闇の主に選ばれた人形
路地裏は井戸水を石に流し込んだような冷気で息をしていた。
シャドウは濡れた布のように光る外套を揺らしながら、迷いなく歩く。
グリディスはリレールを少し離れたところで支えていた——
細く、傷だらけで、震えている少女を。
しかしシャドウが一歩前へ進んだその瞬間——
リレールは彼の腕から、するりと抜け落ちた。
逃げる獣のように。
最後の望みに縋る影のように。
彼女は這った。
四つん這いで。
濡れた石を爪で引っかきながら。
ぽた、ぽた、と血の跡を残しながら。
「……ご、主人さま……いかないで……」
シャドウが立ち止まり、肩越しに振り返る。
その瞳は怠惰で、なのに危険だった。
「這ってくるの?」
冷たく問う。
「そこまでして?」
リレールはしゃくり上げた。
「ひとりじゃ……無理……」
彼女の指先が外套の端に触れた瞬間——
シャドウの手がリレールの顔を地面に押しつけた。
ぐしゃり。
「許可なく触らない。
人形は……命令に従うものよ。」
鈍い音。
リレールは息を詰まらせる。
それでも逃げなかった。
むしろ、シャドウの足元に縋りつくように近づいた。
グリディスは青ざめる。
「シ、シャドウ……これ、やりすぎ——」
「静かに、坊や。」
シャドウは一度も彼を見なかった。
「今は仕事中。」
彼女はリレールの頭を解放し、
リレールは震えながら膝を立てる。
涙が顎を伝い、汚れと混じる。
その手首を、
シャドウが掴む。
……そして動きを止めた。
「……そう。隠れてたのね。」
グリディスは理解できない。
だがシャドウはリレールの腕を持ち上げ、
掌を自分のほうへ向ける。
闇が濃くなった。
まるで夜そのものが覗き込もうと近づくように。
〈グラシュの線〉
死んだはずのグラシュの跡——
そこから細い紅い糸が二本、皮膚の下で震えていた。
這う。
うねる。
肩のほうへ、さらに奥へ、
寄生根のように。
リレールは悲鳴を上げる。
「い、いたっ……!」
シャドウは薄く笑った。
「痛いでしょうね。
教会は“おもちゃ”を手放したがらない。」
グリディスは唾を飲む。
「まさか……切るつもり……?」
シャドウは指を鳴らす。
闇から刃の影が現れた。
『道化の微笑』
しかし今は武器ではない。
儀式具だった。
「《裂線の儀》よ。
できるのは……私たち〈風生〉だけ。
一度だけ。二度目はないわ。」
リレールは蒼白になった。
「ご……主人さま……」
「黙って。」
声音は鋼のようだった。
「動かないで。」
シャドウは一つ目の糸に触れる——
切った。
皮膚ではなく、糸そのものを。
水面下で氷が割れるような音。
リレールの叫びが弾ける。
「きゃあああっ!! も……燃える……!」
もう一本の糸が逃げようとうねる。
シャドウは親指で押さえつけ、
狂気じみた静けさで囁いた。
「逃げないの。」
そして切った。
——閃光。
血ではなく、紅い“光”の破裂。
それを闇が吸い込む。
リレールは崩れ落ちかけるが、
シャドウが顎を掴んで支える。
〈リレールの内側〉
暗闇が、裂ける。
見えた。
歪んだ人影。
名前の消えた顔。
笑う聖職者。
掴んだ手。
殴った腕。
冷えた部屋。
消えた子どもたちの声。
シャドウは闇に手を入れ——
……それらを引きちぎった。
悲鳴は魂の叫びだった。
「やめ……やめてぇぇ……っ!!」
「これはゴミよ。」
シャドウは淡々と言い、
破片を投げ捨てる。
影はそれを呑み込み消した。
〈身体の再構築〉
刃を上げる。
闇が渦を巻き、リレールの身体を包む。
数センチ浮く。
リレールは震える。
「ご……主人さま……こわい……」
「怖がりなさい。
“私のもの”になるとは……そういうこと。」
影が腰を締める。
歪んだ骨格が整う。
ゴキリ。
痛みではない。
位置が戻る音。
脚に影が走り、
長さと線が整う。
背筋はまっすぐに。
肩はしなやかに。
髪が波のように落ち、
汚れも乱れも消える。
「私の人形が、浮浪児のままでいいわけない。」
胸元を冷たい指で測るようになぞり、
「痩せすぎ。
餓えの痕は……不要。」
影が身体に満ちていく。
リレールが身をのけぞらせる。
「いっ……あぁぁぁぁ——っ!!
