闇の中の赤い影
一杯の酒の味は、米と水と、人の時間でできています。
けれど時に、そこには「意図」や「欲望」や「嘘」が混ざることがある。
救助艇のエンジンが唸りを上げた。
甲板の喧騒の中で、悠司は無意識にロープを掴んでいた。
手が震えている。でも、それを気にしている余裕はなかった。
「出るぞ!」
誰かの声。
救助艇が切り離され、暗い海へ滑り出す。
波は穏やかなはずだった。だが、さっきまでそこに巨大な機体が叩きつけられていたせいで、水面は不自然にうねっている。油の匂い。焦げた金属の匂い。白い泡の向こうに、何かが浮かんでいる。
「…人だ!」
ライトが照らす先で、オレンジ色のフロートにしがみつく影が見えた。
「近づきすぎるな! 漂流物が多い!」
悠司は叫びながら、舵を切る。
自分でも驚くほど、頭が冷えていた。
(流れを読む。風を読む。波に逆らうな)
いつか、父に叩き込まれた言葉が、勝手に体を動かしていた。
救助艇は大きく回り込み、漂流者の風上に出る。
「今だ!」
クルーが身を乗り出し、ロープを投げる。
影が、必死に掴む。
次の瞬間、大きな波が来た。
「くそ……!」
悠司は咄嗟にスロットルを調整し、船首を波に立てる。
船体が跳ね、衝撃が腕に伝わる。
だが、転覆はしない。
「いける!」
もう一度、距離を詰める。
二人掛かりで、男の腕を掴み、引き上げた。
ずぶ濡れの男は、甲板に倒れ込み、荒い息を吐いている。
空軍のフライトスーツ。
煤と油で汚れているが、生きている。
「他にもいるか!?」
男は、かすかに首を振った。
「いないかも知れない……」
そのとき、男の視線が悠司に向いた。
しばらく、何かを探すように彼の顔を見てから、かすれた声で言った。
「……君……」
悠司は息を呑む。
「君の父親に世話になった」
胸の奥が、強く殴られたみたいに痛んだ。
「横須賀で……一緒に飛んだことがある……いいパイロットだった……」
言葉が、すぐには出てこなかった。
誇らしい、なんて思っていいのか分からない。
ずっと、避けてきた名前だった。
思い出すたびに、胸が締めつけられる存在だった。
でも。
この人は、生きている。
父と同じ空を飛んで、そして今、ここで助けた。
「そうですか」
悠司は、ようやく分かった気がした。
あの事故は、ただの「終わり」じゃなかった。
誰かの命を、誰かの時間を、ちゃんと繋いでいたのだ。
「ありがとうございます」
それだけ言うのが、精一杯だった。
救助艇が母船へ戻るころ、空は少しだけ白み始めていた。
港の灯りが、さっきよりも遠く見える。
甲板に戻ると、クルーたちが静かに迎えた。
派手な拍手はない。
でも、確かな安堵があった。
その夜。
悠司はテイスティングルームを一度離れ、シャワーを浴びるために自室へ戻った。
首筋を流れる湯の音に、張り詰めていた神経が、ほんの少しだけ緩む。
十分ほどで戻る。
タンクの管理は他のスタッフに任せてある。
問題が起きるはずはない。
タンクルームの監視灯が、規則正しく点滅している。
人影はない。
だが、カードキーリーダーのランプが一瞬だけ赤から緑に変わった。
音もなく、扉が開く。
入ってきたのは二人。
赤いジャケット。
一人が見張り、もう一人が、工具ケースを静かに床に置いた。
部屋に戻った悠司は、タオルで髪を拭きながら、無意識に息をつく。
タンクのバルブが、わずかに緩められる。
ごく短い、金属音。
もう一人が、小さなアンプルを取り出す。
ラベルは、剥がされている。
中身は無色透明。
数滴と金属の破片。
それだけで。
男はキャップを閉め、アンプルをケースに戻した。
「二分。」
小声で、もう一人が言う。
バルブは元に戻される。
床に、何も残さない。
二人は来た時と同じように、音もなく出て行った。
悠司はタンクルームにもどり、コンテストのための酒を入れたグラスを持ち上げる。
一口、含む。
「おかしい?」
監視灯は、何事もなかったかのように点滅を続けている。
味が、違った。
同じ酒のはずなのに、輪郭がどこか曖昧だ。
舌の奥に残る感触が、記憶と微妙にずれている。
苦味の奥に、わずかな不自然な酸味。
悠司はグラスを見つめ、もう一口飲む。
「……何かが、違う」
だが、何が起きたのか。
誰が、どこで、何をしたのか。
その答えを、悠司はまだ知らない。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
引き続き、お付き合いいただけたら嬉しいです。




