ナパ試飲会・後半
ナパの静かな夜の奥で、味ではなく“立つ場所”が試される。
今夜の杯は、評価ではなく関係と覚悟を量る称量だ。
ナパの夜は、思った以上に一見何もないように見える。
しかし、その何もないような空間の奥にクレアのオフィスがある。
高い天井と洗練された無駄のない空間だ。
ミニマルなアート。
彫刻のように並べられた希少なヴィンテージ。
ここでは、酒も装飾の一部だ。
クレアはデスクに腰掛け、タブレットで招待客のリストを確認していた。
鋭く、無駄がない。
この場所が自分の領域であることを、疑いもしない姿勢。
ドアが開く。
ブライス・カートライトが入ってきた。
彼は慣れた動きで彼女に近づき、短くキスをする。
形式的で、深さはない。
「試飲会のため?」
「それとも、またアプリの資金?」
クレアの声は平坦だ。
ブライスは笑う。
「どっちでもない。
今夜、ナパの女王になる顔を見ておこうと思って」
「あなたの方こそ、
王様になりたくてここに居るのじゃなの」
***
試飲室は、別の顔を持っていた。
温かな照明。
手仕事のオークテーブル。
カリフォルニア各地の酒蔵関係者、バイヤー、ソムリエ、評論家。
クレアはその中心に立つ。
赤のドレス。
説明はいらない存在感。
その少し後ろに、ミアがいる。
紹介はされない。
だが、確かにそこにいる。
「今夜は流行を追うための場ではありません」
クレアの声が、空気を整える。
「カリフォルニアの日本酒が、
どこへ行けるのかを想像する夜です」
うなずき。
杯が上がる。
最初に指名されたのは、ブライスだった。
洗練された演出。
淡い色のラベル。
霧のような演出。
「Junmai Dream。The Méthode Champenoise。
発泡酒を、
Benihanaカウンターや寿司にも、プールサイドにも」
笑いが起きる。
飲まれる。
「正直、強いな」
「夏のイベントで飛ぶ」
「売れる」
ミアは、クレアの横顔を見ていた。
その表情は読めない。
そして、クレアが言う。
「次は、
少し新しく創造的なものを」
「天音酒造からです」
***
悠司が前に出る。
落ち着いている。
その背後に、ケイコが立つ。
トレイの上には、素朴な陶器。
布に包まれた皿。
派手さはない。
だが、意図はある。
「Junmai Sour」
悠司は淡々と告げる。
「微発泡、
サワーでドライな日本酒。」
「北欧風の軽い前菜と合わせます」
注がれる。
空気が、少し変わる。
飲まれる。
間。
「酸味、前に来るな」
「完成途中みたいだ」
「どこに置く酒だ?」
背後で、ブライスが小声で言う。
「詩で酒は売れない」
悠司は聞いていた。
だが、動じない。
「拍手をもらいに来たわけじゃありません」
静かに言う。
「再定義する必要もない。
ただ、出すべきだと思った味です」
ざわめきが、別の種類に変わる。
***
次の酒が注がれる。
富士酒造。
ミアが説明に立つ。
「カリフォルニア産カルローズ米。
低温発酵。
飲みやすい日本酒です。」
クレアはミアを見つめる。
「デイヴィス?」
「発酵科学です」
一瞬の沈黙。
「……あの年、私もセミナーにいたかも」
「たぶん。
私は実験室にいました」
会話は、すれ違ったまま流れていく。
***
試飲が進む。
クレアは、ふと悠司の酒を手に取る。
周囲の声を遮るように、もう一口。
彼女の視線が、
悠司が去った方向へ向く。
演じていない背中。
そして、ゆっくりとケイコを見る。
「あなたが、あの仕込みを?」
「はい」
「可能性がある。
まだ磨かれてはいないけど」
一拍。
「自分のラベルを出さないの?」
ケイコは答えない。
「他人の直感を、
見ているだけで疲れない?」
「話せるラボが欲しくなったら、
あなたの名前を表に出せる場所を紹介するわ」
***
翌日。
バークレーの蔵。
蒸気。
機械音。
ミアが言う。
「富士酒造は、評価された」
悠司はうなずく。
「でも?」
「ケイコは、
ブライスと組む」
「ヨットの案件。
クレアの紹介」
悠司は、言葉を失う。
「競合だね」
「本気で来る」
悠司は、歩みを止める。
「……だったら」
振り返る。
「次は、
名前のない味じゃなくて」
「上書きする味だ」
ミアが笑う。
「やっと言った」
蒸気が立ち上る。
もう、視界を遮らない。
物語は、
完全に分岐した。
名前のない味は終わった。
次は、海の上で“上書きする味”を奪いに行く。




