十年待った切り札
封印されていた「未完成」と、
今この瞬間の「覚悟」が出会う、
ほんの短い時間の物語である。
倉庫になっているヨットの下層階は、ひんやりと冷えきっていた。
悠司は、通路の一番奥にあるドアの前で足を止める。
ゆっくりとドアを開けると、中には棚がいくつも並び、半ば忘れ去られたような空間が広がっていた。
そして、その奥。
ぽつんと、小さな木箱が置かれている。
「よかった。ちゃんと、持ってきてた」
悠司は小さく息を吐き、箱に近づくと、
蓋に書かれた、かすれた手書きの文字。
日付は、十年前。
その文字を見た瞬間、悠司の指が、ほんの一瞬だけ止まる。
あの日か。
小さく息を吸い、そして、ゆっくりと蓋を開けた。
中に入っていたのは、小さなタンクだった。
ミアが、肩越しに覗き込む。
「何、これ?」
悠司は、すぐには答えなかった。
タンクの表面に、そっと手を置く。
「父が封印してた酒だ。実験的に仕込んで、十年間、毎年少しずつ作り続けてたみたいだ。」
ミアが、驚いたように目を見開く。
「封印?」
「ああ。売る予定もなかったし、誰かに評価させるつもりもなかった。」
父は、この酒のことを、いつも「未完成だ」と言っていた。
だからこそ、誰にも見せず、誰にも飲ませなかった。
悠司は、静かにバルブをひねる。
ぽたり、と。
琥珀色の液体が、ほんの少しだけ落ちてくる。
ミアはすぐにサンプルを取り、簡易分析にかけた。
数秒後。
彼女の視線が、画面に釘付けになる。
「ちょっと、これ……」
「どうした?」
「アミノ酸量が通常の、約十倍ある」
悠司は、思わず息を呑んだ。
「十倍?」
「しかも、アルコール度数は5パーセント前後。このバランス普通じゃない」
二人は、小さなカップに注ぎ、慎重に口をつける。
香りは、驚くほど控えめ。
だが、舌に触れた瞬間。
「これ、いけるかも」
ミアが、思わず言葉をこぼす。
「バタースコッチ、みたい」
悠司も、ゆっくりと飲み込む。
はっきりと分かる“旨味”。
消えない。
主張しすぎない。
ただ、すべてを下から支えるように、そこに居続ける味。
「旨味、か」
ミアが、ぽつりと呟く。
悠司は、静かに頷いた。
「これをポップスみたいに、何杯でも飲める酒にする。ドンペリみたいに、ブレンドして」
「じゃあ……“ポップ酒”ね」
ミアは、半分冗談みたいに言ってから、すぐに真剣な顔に戻る。
「でも、何とブレンドするつもり?」
悠司は、別の箱の瓶詰めにされた酒に視線を向けた。
「こっちの酒で、二次発酵させる。発泡酒にするんだ」
一瞬、沈黙が落ちる。
今のメインの酒は、使えない。
仕込み直す時間も、ない。
ミアは、はっきりとそう言った。
「じゃあ、それでいくしかないわね」
悠司は、静かに目を閉じる。
これは、保険じゃない。
逃げ道でもない。
ただ、ずっと封印していた“最後の切り札”だ。
「……ああ」
二人は、すぐに動き出した。
シャンペン用の空いている瓶を、片っ端から集める。
ラベルなんて、用意している時間はない。
ミアが、ペンで一本ずつ、手書きしていく。
『Popsake』
悠司は、無言で、一本ずつ酒を詰めていく。
一瓶、一瓶が、やけに重く感じられた。
悠司は、最後の一本を置き、ゆっくりと息を吐いた。
「アイデアは……ずっと、頭の中にはあった。」
少しだけ間を置いて、続ける。
「でもこの不運をひっくり返す方法は、もうこれしかない。」
「本当に、賭けね。」
ミアが、ぽつりと言う。
そのとき。
コン、コン。
控えめなノックの音。
二人が顔を上げると、扉の小さな覗き窓の向こうに、人影が見えた。
エドュワルドだ。
ガラス越しに、鋭い視線がこちらを探る。
ゆっくりとドアが開く。
「準備はどうだ」
悠司は、一瞬だけ言葉に詰まる。
エドュワルドは、部屋の中に並んだ、不揃いな瓶の山を見る。
その表情は、読み取れない。
そのとき、もう一人、背後から顔を出す人物がいた。
クレアだ。
彼女は、軽く肩をすくめるようにして、言った。
「で? ……まだ、勝負できるの?」
倉庫の冷たい空気の中で、その言葉だけが、やけに重く響いた。
一瞬の沈黙。
悠司とミアは、顔を見合わせてから、静かに頷く。
「ええ。やります」
その答えを待っていたかのように、クレアは小さく息を吐き、ゆっくりと口を開いた。
「そう。じゃあ、最終決戦は香港で行いましょう」
その一言で、場の空気が少しだけ変わる。
「もっとメディアも呼んであるし……それに、審査員も、あと十人ほど追加してほしいって要望が来ているの」
まるで、天気の話でもするかのような口調だった。
悠司は、思わず息を呑む。
舞台は、さらに大きくなる。
クレアは、二人の反応を楽しむように、くすりと微笑った。
「ふふ……楽しみになってきたわ」
封印していた切り札を切ることは、
果たして、誰かの心に届くのか。
それとも、ただの悪あがきで終わるのか。
答えは、
次に注がれる一杯の中にある。




