ナパはカリフォルニア日本酒も制する?
第三話です。
今回は、舞台が海の上へ移ります。
日本酒が、蔵の中だけのものではなく、
世界のラグジュアリーへ変わっていく瞬間です。
デライトフル・ヨット・コレクション。
VIP専用和食レストラン「GYOKU」。
宝石箱のように小さな空間。
檜のカウンターを囲む席は、わずか十二。
一つ一つの席に、波佐見焼の皿とクリスタルの酒杯。
隠された照明が、その縁を淡く光らせている。
全面ガラスの向こうには、夜の海。
月光が波に砕け、静かに揺れる。
カウンターの内側で、寿司職人が無駄のない動きを見せる。
醤油を刷毛でひと撫で。
山葵を、ほんの囁きほど。
空気には、
摺り下ろしたワサビと酢飯の香り、
そして日本酒の香りが漂う。
客たちは声を落として話す。
石油王、コレクター、名の知れた顔ぶれ。
大トロと雲丹を前に、笑い声さえも洗練だ。
シルクのジャケットを着たサーバーが滑るように動き、
冷えた大吟醸を注ぐ。
酒杯の表面に、細かな水泡が浮かぶ。
すべてが計算されている。
包丁が檜に触れる音。
波佐見焼の皿が触れ合う、かすかな音。
その客の中にクレア・ロスチャイルドの姿がある。
クレアはナパの名門ワイン一族に生まれ、
投資と流通の判断で市場を動かす若きキーパーソン。
彼女が評価した酒は、やがて世界に出る。
その隣に座るのは、
ケイコ・カワムラ。
山梨の酒蔵に生まれ、伝統に従う道を選ばず、
酒を通して世界に名を刻もうとする女。
寿司職人が、クレアとケイコの前に寿司を置く。
大トロが、酢飯の上の和牛に見える。
クレアは、わずかに微笑み、
隣に座るケイコへ視線を向けた。
「合わせるなら?」
ケイコは一瞬だけ考え、
和紙ラベルの淡い背の高い瓶を選ぶ。
「柔らかで、層があるお酒よ。
この純米吟醸なら、魚の甘みを邪魔しないわ」
クレアは寿司を口に運び、
続けて酒を含んだ。
一瞬、目を閉じる。
静かで、澄んでいて、
だが余韻が短い。
目を開いたとき、
その視線は、さきほどよりも鋭くなっていた。
これは、候補になり得る。
シンガポールの夜景が、
デキャンタのガラスに屈折している。
ワインキュレーターのエドゥアルドは、
空になったワイングラスと酒杯を前に立っていた。
「長い間、ナパを注いできました」
低く、穏やかな声。
「ソーヴィニヨン・ブラン。
シャルドネ。
カベルネ。ピノ」
「完璧な産地。完璧な物語」
少し間を置く。
「でも、客が変わった」
クレアとケイコが静かに聞く。
「血統だけじゃ足りない。
驚きが欲しい。発見が欲しい」
「アドリア海で寿司を頼み、
デッキで抹茶を欲しがる」
「そして、こう聞く」
「東シナ海を渡りながら、
マグロに合わせる日本酒は何だ、と」
クレアは小さく息を吐いた。
「じゃあ、流れを作るのね」
「今と、次の時代のために」
エドゥアルドはうなずく。
「三つの蔵。
航海中のライブテイスティング」
「香港から東京、佐世保を経て戻る」
「選ぶのは、客です」
「一本、一万ドル。
独占供給」
「名前は一つだけ」
クレアの唇が、わずかに弧を描いた。
「ナパの日本酒試飲会は、その一次選考ね」
「船に乗せる前に、ふるいにかける」
「誰が海の上の日本酒に相応しいか」
エドゥアルドは夜景を見つめた。
「ナパを捨てるわけじゃない」
「ただ、
ラグジュアリーの定義を更新する」
クレアがその言葉を引き取る。
「ナパが、
カリフォルニア産の日本酒でも名を広めるのよ」
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
次回は再び山梨へ戻り、悠司が少しずつ、
川村とハヤシ、そしてケイコの選択を理解していく回になります。




