香港、浮かぶ宮殿
海外は閉ざされた。
ならば、揺れる海の上で正解を塗り替えるだけだ。
数日後。
バークレーの蔵は静かだった。だが、空気は張っている。
ミアがスマートフォンを見ながら言う。
「カナダ、全量返品。メキシコも同じく。」
関税の影響は大きい。
国。旗。政治。
「味は褒めてる。でも、それ以上に政治の圧力は大きい。」
悠司は盃を見つめる。
「活路を見出すには、
やっぱりこの機会を逃すわけにはいかない。」
沈黙。
「つまり、海外市場ではなく
戦場は、ここ」
ミアははっきりとうなずく。
「そして、ブライスはもう動いてる。次の半年で“どれが正解か”を決めに来る」
悠司はボトルを持ち上げる。
「じゃあ、正解を壊す」
ミアは笑った。
「やっと本気だね」
夜。蔵の外。
街の灯り、揺れるストリングライト。
「ねえ、本当にヨットで勝てると思う?」
「ブライスと、ケイコだよ」
悠司は言う。
「勝つかどうかは分からない。でも、予想通りにはしない」
彼は昔の話を始める。
東京のバー。パンクバンド。欠陥を隠さない演奏。
「欠点を演出に変えた瞬間、人は前に出てくる」
「……それで?」
「茶人の丸を知ってる。彼、ヨットに呼ばれてる」
ミアは目を見開く。
「じゃあ……」
「酒と茶を、同じテーブルに出す。キモノに、パンク。完成してないものを、完成形として出す」
「……正気じゃない」
「だから、行ける」
二人は笑った。
同じ方向を見ていた。
***
香港の海は、青すぎるほど青かった。
その上に白い宮殿が浮いている。
デライトフルの船体は陽光を跳ね返し、まぶしさの中で現実感を失っていた。
背後には、ガラスの摩天楼。
ヴィクトリアピークの緑。
赤と金のジャンク船が、古い物語みたいに横切っていく。
埠頭には、百五十人の客。
絹のスーツを着た後継者。
車より高いサングラスをかけた石油王。
宝石みたいなスマホを弄るテックの男たち。
リネンと真珠をまとったコレクター。
シャンパングラスが陽にきらめき、ジャズが小さく流れる。
タラップを上がるだけで、「別世界に入った」と錯覚する。
その少し離れた場所で、別の流れが動いていた。
パレットジャッキに積まれた杉箱。
側面には、富士酒造の刻印。
まだ温の残る藁の匂いに、蒸米と檜の気配が混じる。
フォークリフトがステンレスの樽を貨物庫へ運び、
白衣の醸造スタッフがラベルをひとつずつ確認していた。
「生酒・要冷蔵」
手書きの札に、結露が粒になっている。
税関の係官が蓋を開け、青い徳利を確認し、短くうなずく。
杉箱は、船の腹へと消えていく。
悠司は、その流れを見ていた。
ミアも隣にいる。
「ここまで運ぶの、夢みたいだね」
悠司は答えない。夢なら良かった。
ここは試される場所だ。
海の上で。足元が揺れる場所で。
夢ではなく、試される場所へ。
次の一歩は、足元の揺れごと踏み出す。




