表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
波の上の酒蔵  作者: 曽根崎令
帰らざる波の向こうに見え隠れする未来、それは父の意思が過去を変える夜
14/15

鉄の味と逆転の機会

どんなに誠実な仕事でも、

悪意は、ほんの一瞬で入り込む。

そしてそれは、「失敗」という顔をして、現れる。

これは、壊された酒をもう一度「物語」に戻すまでの、

ほんの数時間の記録である。

グラスが、静かに並べられていく。


再開されたテイスティングは、見た目にはさっきまでと何も変わらなかった。

照明も、音楽も、客の表情も。


だが。


最初に違和感を覚えたのは、年配の投資家だった。


「なんだこれは?」


彼は首をかしげ、もう一度、酒を口に含む。

眉間に、わずかな皺が寄った。


「何か、変だな」


それを合図にしたかのように、会場のあちこちで同じ仕草が広がる。


グラスを見つめる者。

舌の上で転がす者。

そっと寿司を口にして、もう一度、酒を飲む者。


「金属の味?」


「いや、血の味に近い」


ざわめきが、静かに、しかし確実に広がっていく。


悠司は、背中を冷たいものが走るのを感じた。


自分でも、確かめる。


口に含んだ瞬間、はっきりと分かった。


鉄だ。


それも、ごく微量だが、誤魔化しようのない、不快な後味。


「徐々に変わる味?」


すぐに、ミアと視線を交わす。

言葉は、いらなかった。


二人は同時に、頷いた。


悠司はカウンターの下に回り込み、タンクのバルブを閉める。

ミアは残っていた酒を小さな容器に移し、匂いを確かめた。


「間違いない。鉄分が出てる」


「タンクの中だな」


二人は、すぐに裏の保管スペースへ向かった。


ステンレスのタンク。

外見上は、何の異常もない。


だが、底のバルブを開いた瞬間。


カツン。


乾いた、嫌な音。


悠司は眉をひそめ、もう一度タンクを傾ける。


そして、転がり出てきたのは。


手のひらサイズの、黒ずんだ金属の塊だった。


「鉄?」


持ち上げた瞬間、ずしりと重みが伝わる。


ミアが、すぐにライトを当てる。


「これ、わざと入れられてる」


「偶然じゃない、ってことか」


ミアは小さく息を吸い、はっきりと言った。


「完全なサボタージュよ」


悠司は、歯を食いしばる。


誰が。

いつ。

どうやって。


脳裏に、昨夜の光景がよぎる。


赤い円。

赤い装束。

仮面のように無表情な顔。


あの中に。


ミアが、タブレットを取り出す。


「セキュリティログ、確認する」


数秒後。


彼女の指が、止まった。


「これじゃない?」


画面には、夜の保管スペースを映した監視映像。


そして。


赤い影の人物が、一瞬だけ、こちらを向く。


その立ち姿。

その体格。

その、歩き方。


悠司は、はっきりと理解した。


「紅丸の一団?」


重たい沈黙が落ちる。


****


その男は、抵抗しなかった。

いや、正確には、抵抗できなかった。

まだ赤い塗料が、首筋や耳の後ろに残っている。


数時間前まで、舞台の一部だった男。


紅丸の一団の、一人。


グランドサロンの空気は、凍りついていた。


ざわめきはない。

誰も声を出さない。


ただ、視線だけが、その背中に突き刺さっている。


紅丸は、少し離れた場所で、その光景を見ていた。


目を見開いたまま、動かない。


「……そんなバカな事があるなんて。」

喉から、かすれた声が漏れる。


「お前が……?」


彼は、一歩、よろめくように前に出かけて、止まった。


自分が率いた一団。

自分が信じて、舞台に立たせた仲間。


その中の一人が、サボタージュをした。


紅丸の拳が、わずかに震える。


「……俺の……責任だ……」


誰に言うでもなく、そう呟いた。


連行される男は、終始、俯いたままだった。


顔色は、赤い塗料の下でも分かるほど、青い。


小さく、肩が震えている。


別室に連れて行かれ、簡単な聴取が始まる。


だが。


男は、何も答えなかった。


名前を聞かれても。

誰に指示されたのかと聞かれても。


ただ、首を横に振るか、唇を噛みしめるだけ。


怒られているからではない。

捕まったからでもない。


もっと別の、何かを、恐れている。


悠司は、その様子を少し離れた場所から見ていた。


そして、確信する。


(……こいつは、首謀者じゃない)

こんな顔は、「命令された側」の顔だ。


ミアが、小さく頷く。

「ええ。脅されたか、弱みを握られたか……どっちかね」


紅丸は、壁に手をついて、俯いたままだ。

「……俺が……俺が、気づくべきだった……」


悠司は、しばらく考えた後、ゆっくりと口を開いた。

「紅丸さん。これは、あんたの芸の問題じゃない」


紅丸が、顔を上げる。

「……相手は、舞台の外にいる」


そして、悠司は、別のことを考えていた。


鉄を入れられたタンク。

狙いは、明確だった。


「俺の酒を、潰すこと」


なら。

次に出てくるのは、何だ?


悠司は、踵を返し、倉庫の方へ向かう。


ミアが、怪訝そうに声をかける。


「どこ行くの?」


「即席で、立て直す」


ミアは、目を細める。


「即席? 本気?」


少しだけ、間があく。


ミアは、現実を突きつけるように言う。


「残り時間、数時間しかないわよ」


悠司は、短く息を吸う。


「だからだ」


「どうするの?」


「以前から考えていた策があるんだ。」

悠司は、そう言って歩き出した。

この夜、悠司とミアが選ぶのは、

「正しさ」ではなく、

「完成させる覚悟」だ。


次にグラスに注がれる酒は、

果たして、誰の物語になるのか。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