む、無理っ……! 主人さま……!」
「できるわ。
生きたいんでしょう?
私のそばで。」
リレールは泣きながら頷く。
「い……生きたい……
ご主人さまの……そばで……」
「なら耐えなさい。」
影が静まる。
彼女の身体は治った。
外傷は全て消えた。
殴られた痕も骨折も。
だが——
内側は、治していない。
傷ついた心。
壊れた精神。
焼け残った恐怖。
それらはそのまま、
リレールの奥で震えていた。
シャドウは意図的に残したのだ。
〈衣装と外見〉
影が溶け、
代わりに布が形作られる。
まずは長い黒衣。
膝下までの柔らかな布。
袖は長く、影のように揺れる。
次に素朴なズボン。
動きやすく、目立たない。
静かな夜に溶け込む色。
最後に——
頭巾。
粗布のようで、
だが完璧に形を保つ。
顔の上半分は闇に沈み、
目は完全に見えない。
視界そのものを影が閉ざしたように。
見えるのは——
ふるえる唇だけ。
リレールは指でそこを触れた。
「……な、何も……見えません……
ご、主人さま……」
シャドウは顎を上げさせる。
「昔から大して見えてなかったでしょう。
これでいい。」
「で、でも……視力は……あとで……?」
「努力次第ね。」
リレールは怯えながらも、
その言葉に縋るように息をした。
グリディスは呆然と呟く。
「……なんか……
司祭か……影の巫女か……そんな……」
「違うわ。」
シャドウはきっぱり言う。
「これは私の人形。
逃げないための殻よ。」
リレールは袖を握った。
「……あたたかい……
ご主人さまの匂い……」
「震えるな。」
シャドウは軽く指を鳴らす。
「あなたは幽霊じゃない。
生きてる。
盲目で、
私のもの。」
リレールは片膝をつき、
頭巾が影を落とす。
「……はい……
ありがとう……
ご主人さま……」
グリディスは苦笑する。
「ラ……ラテックスじゃなくてよかった……」
シャドウは片眉を上げた。
「希望するなら、今すぐ変えてあげるわよ?」
「い、いやぁぁぁ!!」
リレールは見えない目で微笑んだように感じた。
〈操影〉
「歩きなさい。」
「……ど、どちらへ……?」
「私のところへ。」
リレールは手探りで進む。
一歩目——外れる。
二歩目——短すぎる。
三歩目——
つまずく。
「あっ……!」
グリディスが叫びかける。
「シャド——」
「動かないで、坊や。」
シャドウが軽く手を振る。
その瞬間、
リレールの足元で影が持ち上がり、
彼女を“支えた”。
浮いた——
ではなく
“つかまれた”ように。
「ご主人さま……?」
「左へ。」
手が左に動く。
影が流れる。
リレールも従う。
グリディスの声が漏れた。
「……道を……敷いてる……?」
「そうよ。」
シャドウは退屈そうに言う。
手が上がる。
リレールの顎も自然と上がる。
二歩。
三歩。
影は彼女の足場を整え、
シャドウは動きを指揮し、
リレールは……
聞いて従う。
影が消えた瞬間——
また転びかける。
「ご主人さまっ——!」
「止まれ。」
パチン。
リレールは空中で静止する。
シャドウは歩み寄り、
顎を掴む。
「よく聞くようになったわね。
いい子。」
「……こわい……
でも……ご主人さまがいるなら……」
頬に触れる指。
闇が震える。
「怖がりなさい。
でも……一番怖がるべきは一つだけ。」
シャドウは唇を耳に寄せ、囁いた。
「——私を失うことよ。」
リレールは全身で震え、
膝が砕けた。
「い、いや……
絶対に……失いません……
ご主人さま……」
グリディスは一歩引いた。
これは——
儀式以上。
契約以上。
支配と救いの境界線。
シャドウは手をひらりと振る。
影が滑らかに流れ、
リレールはまた歩き出す。
そして——
シャドウの胸元へ辿り着くと、
彼女は腰を掴んでくるりと引き寄せ、
まるで闇の舞踏会のパートナーのように抱いた。
「そう。これで歩ける。」
リレールは小さな声で。
「……ご主人さまの……そばでだけ……」
シャドウはその額へ、
短く、支配するようなキスを落とす。
「ええ。
ずっと、そうしなさい。」




