って、言って良いことと悪いことがあるでしょう!」
「やって良いことと悪いことの区別もつかない馬鹿に言われたくはありません」
ブルース様の声の迫力に気圧されたのか、ギデオン様は口をつぐんでしまう。
「私はあなたとクローディア嬢の婚約が、どのような条件の元で交わされたのかは分かりません。ですが貴族同士の婚約が簡単に破棄出来るほど軽くないことは誰でも知っています。婚約は家と家の結びつき。領地や財産など……小さな子供でも分かることなので、後は家に帰って父君に聞いてみて下さい」
ギデオン様は顔を赤くしてブルース様を睨む。恥ずかしいのと、怒りの両方の感情があるようだ。
「それからギデオン君。君はクローディア嬢と婚約中でありながら、随分とそのロクサーヌ嬢と親しそうですね」
「そ、それは真実の愛を」
「真実の愛?」
ブルース様は鼻から息を漏らした。これは私が見た、彼の始めての笑顔? だった。
「婚約中の身で他の令嬢と関係を持ちながら、なお婚約破棄を望む。順番が逆では? 本来問われるべきは、君の不義に対する責任のはずです。
まず果たすべきは、クローディア嬢と両家に対する正式な謝罪、そして名誉を損なったことへの償いだ」
ブルース様は最初とは違い、ゆっくり、子供に噛んで含めるように言った。とうとうギデオン様の身体が恥ずかしさからなのか、怒りからなのか、ブルブルと震え始めた。
「ブルース殿! あなたは部外者なのにどうしてそんなに首を突っ込んでくるんですか!」
「生徒会室にズカズカ入り込んできた、部外者のあなたが言えた口じゃありませんよ」
ブルース様はちらりと私の方を見た後、またギデオン様を見据えた。
「それから、完全な部外者とは言えません。クローディア嬢は我が生徒会の大切な一員です。同じ生徒会に所属する者として、仲間の彼女を助けるのは当たり前です。婚約者なのに、彼女が早退したことも知らない愚か者もいるようですが」
「くっ……」
「ただ、君は自分とクローディア嬢が不釣り合いだと言いましたね。それに関しては私も同意します」
「そこは認めてくれるんですか。流石侯爵子息」
「勿論、価値が軽いのは君の方ですが」
「な、何だと!」
今度はギデオン様が私の方をチラチラ見始めた。このままだとブルース様にボッコボコにされ続けてしまう。だから私に仲裁して欲しいと思っているのだろう。
残念だけれど、そうなってしまったブルース様を止めることは誰にも出来ない。
あと止めたくない。良いぞもっとやれ。
「クローディア嬢は生徒会での仕事も真面目に取り組んでくれます。誰に対しても優しいです。それは、不愛想な私に対してもそうです。どれだけぶっきらぼうな返答をしても、会話が弾まなくとも、毎日話しかけてくれます。私がこれまで会った令嬢の中で最も素晴らしい人です」
心に暖かさがじんわり広がるのを感じた。ブルース様が私のことを庇ってくれたことが何よりだけれど、「もしかして鬱陶しいと思われているかも」と思っていた『声かけ運動』を、彼が喜んで受け止めてくれていたことが嬉しかった。
「ふん、言っているが良い! 婚約は必ず破棄させてもらう。そして困るのはお前の方だぞ、クローディア!」
私に向かって捨て台詞を残すと、ギデオン様は逃げるように生徒会室を出て行った。慌ててロクサーヌ嬢が後を追う。
「ど、どうしよう……」
彼が去った途端、私は不安に駆られた。ブルース様が、言いたくても言えなかったことを全てぶちまけてくれたことは嬉しかった。頼もしかった。けれど、あの様子だとギデオン様は本当に婚約破棄を進めようとするだろう。
そうなれば困る比率が高いのは、我が男爵家なのだ。
「婚約破棄されることを心配しているのですか」
よっぽど蒼い顔をしていたらしい。ブルース様が声を掛けてくれた。
私はフェルメール男爵家とギデオン様のノートルヴァルト伯爵家の関係。そして婚約の条件について話した。
「ふむ、なるほど」
ブルース様は顎に手を当てて、しばし沈黙していた。頭の回転の速い彼が、こうやって考えこむ場面は珍しい。
「で、あれば……」
ブルース様は不意に私の目を見た。気のせいだと思うけれど、少しだけ、いつもより頬に赤みがあるようだ。
「私と婚約するのはどうでしょうか」
「へ?」
***
結論から言うと、私とギデオン様の婚約は破棄された。
理由はギデオン様が強く望んだから……ではなく、彼が私に対して非常に失礼な態度を継続し、尚且つ不貞を働いていたことを彼の父君が重く見たからだ。
ギデオン様は婚約を破棄しても、彼の実家には何のダメージも無いと思っていたようだけれど、実は違った。
……というより、ギデオン様にダメージがダイレクトアタックした状態になった。
一人っ子であるはずの彼は、これをきっかけに家督の継承権をはく奪されたのだ。ノートルヴァルト伯爵家はギデオン様の従妹にあたる人物が継ぐことで話がまとまっているという。
そもそも、ロイ伯爵様はギデオン様一人ではまともに領地経営など出来ないと思っていた。だから私を嫁に取ろうとしたのに、彼は私を雑に扱った上に問題を起こした。
伯爵様としても我慢の限界だったのだろう。
このことが学園で噂になると、ロクサーヌ嬢はギデオン様の前からも、そして学園からも姿を消した。どうやら実家に逃げ戻ったらしい。
勿論、そうなると我が男爵家も薬草の卸先を失って困った。……のだが、ブルース様と彼の父君が手を差し伸べてくれた。
ブルース様のお父様は宰相閣下だ。
彼は侯爵領や、薬草の栽培をしていない他国に、少しづつ卸せるよう手を回して下さったのだ。
そして卒業と同時に私はブルース様と結婚することになった。
今は王都に住み、彼は王宮の文官として働いてる。
夫婦になってからも、彼が無表情なのは通常通りだけれど、いつも私の体調を気遣ってくれる。忙しい身でありながら、急いで王宮から戻ってきて、私との時間を大切にしてくれる。
何より時々見せてくれる笑顔は天使のように無垢で可愛い。
生徒会長、確かにブルース様に可愛いところ、ありましたよ。あなたは正しかったです。
私は夫に飛びっきりの笑みを返しながら、そう思うのだった。
おわり




