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波の上の酒蔵  作者: 曽根崎令
父の名前がニュースに流れた夜、止まっていた時間が動いた
1/12

踏み出す意志

異世界に行かなくても、チートがなくても、

日本の文化と技術を武器に世界を舞台に挑戦する、

恋も仕事も成功も手に入れる物語です。

冷たい雨が滑走路を叩き、サーチライトの光が雨粒を銀色に浮かび上がらせていた。

傾いたオスプレイの翼からは煙が立ちのぼり、焦げた金属の匂いが夜の空気を重くする。

横須賀航空基地は、いつもより静かだった。


作業員たちは無言で動き、救急車の赤いランプだけが闇を切り裂いている。


白いシートに覆われた遺体が、静かに担架に乗せられた。

敬礼する兵士たちの影が、雨に滲んで揺れる。

その視線の先で、一人の士官が帽子を脱ぎ、深く頭を下げた。


彼の手には、古びたフライトログと、封をされた小さな封筒。

封筒には黒いインクでこう記されている。


To: Yuji Amane


雨に濡れた文字は、時間の重みを刻むように、にじみかけていた。


* * *


横浜のスポーツバー。

テレビでは野球中継とニュースが同時に流れている。


佑司は無言でグラスを磨いていた。

胸元の名札には「ユウジ」とあるが、擦り切れて文字は薄い。


「またオスプレイが落ちたらしいな」


隣のバーテンダーが軽く口笛を吹く。

「今年で三機目だってさ」


佑司は返事をしなかった。

その代わり、ニュースのテロップが切り替わった瞬間、手が止まる。


『横須賀で米軍オスプレイ墜落。

 パイロット、イアン・アマネ中佐、死亡』


流れる名前を、佑司はただ目で追った。

音が遠のき、身体が動かない。


誰かが「生ビールもう一杯!」と叫ぶ声も、今は届かない。


佑司は静かにエプロンを外し、タオルをカウンターに置いた。

そして、そのまま雨の中へ歩き出す。


雨は涙と混じり合い、

この瞬間を、過去へと押し流していった。


* * *


横浜の裏通り。夜。


フロントガラスを、雨筋がいくつも流れ落ちる。

路肩に停められた車の中で、サム・ハヤシは片手でハンドルを握っていた。


民間用のジャケットを着ているが、その姿勢には軍人の名残がある。

張った肩、周囲を確認する視線、無意識に出口を探す癖。


ハヤシは通りの向かいにあるアパートを見つめた。

二階建ての、質素な建物。

半分ほどの部屋にだけ、灯りがともっている。


スクーターが雨音を切り裂いて通り過ぎ、

相合い傘で犬を散歩させる人影が横切る。

日常は、何事もなかったかのように続いていた。


ハヤシは小さく息を吐き、首の後ろを揉む。

自分がここに来た理由は、まだ言葉にならない。


勧誘なのか。

伝言なのか。

それとも、過去の亡霊としてか。


雨足が強まる。

ハヤシはフードを被り、助手席の風呂敷包みを手に取って車を降りた。


水たまりを踏み越え、細い道を渡る。

年季の入った外階段を上ると、薄暗い踊り場に出た。


一度、ノックする。

返事はない。


もう一度、少し強めに叩く。


「……誰ですか」


佑司の声だった。


「ハヤシだ」


扉が開く。

ずぶ濡れのハヤシが、玄関に立っていた。

外套から落ちる雫が、小さな水溜まりを作る。


ハヤシは靴を脱ぎ、室内に入った。

ワンルームだが、驚くほど整っている。

揃えられた靴、本、畳まれた洗濯物。


机の上には、請求書と学生ローンの通知。

その一番上に、開封された封筒と一枚の小切手が置かれていた。


「突然すぎませんか」


「そうだな。自分でも、来るべきか迷ってた」


ハヤシは壁の写真に目を留める。

フライトスーツ姿のイアン・アマネ。

酒蔵の門の前に立つその隣には、子どもの描いた酒瓶の絵。


ハヤシの表情が、わずかに和らいだ。


風呂敷包みを机に置く。

中には小さな酒瓶と、二つの盃、そして書類。


「思ったより、ちゃんと暮らしてる」


「洗濯のチェックに来たんですか。わざわざ山梨から」


ハヤシは向かいに座る。


「違う」

「お前の父親が、やり残したことがある」

「それを終わらせられるのは……たぶん、お前だ」


「父さんが、何を?」


「かけ橋だ。ここから向こう側へ渡るための」

「誰が渡るか、それが決まってなかった」


佑司は小切手を見つめ、静かに言う。


「足りません。学費も、ここで生きる金も……何もかも」


ハヤシは頷く。


「なら、残るな。バークレーに来い」

「場所も、米も、水も、タンクもある」

「空きは一つだけだ」


沈黙。


佑司の呼吸が、少しだけ整う。


「どこかに属さなくていい」

「ただ、本物を作れ」


佑司は小切手を折り、書類の上に戻した。

言葉はない。

だが、それで十分だった。


ハヤシは酒瓶の栓を抜き、盃に注ぐ。


「イアンと俺は、富士酒造に出資した」

「二百年続いた、潰れかけの蔵だ」

「再建の金を出した。自分のためじゃない」

「全部、お前のためだと言っていた」


佑司は俯く。


「十二のときに両親が離婚してから、ほとんど会ってません」

「電話越しの声と、学費だけでした」


「専攻は?」


「微生物学です」


「俺の親も言ってた。歯医者か会計士になれって」

「だから入隊した。アメリカ人になりたかった」

「でも、誰もそれを求めてなかった」


酒を一口含み、ハヤシは言う。


「日本酒は借り物じゃ作れない」

「汗をかいて、火傷して、蒸気の匂いを纏って」

「それでようやく、自分のものになる」


佑司は盃を見つめ、

一度だけ、頷いた。


覚悟はまだない。

だが、踏み出す意志は、確かにあった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


今回は出会いと決断的な展開になりましたが、

この選択がこの先どう影響していくのか、

自分でも楽しみながら書いています。


「ここが良かった」「気になった」など、

短い感想でも大歓迎です。

次話も読んでいただけたら嬉しいです。

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