父が賭けたもの
酒造りと記憶、そして「居場所」をめぐる話になります。
少しでも最後まで読んでいただけたら嬉しいです。
十五年前。横須賀。
夜の基地内談話室は薄暗く、蛍光灯が低く唸っていた。
港からの潮の匂いと湿気が、この場所にはいつも漂っている。
古びたベンチに、イアンとハヤシが並んで腰を下ろしていた。
床には脱いだブーツが転がり、
その間に、コンビニで買ったワンカップが二つ、無造作に置かれていた。
イアン・アマネは背もたれに体を預け、天井を見上げている。
じっとしていられない男。
空を知ってしまった者特有の、地上への違和感を宿した目だった。
「なあ、ハヤシ」
ふいに、イアンが口を開く。
「ずっと飛んでるとさ、
地面の感触、分からなくならないか」
ハヤシは黙ってワンカップを手に取り、口をつけた。
「俺は、生まれたときから地面側だよ。
でも、落ち着ける場所はなかった」
イアンは小さく笑い、日本酒を飲んで顔をしかめる。
「ひどい味だな」
「それでも、食堂のビールよりはマシだ」
それ以上、言葉は続かなかった。
二人はしばらく、無言のままワンカップを傾ける。
やがて、イアンがぽつりと続けた。
「飛ばなくなった後のこと、考えたことあるか」
ハヤシは淡々と答える。
「親は、弁護士になれって言ってた。
兄貴はMBAを取って、今は重役だ」
「はは。
いかにも現状維持って話だな」
再び、ワンカップに口をつける。
「山梨に行ったことあるか」
「富士山のあるところだろ。休暇で一度だけ」
イアンは、ワンカップを見つめたまま言った。
「横須賀の訓練帰りに、富士が見えたんだ。
雪を被った古い酒蔵が、遠くに見えてさ。
屋根から湯気が立ってて……なぜか、忘れられなかった」
少し間を置く。
「旗に包まれて、
どこかの郊外で老後を迎えるのは嫌なんだ」
「何かを、残したい」
ハヤシが静かに問い返す。
「日本酒か」
「そうだ」
イアンは顔を上げた。
「お前にはルーツがある。
俺には、アメリカで集めた資金がある」
「日本酒に賭けてみないか」
現在。夜。悠司のアパート。
部屋は静まり返っていた。
雨音だけが、一定のリズムで窓を叩いている。
ハヤシは向かいに座り、悠司を見ていた。
「バークレーは、最初の場所じゃない」
悠司が顔を上げる。
「先に行くのは山梨だ。
富士酒造。真冬の仕込みだ」
「昔ながらのやり方しかやらない蔵だ。
効率も、生産性も、AIもない」
「……日本らしいですね」
悠司が、かすかに笑う。
ハヤシは即答した。
「だが、学ぶことは十分にある」
少し間を置いて、続ける。
「それでも、
まだやりたいと思えたら」
ハヤシは、悠司をまっすぐ見た。
「そのとき、バークレーに来い」
長い沈黙のあと、
悠司はほんのわずかに、だが確かにうなずいた。
ハヤシは立ち上がり、
狭いアパートを一度だけ見回す。
「向こうで会おう」
扉が開き、雨の音が流れ込む。
ハヤシは夜の中へ消え、
扉は閉められないまま残された。
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