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波の上の酒蔵  作者: 曽根崎令
父の名前がニュースに流れた夜、止まっていた時間が動いた
3/12

ナパはカリフォルニア日本酒も制する?

第三話です。

今回は、舞台が海の上へ移ります。

日本酒が、蔵の中だけのものではなく、

世界のラグジュアリーへ変わっていく瞬間です。

デライトフル・ヨット・コレクション。

VIP専用和食レストラン「GYOKU」。


宝石箱のように小さな空間。


檜のカウンターを囲む席は、わずか十二。

一つ一つの席に、波佐見焼の皿とクリスタルの酒杯。

隠された照明が、その縁を淡く光らせている。


全面ガラスの向こうには、夜の海。

月光が波に砕け、静かに揺れる。


カウンターの内側で、寿司職人が無駄のない動きを見せる。

醤油を刷毛でひと撫で。

山葵を、ほんの囁きほど。


空気には、

摺り下ろしたワサビと酢飯の香り、

そして日本酒の香りが漂う。


客たちは声を落として話す。

石油王、コレクター、名の知れた顔ぶれ。

大トロと雲丹を前に、笑い声さえも洗練だ。


シルクのジャケットを着たサーバーが滑るように動き、

冷えた大吟醸を注ぐ。

酒杯の表面に、細かな水泡が浮かぶ。


すべてが計算されている。

包丁が檜に触れる音。

波佐見焼の皿が触れ合う、かすかな音。


その客の中にクレア・ロスチャイルドの姿がある。

クレアはナパの名門ワイン一族に生まれ、

投資と流通の判断で市場を動かす若きキーパーソン。

彼女が評価した酒は、やがて世界に出る。


その隣に座るのは、

ケイコ・カワムラ。

山梨の酒蔵に生まれ、伝統に従う道を選ばず、

酒を通して世界に名を刻もうとする女。


寿司職人が、クレアとケイコの前に寿司を置く。


大トロが、酢飯の上の和牛に見える。


クレアは、わずかに微笑み、

隣に座るケイコへ視線を向けた。


「合わせるなら?」


ケイコは一瞬だけ考え、

和紙ラベルの淡い背の高い瓶を選ぶ。


「柔らかで、層があるお酒よ。

この純米吟醸なら、魚の甘みを邪魔しないわ」


クレアは寿司を口に運び、

続けて酒を含んだ。


一瞬、目を閉じる。


静かで、澄んでいて、

だが余韻が短い。


目を開いたとき、

その視線は、さきほどよりも鋭くなっていた。


これは、候補になり得る。


シンガポールの夜景が、

デキャンタのガラスに屈折している。


ワインキュレーターのエドゥアルドは、

空になったワイングラスと酒杯を前に立っていた。


「長い間、ナパを注いできました」


低く、穏やかな声。


「ソーヴィニヨン・ブラン。

シャルドネ。

カベルネ。ピノ」


「完璧な産地。完璧な物語」


少し間を置く。


「でも、客が変わった」


クレアとケイコが静かに聞く。


「血統だけじゃ足りない。

驚きが欲しい。発見が欲しい」


「アドリア海で寿司を頼み、

デッキで抹茶を欲しがる」


「そして、こう聞く」


「東シナ海を渡りながら、

マグロに合わせる日本酒は何だ、と」


クレアは小さく息を吐いた。


「じゃあ、流れを作るのね」


「今と、次の時代のために」


エドゥアルドはうなずく。


「三つの蔵。

航海中のライブテイスティング」


「香港から東京、佐世保を経て戻る」


「選ぶのは、客です」


「一本、一万ドル。

独占供給」


「名前は一つだけ」


クレアの唇が、わずかに弧を描いた。


「ナパの日本酒試飲会は、その一次選考ね」


「船に乗せる前に、ふるいにかける」


「誰が海の上の日本酒に相応しいか」


エドゥアルドは夜景を見つめた。


「ナパを捨てるわけじゃない」


「ただ、

ラグジュアリーの定義を更新する」


クレアがその言葉を引き取る。


「ナパが、

カリフォルニア産の日本酒でも名を広めるのよ」

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

次回は再び山梨へ戻り、悠司が少しずつ、

川村とハヤシ、そしてケイコの選択を理解していく回になります。

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