近すぎる存在
森は静かだった。
静かすぎた。
まるでファルデンそのものが息を潜め、
地を踏む“それ”を見ないふりをしているかのように。
ダリオンはゆっくり歩いていた。
一定のリズムで。
まるで身体ではなく、自分の影だけを運んでいるように。
その後ろには……
かつて「人」と呼ばれたものが連なっていた。
二つの刻印を押された“供物”の囚人たち。
教団が捧げものとして扱った者たち。
そして、彼自身がここへ連れてきた者たち。
さらに――
普通のシャグレツ達。
ファルデンの空気に耐えきれず、
布袋のように崩れ落ちた者たち。
今、その全てが並べて置かれている。
倒れ、
歪み、
声もなく。
彼らの死は目的ではない。
ただの道具だ。
父が命じた。
ダリオンは遂行した。
――鐘が鳴ったのは、その直後だった。
遅れて届いた衝撃は、
大地そのものが音を引き止めようとしたかのように鈍く重かった。
木の皮を震わせ、
湿った根を揺らし、
土の小さな窪みにまで低い唸りとなって走る。
まるで巨大な何かが地下から拳を叩きつけたようだった。
最初に倒れたのは従者だった。
あの音に耐えられず、
その衝撃に押し潰されるように地に落ちた。
鈍い衝突音。
短い嗚咽。
そして震える声で――
「ご、ご主人さま……ダ、ダリオン様……
い、今の……なん、なんですか……?」
ダリオンはすぐには返事をしなかった。
死体を見ていた。
まるで焚き火の薪を慎重に積むように、
整然と並べられた腐肉の山を。
従者はよろめきながら立ち上がる。
顔色は石灰のように白かった。
「ご主人さま……つまり……
わ、私たちは……戻れない……のですか?
で、でも……遺体は……その……」
ダリオンは答えず、
ただ手を上げた。
従者は動きを止める。
ぎこちなく瞬きをし、
胸の奥が小さく波打つ。
獣が突然、
至近距離で捕食者を見てしまったかのように。
「ご、ご主人さま……?
な、何を……
ちょっと、お待ち――」
言い終える前だった。
それは“攻撃”ではなかった。
鋭くも痛みもない。
ただ――
異質な意志が、
彼を「世界の外」へ押し出したような感覚。
従者が悲鳴を上げる。
「な、何――!?
ちょ、ちょっと待っ――
あ、あ、あああああああああああああ――!」
声はすぐに途切れた。
森がその口を塞いだように。
身体は吹き飛び、
そのまま黒い木々の隙間へ吸い込まれていく。
まるで以前からそこに穴があり、
肉を待ち構えていたかのように。
ファルデンは跡形もなくそれを呑み込んだ。
空気が一度震えた。
一瞬だけ。
根の下に、誰かの絶叫の残響が引っかかったかのように。
ひとり残されたダリオンは、
剣のように真っ直ぐ立つ。
静かに手を伸ばした。
光が生まれる。
火でも雷でもない。
密度のある、
重たく白い光。
眩しさではなく、
“重さ”を持つ光。
それが弧を描き、
ダリオンの内側から抱き締めるように膨らむ。
足元の大地が白く照り、
影が吸い込まれる。
空気が銀色に変わり――
次の瞬間、
世界は鋭い音を立てて裂け、
また閉じた。
ダリオンは消えた。
草に残った淡い光の跡もすぐに、
音もなく消え去った。
そして遥か前方――
教団の石造りの心臓部で、
微かな震えが壁を走る。
静かに。
しかし確かに。
それは、
グラジに触れた者なら誰もが感じる震え。
*
光が弾けた。
ダリオンが教会へ足を踏み入れた瞬間、
動きが止まる。
空気が顔に叩きつけられた。
冷気でも熱でもない。
もっと生臭く、
湿り気のある――
生きた何かの息を吸い込んだような衝撃。
「ッ……」
彼は歪んだ顔で柱に手をつく。
胃が捻られ、
臓腑が裏返るような圧迫。
一瞬だが、
激しい吐き気が走る。
前屈みになり、
短く、鈍い息を吐き出す。
苦い唾だけが床に落ちた。
「……クソ……が……」
口元を手で乱暴に拭う。
理解できない。
感じ取れない。
これはグラジではない。
父の力でもない。
彼が人生で嗅ぎ続けた腐敗の匂いでもない。
それなのに――
ここに満ちている。
濃い。
重い。
空気中に漂う“生”の塊。
周囲を見ても、
ただの広間。
ただの仮面。
ただの神官。
なのに胸の奥を揺らすこの存在は何だ。
「……なんだ……この気持ち悪さは……」
一歩踏み出すと、
足元の石が小さく震えた。
本当にほんのわずか。
だが確かに揺れた。
まるで床下で
何かが目を開けたように。
「……チッ……」
喉が焼け、
鉄の味が舌に広がる。
脅威も
力も
敵意も
