表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
波の上の酒蔵  作者: 曽根崎令
帰らざる波の向こうに見え隠れする未来、それは父の意思が過去を変える夜
13/15

闇の中の赤い影

一杯の酒の味は、米と水と、人の時間でできています。

けれど時に、そこには「意図」や「欲望」や「嘘」が混ざることがある。

救助艇のエンジンが唸りを上げた。


甲板の喧騒の中で、悠司は無意識にロープを掴んでいた。

手が震えている。でも、それを気にしている余裕はなかった。


「出るぞ!」


誰かの声。

救助艇が切り離され、暗い海へ滑り出す。


波は穏やかなはずだった。だが、さっきまでそこに巨大な機体が叩きつけられていたせいで、水面は不自然にうねっている。油の匂い。焦げた金属の匂い。白い泡の向こうに、何かが浮かんでいる。


「…人だ!」


ライトが照らす先で、オレンジ色のフロートにしがみつく影が見えた。


「近づきすぎるな! 漂流物が多い!」


悠司は叫びながら、舵を切る。

自分でも驚くほど、頭が冷えていた。


(流れを読む。風を読む。波に逆らうな)


いつか、父に叩き込まれた言葉が、勝手に体を動かしていた。


救助艇は大きく回り込み、漂流者の風上に出る。


「今だ!」


クルーが身を乗り出し、ロープを投げる。

影が、必死に掴む。


次の瞬間、大きな波が来た。


「くそ……!」


悠司は咄嗟にスロットルを調整し、船首を波に立てる。

船体が跳ね、衝撃が腕に伝わる。


だが、転覆はしない。


「いける!」


もう一度、距離を詰める。


二人掛かりで、男の腕を掴み、引き上げた。


ずぶ濡れの男は、甲板に倒れ込み、荒い息を吐いている。

空軍のフライトスーツ。

煤と油で汚れているが、生きている。


「他にもいるか!?」


男は、かすかに首を振った。


「いないかも知れない……」


そのとき、男の視線が悠司に向いた。


しばらく、何かを探すように彼の顔を見てから、かすれた声で言った。


「……君……」


悠司は息を呑む。


「君の父親に世話になった」


胸の奥が、強く殴られたみたいに痛んだ。


「横須賀で……一緒に飛んだことがある……いいパイロットだった……」


言葉が、すぐには出てこなかった。


誇らしい、なんて思っていいのか分からない。

ずっと、避けてきた名前だった。

思い出すたびに、胸が締めつけられる存在だった。


でも。


この人は、生きている。


父と同じ空を飛んで、そして今、ここで助けた。


「そうですか」


悠司は、ようやく分かった気がした。


あの事故は、ただの「終わり」じゃなかった。


誰かの命を、誰かの時間を、ちゃんと繋いでいたのだ。


「ありがとうございます」


それだけ言うのが、精一杯だった。


救助艇が母船へ戻るころ、空は少しだけ白み始めていた。


港の灯りが、さっきよりも遠く見える。


甲板に戻ると、クルーたちが静かに迎えた。

派手な拍手はない。

でも、確かな安堵があった。

その夜。


悠司はテイスティングルームを一度離れ、シャワーを浴びるために自室へ戻った。

首筋を流れる湯の音に、張り詰めていた神経が、ほんの少しだけ緩む。


十分ほどで戻る。


タンクの管理は他のスタッフに任せてある。

問題が起きるはずはない。


タンクルームの監視灯が、規則正しく点滅している。


人影はない。


だが、カードキーリーダーのランプが一瞬だけ赤から緑に変わった。


音もなく、扉が開く。


入ってきたのは二人。

赤いジャケット。


一人が見張り、もう一人が、工具ケースを静かに床に置いた。


部屋に戻った悠司は、タオルで髪を拭きながら、無意識に息をつく。


タンクのバルブが、わずかに緩められる。


ごく短い、金属音。


もう一人が、小さなアンプルを取り出す。

ラベルは、剥がされている。


中身は無色透明。


数滴と金属の破片。


それだけで。


男はキャップを閉め、アンプルをケースに戻した。


「二分。」


小声で、もう一人が言う。

バルブは元に戻される。


床に、何も残さない。


二人は来た時と同じように、音もなく出て行った。



悠司はタンクルームにもどり、コンテストのための酒を入れたグラスを持ち上げる。


一口、含む。


「おかしい?」


監視灯は、何事もなかったかのように点滅を続けている。


味が、違った。


同じ酒のはずなのに、輪郭がどこか曖昧だ。


舌の奥に残る感触が、記憶と微妙にずれている。


苦味の奥に、わずかな不自然な酸味。


悠司はグラスを見つめ、もう一口飲む。


「……何かが、違う」


だが、何が起きたのか。


誰が、どこで、何をしたのか。


その答えを、悠司はまだ知らない。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

引き続き、お付き合いいただけたら嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