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波の上の酒蔵  作者: 曽根崎令
頑固な伝統とラグジュアリーの出会が、異なる文化と価値観の異世界を現実にする
8/12

ナパ試飲会・後半

ナパの静かな夜の奥で、味ではなく“立つ場所”が試される。

今夜の杯は、評価ではなく関係と覚悟を量る称量だ。

ナパの夜は、思った以上に一見何もないように見える。


しかし、その何もないような空間の奥にクレアのオフィスがある。

高い天井と洗練された無駄のない空間だ。

ミニマルなアート。

彫刻のように並べられた希少なヴィンテージ。


ここでは、酒も装飾の一部だ。


クレアはデスクに腰掛け、タブレットで招待客のリストを確認していた。

鋭く、無駄がない。

この場所が自分の領域であることを、疑いもしない姿勢。


ドアが開く。


ブライス・カートライトが入ってきた。


彼は慣れた動きで彼女に近づき、短くキスをする。

形式的で、深さはない。


「試飲会のため?」

「それとも、またアプリの資金?」


クレアの声は平坦だ。


ブライスは笑う。


「どっちでもない。

今夜、ナパの女王になる顔を見ておこうと思って」


「あなたの方こそ、

王様になりたくてここに居るのじゃなの」


***


試飲室は、別の顔を持っていた。


温かな照明。

手仕事のオークテーブル。

カリフォルニア各地の酒蔵関係者、バイヤー、ソムリエ、評論家。


クレアはその中心に立つ。

赤のドレス。

説明はいらない存在感。


その少し後ろに、ミアがいる。

紹介はされない。

だが、確かにそこにいる。


「今夜は流行を追うための場ではありません」


クレアの声が、空気を整える。


「カリフォルニアの日本酒が、

どこへ行けるのかを想像する夜です」


うなずき。

杯が上がる。


最初に指名されたのは、ブライスだった。


洗練された演出。

淡い色のラベル。

霧のような演出。


「Junmai Dream。The Méthode Champenoise。

発泡酒を、

Benihanaカウンターや寿司にも、プールサイドにも」


笑いが起きる。

飲まれる。


「正直、強いな」

「夏のイベントで飛ぶ」

「売れる」


ミアは、クレアの横顔を見ていた。

その表情は読めない。


そして、クレアが言う。


「次は、

少し新しく創造的なものを」


「天音酒造からです」


***


悠司が前に出る。


落ち着いている。

その背後に、ケイコが立つ。


トレイの上には、素朴な陶器。

布に包まれた皿。

派手さはない。

だが、意図はある。


「Junmai Sour」


悠司は淡々と告げる。


「微発泡、

サワーでドライな日本酒。」


「北欧風の軽い前菜と合わせます」


注がれる。


空気が、少し変わる。


飲まれる。


間。


「酸味、前に来るな」

「完成途中みたいだ」

「どこに置く酒だ?」


背後で、ブライスが小声で言う。


「詩で酒は売れない」


悠司は聞いていた。

だが、動じない。


「拍手をもらいに来たわけじゃありません」


静かに言う。


「再定義する必要もない。

ただ、出すべきだと思った味です」


ざわめきが、別の種類に変わる。


***


次の酒が注がれる。


富士酒造。

ミアが説明に立つ。


「カリフォルニア産カルローズ米。

低温発酵。

飲みやすい日本酒です。」


クレアはミアを見つめる。


「デイヴィス?」


「発酵科学です」


一瞬の沈黙。


「……あの年、私もセミナーにいたかも」


「たぶん。

私は実験室にいました」


会話は、すれ違ったまま流れていく。


***


試飲が進む。


クレアは、ふと悠司の酒を手に取る。


周囲の声を遮るように、もう一口。


彼女の視線が、

悠司が去った方向へ向く。


演じていない背中。


そして、ゆっくりとケイコを見る。


「あなたが、あの仕込みを?」


「はい」


「可能性がある。

まだ磨かれてはいないけど」


一拍。


「自分のラベルを出さないの?」


ケイコは答えない。


「他人の直感を、

見ているだけで疲れない?」


「話せるラボが欲しくなったら、

あなたの名前を表に出せる場所を紹介するわ」


***


翌日。


バークレーの蔵。


蒸気。

機械音。


ミアが言う。


「富士酒造は、評価された」


悠司はうなずく。


「でも?」


「ケイコは、

ブライスと組む」


「ヨットの案件。

クレアの紹介」


悠司は、言葉を失う。


「競合だね」


「本気で来る」


悠司は、歩みを止める。


「……だったら」


振り返る。


「次は、

名前のない味じゃなくて」


「上書きする味だ」


ミアが笑う。


「やっと言った」


蒸気が立ち上る。

もう、視界を遮らない。


物語は、

完全に分岐した。

名前のない味は終わった。

次は、海の上で“上書きする味”を奪いに行く。

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