踏み出す意志
異世界に行かなくても、チートがなくても、
日本の文化と技術を武器に世界を舞台に挑戦する、
恋も仕事も成功も手に入れる物語です。
冷たい雨が滑走路を叩き、サーチライトの光が雨粒を銀色に浮かび上がらせていた。
傾いたオスプレイの翼からは煙が立ちのぼり、焦げた金属の匂いが夜の空気を重くする。
横須賀航空基地は、いつもより静かだった。
作業員たちは無言で動き、救急車の赤いランプだけが闇を切り裂いている。
白いシートに覆われた遺体が、静かに担架に乗せられた。
敬礼する兵士たちの影が、雨に滲んで揺れる。
その視線の先で、一人の士官が帽子を脱ぎ、深く頭を下げた。
彼の手には、古びたフライトログと、封をされた小さな封筒。
封筒には黒いインクでこう記されている。
To: Yuji Amane
雨に濡れた文字は、時間の重みを刻むように、にじみかけていた。
* * *
横浜のスポーツバー。
テレビでは野球中継とニュースが同時に流れている。
佑司は無言でグラスを磨いていた。
胸元の名札には「ユウジ」とあるが、擦り切れて文字は薄い。
「またオスプレイが落ちたらしいな」
隣のバーテンダーが軽く口笛を吹く。
「今年で三機目だってさ」
佑司は返事をしなかった。
その代わり、ニュースのテロップが切り替わった瞬間、手が止まる。
『横須賀で米軍オスプレイ墜落。
パイロット、イアン・アマネ中佐、死亡』
流れる名前を、佑司はただ目で追った。
音が遠のき、身体が動かない。
誰かが「生ビールもう一杯!」と叫ぶ声も、今は届かない。
佑司は静かにエプロンを外し、タオルをカウンターに置いた。
そして、そのまま雨の中へ歩き出す。
雨は涙と混じり合い、
この瞬間を、過去へと押し流していった。
* * *
横浜の裏通り。夜。
フロントガラスを、雨筋がいくつも流れ落ちる。
路肩に停められた車の中で、サム・ハヤシは片手でハンドルを握っていた。
民間用のジャケットを着ているが、その姿勢には軍人の名残がある。
張った肩、周囲を確認する視線、無意識に出口を探す癖。
ハヤシは通りの向かいにあるアパートを見つめた。
二階建ての、質素な建物。
半分ほどの部屋にだけ、灯りがともっている。
スクーターが雨音を切り裂いて通り過ぎ、
相合い傘で犬を散歩させる人影が横切る。
日常は、何事もなかったかのように続いていた。
ハヤシは小さく息を吐き、首の後ろを揉む。
自分がここに来た理由は、まだ言葉にならない。
勧誘なのか。
伝言なのか。
それとも、過去の亡霊としてか。
雨足が強まる。
ハヤシはフードを被り、助手席の風呂敷包みを手に取って車を降りた。
水たまりを踏み越え、細い道を渡る。
年季の入った外階段を上ると、薄暗い踊り場に出た。
一度、ノックする。
返事はない。
もう一度、少し強めに叩く。
「……誰ですか」
佑司の声だった。
「ハヤシだ」
扉が開く。
ずぶ濡れのハヤシが、玄関に立っていた。
外套から落ちる雫が、小さな水溜まりを作る。
ハヤシは靴を脱ぎ、室内に入った。
ワンルームだが、驚くほど整っている。
揃えられた靴、本、畳まれた洗濯物。
机の上には、請求書と学生ローンの通知。
その一番上に、開封された封筒と一枚の小切手が置かれていた。
「突然すぎませんか」
「そうだな。自分でも、来るべきか迷ってた」
ハヤシは壁の写真に目を留める。
フライトスーツ姿のイアン・アマネ。
酒蔵の門の前に立つその隣には、子どもの描いた酒瓶の絵。
ハヤシの表情が、わずかに和らいだ。
風呂敷包みを机に置く。
中には小さな酒瓶と、二つの盃、そして書類。
「思ったより、ちゃんと暮らしてる」
「洗濯のチェックに来たんですか。わざわざ山梨から」
ハヤシは向かいに座る。
「違う」
「お前の父親が、やり残したことがある」
「それを終わらせられるのは……たぶん、お前だ」
「父さんが、何を?」
「かけ橋だ。ここから向こう側へ渡るための」
「誰が渡るか、それが決まってなかった」
佑司は小切手を見つめ、静かに言う。
「足りません。学費も、ここで生きる金も……何もかも」
ハヤシは頷く。
「なら、残るな。バークレーに来い」
「場所も、米も、水も、タンクもある」
「空きは一つだけだ」
沈黙。
佑司の呼吸が、少しだけ整う。
「どこかに属さなくていい」
「ただ、本物を作れ」
佑司は小切手を折り、書類の上に戻した。
言葉はない。
だが、それで十分だった。
ハヤシは酒瓶の栓を抜き、盃に注ぐ。
「イアンと俺は、富士酒造に出資した」
「二百年続いた、潰れかけの蔵だ」
「再建の金を出した。自分のためじゃない」
「全部、お前のためだと言っていた」
佑司は俯く。
「十二のときに両親が離婚してから、ほとんど会ってません」
「電話越しの声と、学費だけでした」
「専攻は?」
「微生物学です」
「俺の親も言ってた。歯医者か会計士になれって」
「だから入隊した。アメリカ人になりたかった」
「でも、誰もそれを求めてなかった」
酒を一口含み、ハヤシは言う。
「日本酒は借り物じゃ作れない」
「汗をかいて、火傷して、蒸気の匂いを纏って」
「それでようやく、自分のものになる」
佑司は盃を見つめ、
一度だけ、頷いた。
覚悟はまだない。
だが、踏み出す意志は、確かにあった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
今回は出会いと決断的な展開になりましたが、
この選択がこの先どう影響していくのか、
自分でも楽しみながら書いています。
「ここが良かった」「気になった」など、
短い感想でも大歓迎です。
次話も読んでいただけたら嬉しいです。




