「逃げる者への授業」
扉が背後で重く閉まり、まるでこの家自身が疲れ切ったような音を立てた。
シェドウが先に細い階段を降り始め、グリディスは自然と半歩後ろに並んだ。
階段は湿って冷たく、
薄い水膜が張りついている。
まるで街そのものが湿った息を吐きかけてくるようだった。
コツ…
コツ…
コツ…
二人の足音は静かで揃っていた。
前方から街の音が近づき、
見えない何かに押されるように下へと誘われる。
最後の段に差しかかった瞬間、
シェドウがわずかに体重を前へ移し、
ゆるく外套の端をつまんだ。
その時だった。
左側の暗い横路地で、
じっとこちらを見つめる影が一つ。
痩せた小さな少女。
白く絡んだ髪が顔を覆い、
大きな瞳は恐怖で見開かれていた。
人間というより、追い詰められた小動物のようだ。
少女は動かず、
ただ距離を測り、
指をわずかに握りしめていた。
そこにはすでに「奪う」つもりの形があった。
(今…もっと近く…もっと…そう…)
グリディスが最後の段を踏み、
シェドウの靴底が石に触れようとした、その瞬間――
少女が跳んだ。
全身を投げ出し、
荒く、早く、必死に。
誰に向かうでもなく、
ただ目の前を通り抜け、
何か一つでも奪って逃げようと。
しかしシェドウは、
その気配を足が着く前に感じ取っていた。
音でも視線でもない。
「意図」――鋭く、飢えた、獣のような衝動。
背筋に冷たい風が走る。
シェドウは顔すら向けず、
外套をつまむ指をひっそりと締めた。
合図のように。
少女が衝突する寸前――
シェドウの体は、すっと沈んだ。
跳んだのでも避けたのでもない。
まるで少女の落下点が最初から分かっていたように。
少女の視界に飛び込んだのは――
シェドウの顔。
至近距離。
危険なほど静かな笑み。
細く切り裂いたような口元。
底の見えない黒。
そして――
パシィッ!
シェドウの手のひらが少女の喉に正確に叩き込まれた。
砕くためではない。
息を奪うための、平打ち。
少女の声は叫びにもならず、
折られた息が潰れて漏れた。
「…ッ、ガ…ッ…ッ」
そのまま力が抜け、
少女の体は床に叩きつけられる。
ゴッ。
頭が石にぶつかる鈍い音。
視界が回転する。
ぼやけた空。
涙。
まつ毛に積もる埃。
喉の痛み。
舌に広がる鉄の味。
そして――
その上に立つ影。
シェドウ。
獲物がまだ生きているか確認する捕食者の目。
興味と冷静さが混ざった、残酷な静けさ。
少女の意識が沈む直前、
手が勝手に動いて泥を掴もうとする。
シェドウはそれを見た。
ゆっくりと、楽しむように、
少女の手首の上に自分の踵を置く。
最初はやさしく。
しかし――
ぐっ。
押し込む。
指が不自然な方向に曲がり、
爪の下の泥が押しつぶされ、
痛みの波が少女の全身を噛み砕く。
「いっ…あぁああああっ!!や…やだっ!!たすけ…っあああ!!」
喉の痛みすら忘れるほど純粋な悲鳴。
涙が泥と混ざり、ぐしゃぐしゃに溶ける。
シェドウの瞳はわずかに揺れた。
彼女のトレスディルが、
屈辱の声に反応してうずく。
グリディスはその波を感じた。
首筋に触れられたような熱。
「シェドウ!!やめろ!!死んじゃう!!」
だがシェドウは口角をわずかに上げただけ。
その目は冷たく澄んでいた。
そこへ、階段を駆け下りる重い足音。
二人の衛兵。
肩のグラシュが赤黒く脈打つ。
「刻印持ちだな。さあ、引き渡せ。」
シェドウは一歩前へ。
腕を組み、見下ろす角度で微笑む。
「どこへ触るつもり?」
衛兵が一瞬ひるむ。
その瞬間、地面で揺れる少女が身体を起こそうとして――
ぐらっ。
バランスを失った。
そして。
ボフッ。
シェドウのお尻に頭突き。
