ナパ試飲会・前半
バークレーの小さな蔵。
かつて異国だった場所が、「悠司の勝負に出る場所」になりつつあった。
バークレーの蔵に、朝の光が差し込んでいた。
カリフォルニアの陽射しは強いが、
蒸気の向こうにある空気は、もう悠司にとって異国ではない。
タンクの列。
積まれた米袋。
檜と麹の匂いが混じる。
ミアが試飲カウンターを拭いていた。
顔を上げて、言う。
「本当にナパ、行くの?」
悠司はタンクを見ながら答えた。
「カリフォルニアで造った酒しか受け付けないらしい。
税制優遇とか、地元ブランドとか。味というより、政治絡みだな」
二つのタンクから酒を引く。
一つは最新の創造・創作的なもの。
もう一つは、扱いにくく、癖の強いもの。
グラスを並べ、少しずつ合わせていく。
***
ラボは静かだった。
冷却装置の低い音だけが、時間を刻む。
悠司は一杯ずつ、
グラスを覗き込み、香りを嗅ぎ、口に含む。
「試飲室で、必ず言われるよ」
ミアが言った。
「日本酒って、甘いよね、って」
「それが、伝統だから、
でもちょっと違うものを試してみたい」
悠司はそう答えた。
ミアは首を振る。
「でも、たぶん
それを探してない人たちもたくさん居るわ」
悠司はもう一度、口に含む。
表情が変わる。
ノートに走り書きし、
別のタンクから一滴、足す。
もう一度。
今度は、わずかにうなずいた。
「……まだ名前はないけど」
「欲しがる人は、いる気がする」
ミアは黙って見ていた。
***
そのとき、扉が開く。
落ち着いた足音。
ケイコ・カワムラが入ってきた。
手にはタブレットコンピューター。
モニターを確認し、
カウンターに並ぶグラスを見る。
「タンク7、使ってる?」
悠司は振り返る。
その声に、
注意よりも先に、慣れた響きを感じていた。
「酸が早く立つ。
ピーク、短いから気をつけて」
一拍。
「初めてね。
カワムラ ケイコです」
その名前は、
聞いた瞬間に意味を持った。
「天音悠司です。
……あなたが、これを?」
「監修しただけ。
白麹に切り替えたのは、私」
「白ワインみたいでしょ。
でも、まだ出せない」
視線が合う。
どちらも逸らさない。
ミアが口を開く。
「ケイコさん、
シンガポールからいつ戻ってきたの?」
「昨日、船がサンフランシスコに着いたの」
「それで。
まさか、これをナパの試飲会に?」
ケイコの声は低い。
「クレア・ロスチャイルドも、
ブライスも来る。輸入業者も、全員」
「不安定な酒を出す場所じゃないのよ」
悠司は答える。
「だから、出す」
「名前のある味じゃなくて、
次の味を」
ケイコは腕を組む。
「キャリアを、杯に注ぐ気?」
「隣に立ってくれるなら」
悠司は軽く受け流す。
沈黙。
重いが、敵意はない。
やがて、ケイコは息を吐く。
「……一本だけ。あなたの名前で出していいわ」
「もしも失敗しても、
父にはあなたが説明して」
「引き受けます」
ケイコは背を向ける。
だが、歩きながら言った。
「酸の窓、短いから。
計算、間違えないで」
悠司は、その背中を見送った。
ケイコはすでに、
どの瞬間に注ぐかを計算済みだった。
計算を間違えない物語は退屈だ。
間違える可能性があるから、胸が熱くなる。
次章、ナパへ。




