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門を越えて

森の端から離れるほど、

「人の気配」が強くなっていった。


道端の草は踏み荒らされ、

ほぐれた藁の切れ端、

食べ残しの骨、

ほどけた青い紐が転がっている。


前を行く誰かが声を上げていた。

風に流れる断片的な言葉。

意味は分からない。

けれど、それが「人の声」だと分かるだけで、

肩の力が少し抜けた。


――だが、その安堵は脆い。

薄い氷の上に立っているようなもの。

一歩間違えば、すぐに森に引き戻される。


グリディスは呼吸を数えていた。

「短く、長く、一拍」――

シャドウに教えられた通りに。


左目には時折、光の筋が揺らめいた。

森に残したドリアードへと伸びる糸。

視線を逸らす。

――糸は、引いてはいけない。


「振り返るな」

シャドウが言った。

「礼も言うな。ただ、振り返るな」


「僕は……」

言いかけて、口を閉じる。

「……わかった」


坂を登ると、灰色の石壁が現れた。

高くはない。

けれど、確かにそこに「在る」。


隙間には苔と蔦、

古い命が根を張っていた。


木の門は鉄で補強され、

まるで傷だらけの掌のようだった。


両脇の櫓には二人の兵士。


左の男は木のように動かない。

ただ静かに根を張る木のように。


右の男は落ち着かず、

視線を飛ばし、

指先で何かを数えていた。


「おい、見ろよ」右の兵士が声を上げた。

「生きてるぞ。二人だけか……森に選ばれたか?」


「口を閉じろ、ラレク」

左の兵士――イレンは静かに言った。

その声は削り出した木の板のように乾いている。


ラレクは階段を降りてきた。

靴を脱ぎ、裸足で。

石を踏む音さえ恐れるように。


イレンは後から静かに降りてきた。


「書類は?」イレンが問う。


「書類を守るより、足と喉を守った」

シャドウは平然と答えた。


ラレクは口元を歪めたが、

すぐに真顔に戻した。


「ファルデンからか?」


「そう。出てきた。――それで十分だ」


イレンの視線がグリディスに向いた。

真っ直ぐに。

上からでも下からでもなく。


「歳は?」


「十二。もうすぐ十三。でもまだ十二」


「“もうすぐ”は数えない」イレンは頷いた。

「無事か?」


「思ったよりは」シャドウが答えた。

「けど、望んだほどじゃない」


イレンの左目がわずかに痙攣した。

古い傷のせいかもしれない。

だが問いただすことはなかった。


代わりに、短く手を上げ――

そして下ろす。


「森に、まだ誰か残っているか?」


二人は少しだけ迷った。

言葉一つで、森に聞かれてしまう気がした。


「残ってる」グリディスは正直に言った。

「森そのものが。……そしてあれが」


ラレクは息を詰まらせた。


「戻るつもりか? ファルデンに……自分から?」


「自分から」シャドウが断言する。


門がわずかに開いた。

人ひとり通れる幅。


「入れ」イレンは言った。

「水場は右手。飯は“土の窯”だ。宿は――古道具屋。森帰りを安く泊める。親切だからじゃない。損しないからだ」


ラレクが何か言いかけたが、

「俺が記す」とイレンが言った。


それ以上、ラレクの口は開かなかった。


シャドウは軽く頷き、二人は門をくぐった。


街は匂いで迎えた。


甘い蜂蜜や焼き魚ではなく――

湿った縄の匂い。

鉄の匂い。

昨日の灰。

すっぱい乳清。

土の温もり。


声は水の流れのように続いていた。

猫を呼ぶ声。

落ちた蓋に怒る声。

小さな歌。


それは初めて「ただ歩く」ことを許してくれた。


シャドウは歩きながら、

影と角度を数えていた。

どの窓から飛び出せるか。

どの扉が火事で塞がれるか。


彼女の目はまだ冷えていない。

街並みさえ、熱に揺らめいて見える。


一方、グリディスは歩みを緩めた。

左目が見せるのは――普通の景色。

だが、なぜか鮮明だった。


剥げかけた看板。

羽の欠けた土人形を持つ子供。

それらが「あるべき姿」として見えた。

それが、不思議と安心をくれた。


「右だ」

シャドウが言った。

「洗ってから――次の計画だ」


「計画?」


「計画」

彼女は頷いた。

「まず顔を洗う。そのあと――死なない」


少年は片方の口角だけで笑った。


水場はすぐに見つかった。

石の器に、冷たい水が落ちている。


グリディスは顔を洗い、深く息を吐いた。

森で疼いた目の痛みが、和らいだ気がした。


シャドウも水をすくい、

首筋を撫でる。

その瞳からは、鋭さが少しだけ消えた。


「どうかした?」


「……何も」

彼女は短く答えた。

「むしろ、何もなさすぎて怖い」


二人は路地に身を寄せた。


シャドウは小さく罵り、

刃の位置を直し、

そしてほんの一瞬だけ目を閉じた。


胸に渦巻くものは多すぎる。

森。

ドリアード。

少年の「カチリ」という仕草。


――それが、妙に心地よかった。

彼女は自嘲する。

「子供だから」と自分に言い聞かせる。

だが、すぐに別の声が返す。

「子供でも、人間だ」


彼女は笑った。

自分との言い合いに。


そして気づいた。

また、彼の「カチリ」が欲しいと。

静寂を整える音。

自分では作れない安らぎ。


「……厄介だ」


目を開き、彼女は言った。


「よく聞け。明日までに二人探す。

一人は“核”に詳しい奴。

もう一人は“古い樹皮”を恐れない奴。

――午前中が勝負だ」


「その後は?」


「その後は戻る。森に。

今度は――笑わせない」


少年は頷き、少しだけ胸を張った。


街は二人を受け入れた。

興味もなく、拒絶もなく。


鍛冶の槌が鳴る。

窯の蓋が閉じる。

人々の流れが続く。


「土の窯」の看板が見えた。


シャドウは前を歩く。

グリディスはその半歩後ろで。

彼の左目は、ただ「見ていた」。


遠く、森の向こう。

ドリアードは指を動かし、

道に触れた。


『戻ってきて』


木々がざわめき、

気まぐれに返事をした。


街は呼吸していた。

そこに、支配の影はなかった。

ただ、人と街のリズムがあった。


シャドウは自分の手を見る。

あの「カチリ」の余韻が、まだ残っていた。


「……偶然が多すぎる」

彼女は小さく呟いた。

「なら、きっと正しい道だ」


そう言って、歩き出した。

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