全員が固まった。
少女は自分が何をしたか理解した瞬間、
「ひっ……!!」
耳まで真っ赤になり、肩をすくめた。
シェドウの外套には少女の血が少しついていた。
「……まあ、命中率は高いわね。」
シェドウがぼそりと言う。
グリディスは呼吸を整え、震える声で言った。
「ぼ、僕…今の…見えなかった……」
シェドウは手のひらだけで示す。
――黙れ。
少女は完全にシェドウの後ろへ隠れ、
外套の端を握りしめた。
衛兵が苛立ちの声で吐く。
「そこをどけ。こいつは“教会の所有物”だ。」
シェドウの目が細くなる。
「所有物?あなたの声?それとも弱さ?」
衛兵の顔が引きつった。
観客が増えていた。
商人、通行人、誰かの馬車。
全員がこのやり取りを見ている。
グリディスはそっとシェドウの肘に触れ、低く囁いた。
「ここ…まずい。人が多すぎる。
裏路地へ誘導した方が…揉めずに済む。」
衛兵たちはその言葉を拾う。
「逃げる気か?」
「逃げないよ。」
グリディスがきっぱり言った。
「取引する気だ。」
衛兵たちの喉が同時に鳴る。
シェドウが薄く笑った。
「大胆ね、グリディス。
少し私に似てきた。」
裏路地へ移動し、
シェドウは少女を雑に引きずりながらも、
明らかに少し優しく扱う。
少女は全身で震えながら、
それでもシェドウの腰布を握りしめた。
まるでそれ以外の世界すべてが敵であるかのように。
路地に入った瞬間、
少女はまたバランスを崩し――
ボスッ。
シェドウの後ろに顔面から倒れ込む。
「ちょっと……」
シェドウはため息をつく。
「私は椅子でもクッションでもないのよ?」
衛兵たちの視線が、
シェドウの背中から胸元へ滑った。
シェドウはゆっくり外套を開き――
谷間のラインがわずかに覗く。
衛兵の喉が鳴る。
「ごくっ。」
「見るだけで交渉が進むなんて安いわね。」
シェドウが皮肉に微笑む。
そして次の瞬間。
シェドウの拳が、
裏拳のような鋭さで
一人目の首元に叩き込まれた。
ドスッ。
男は膝から崩れ落ちる。
続けて踵を回し、
もう一人の後頭部へ――
ゴッ。
静かに、確実に二人を沈めた。
グラシュが一瞬点滅し、
まるで「敗北」を認めるように沈黙した。
外套を軽く払って振り返るシェドウ。
「ねえグリディス。
男ってほんと、下を見すぎよね。」
グリディスは口が開いたまま。
「い、今の……何したの……?」
「教育よ。」
衛兵の手に無造作にコインを投げ落とす。
「これは“記憶喪失料”。
全部忘れなさい。」
少女を引き寄せ、グリディスに押しつけて歩き出す。
「さ、行くわよ。
立ち止まってたら、今度は別のバカが寄ってくる。」
少女は数歩歩いたのち、
耐えきれずまたシェドウに飛びつき――
ドンッ
今度は尻に正面から。
「……もう!!君たち!!」
シェドウは顔を覆った。
少女は泣きそうになりながら、
シェドウの外套に顔を埋め、小さな声でつぶやく。
「……そばにいると……こわくない…」
シェドウの目が一瞬だけ柔らかく揺れた。
「……はあ。
本当に変な子を拾ったわね、私。」
「シェドウ…」
グリディスが言う。
「この子…あなたから離れようとしないよ。」
シェドウは肩をすくめ、少女の頭に軽く手を置く。
「……分かったわよ。
次の角までだからね。
こけても知らないから。」
少女はまた――
コツン
お尻に頭をぶつけた。
「やめなさいってば!!」
グリディスは腹を抱えて笑い転げる。
「二人とも黙れ。行くわよ。」
シェドウは少女の肩を抱き寄せ、
半分外套で包み込んだ。
歩き出しながら、ほんの少しだけ優しい声で言う。
「……ほら。
今は私が持っててあげる。
生きてるうちはね。」