何も感じない。
ただひとつ――
“異常”だけが残る。
空気が濃すぎる。
純度が高すぎる。
生命が生々しすぎる。
「……ファルデンの気配じゃない……」
背筋に冷たいものが落ちた。
父に教わったやり方で“探ろう”とする。
だが背骨を氷の板で押されたような刺激だけが返る。
「なんだ……これは……」
「なぜ俺が……人間みたいに……反応してやがる……?」
衝動で壁を殴った。
石に細い亀裂。
拳は無傷。
だが手が震えていた。
この空気。
この震動。
この“何か”。
――まるで体内に光を無理やり流し込まれているような。
「……最悪の日だ……」
掠れる声で吐き捨てる。
正体は分からない。
探し方も分からない。
恐れるべきなのかも分からない。
ただ一つだけ確かだった。
この教会の中に、“未知”がいる。
そしてそれは――
隠れる気などさらさら無かった。
*
最初は、ただのざわめきだった。
囁き。
慌ただしい足音。
上階で響く重い動き。
神官たちは走り回る。
まるで閉じ込められた虫のように。
鐘が『眼』を示した理由が分からず、
誰もが戸惑っていた。
「あり得ない……」
「降りて来るはずが……」
「まさか……巡礼者が……?」
火花のように言葉が散る。
だが誰も――
「どこを見るべきか」分かっていない。
ひとりを除いて。
シェドウ。
彼女は動かない。
表情も変えない。
ただ、
ほんの一瞬――
瞼が静かに、
滑らかに落ちた。
胸の奥で、
柔らかく重い気配が震える。
――ここ。
グリディスは気づかない。
だが別の変化は感じた。
シェドウの身体が
ふっと“重く”なった。
足元の影が濃くなり、
空気が冷える。
「……シェドウ?」
返事を待たず、
彼は反射的に
その背にしがみついた。
腹の奥を冷たい何かが這っている気がした。
彼はシェドウの腰に腕を回す。
子供のように、
怯える少年のように。
彼女は振り払わなかった。
「な、何が……?」
「静かに、グリディス。
……動かないで。」
リレールは壁際で震えていた。
フードが揺れ、声は細い糸のよう。
「は、入ってくる……気が……します……
でも……音が……しません……」
確かに――音は無かった。
足音も、衣擦れも。
だが空気が沈む。
世界が押されているかのように。
神官たちが次々と黙り込む。
ひとりが蝋燭を落とす。
ひとりが数珠の紐を握り損ねる。
もうひとりはその場に座り込む。
「ば、馬鹿な……」
「ダリ……お前……自ら……?」
「ど、どうして……ここへ……?」
言葉が喉で折れた。
階段の上に“影”が落ちた。
歩みではない。
光でもない。
ただ――影。
そしてその後に現れた“人”。
ダリオン。
司祭の外套もない。
仮面もない。
印もない。
ただの灰色の外套。
濡れた髪。
だが――
その瞳だけが異様だった。
冷たい。
鮮やか。
澄み切っている。
彼はただ、立っていた。
それだけで広間が狭くなる。
恐れを知らぬはずの神官たちが、
草が風に伏せるように身体を縮める。
グリディスは理解できなかった。
ただ一つだけは分かった。
シェドウが一歩、後ろへ寄ったこと。
そして彼の手を、
静かに握り返したこと。
「息を吸いすぎるな、グリディス。」
「な、なぜ……?」
「聞かれる。」
喉が詰まり、
彼はさらにシェドウにしがみつく。
リレールの声が震えた。
「し、シェドウ様……
か、彼……
わ、わたしたち……見て……?」
「見てない、リレール。」
シェドウの声は無機質だった。
「彼は“空気”を探してる。
人じゃない。」
ダリオンが階段を降りる。
普通の歩幅で。
静かに。
しかし床は軋んだ。
建物が悲鳴を上げているように。
五歩の距離で止まる。
周囲の神官は立てない。
膝をつく者。
顔を覆う者。
震える者。
「巡礼者……」
「なんて気配だ……」
「なぜここに……?」
そのとき――
ダリオンは、
ほんの少しだけ首を動かした。
シェドウのほうへ。
彼女を見るのではない。
その“周囲”を見るかのように。
空気の層。
気配の膜。
彼は形のない“痕跡”を探していた。
シェドウは静かだった。
グリディスは震えていた。
リレールは立つのがやっとだった。
そしてダリオンは――
ただ言った。
低く。
色のない声で。
しかし広間すべてが震えた。
「……ここに……
“何か”がいた。」
心臓が止まる。
シェドウがグリディスの手を強く握る。
今までにない強さで。
そして囁いた。
「……近い。
とても……近い。」




