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夢に刻まれる紋

グリディスはすぐには眠らなかった。

落ちていったのは、下でも横でもない。

まるで温かい水に沈むように――呼吸が誰かとひとつになるように。


森のざわめきが遠のき、代わりに黒い虚無が広がった。

焚き火の残り火のような、かすかな音だけがそこにあった。


左目は眠りの中でも見続けていた。

緑のミリアルが揺れ、やがて線を描き――螺旋に収束する。

小さな結び目。結び目は呼吸していた。


そこから赤い筋が流れ出す。

石のようなルビーではない。

生きている血のように、温かく湿った光。


――大きな広間。

黒い石の上に横たわる女。

髪が顔を隠し、白い腕には歯形が刻まれていた。

彼女の口は閉ざされているのに、空気が代わりに語る。


『生きろ……痛みを超えても』


そばに男の腕。

指には指輪。石に刻まれた印は、尾を呑む蛇が二つに裂ける形。

指輪が回されると、石は水に落ちた鉄のようにシューッと鳴いた。


緑のミリアルが石畳を押し上げようとする。

だが、赤がそれを飲み込み、ひとつの嘴となって男の掌に集まった。


「――今だ」

声は大きくない。ただ決して逆らえない響き。


嘴は子どもの胸――まだ小さな中心に触れた。

赤は紋様となり、三つの枝を伸ばす。


上へ。名と声に繋がる細い糸。

下へ。腹へと広がり、ミリアルを溜める器。

左へ。荒々しく、棘のように腕へ伸びる道――やがて武器を呼ぶ場所。


「壊れはしないのか?」

女の声。涙を持たない声。


「壊れるなら、もとより空だ」

男の答えは冷たく、迷いはなかった。


子どもが身をよじる。

泣き声は出ない。代わりに胸から乾いた葉がほどけるような音。


グリディスは目を閉じたかった――だが閉じられなかった。

左目はさらに深く見ていた。

赤と緑がぶつかり合うのではなく、春の泥のように溶け合っていく様を。


『これは刻印じゃない……呼吸だ』


――場面が変わる。


鏡の前に少女。

だが映っているのは彼女ではない。

同じ瞳を持つ女。

その瞳は光を捕らえ、放さない。


少女が手を伸ばすと、水面のように鏡を抜けた。

冷たさが走り、胸に刻印が光る。

子どもの模様ではない。成長した、新しい糸を持つ紋。


こめかみへ細い糸。夢に繋がる道。

右手へ橋のような糸。愛と偽りを共に結ぶ道。

そして喉へ硬い針金のような道。

「いいえ」と言う時震え、「はい」と言う時固くなる。


鏡の奥に男が立つ。

あの指輪を持つ男。


「私を見ろ」


彼女は顔を上げず、胸の刻印を見る。

赤が魚の目のように閃いた。


「私は従順」


「お前は正しい」


部屋の空気は炉の残り火のように静かに熱を帯びる。

緑の波は彼女に触れず、赤が「後で」と言う。


――夜。屋根の上。


少女は風に髪を揺らし、闇に向かって囁く。


「忘れられたら、死んでしまう」


胸の赤は灰の中の火のようにかすかに光る。

下から声が響く。


「お前は私のものだ」


「私は……私のもの」


だが喉の糸は彼女を縛る。言葉は「あなたのもの」に変わってしまう。


左目に見えた。

その刻印は武器に繋がっていた。

まだ手にない刃に、痛みを流す道。

いつか、その道から血が滴る日が来る。


――宴。


仮面のような笑顔。

赤い波が杯を満たし、喉を満たす。


少女――いや、もう「彼女」は端に座り、静かに笑う。

刻印は蝋燭のように穏やかに光り、彼女の選ぶ言葉に影を落とす。


『彼らは望んだのだ』

『望みを叶えるのは、この指輪だ』


緑の波は赤に弾かれ、外へ流れていく。

グリディスは思わず手を伸ばした。

机は水のように透け、残ったのは灰の粉。

その粉に浮かんでいたのは――いくつもの薄い刻印の跡。


「合意の結び目はほどけない」


声が囁いた。


――石の階段。


少女が降りる。

水の匂い。深い井戸。


「見ろ」


水面に無数の顔。

同じ印を持つ姉妹たち。

新しい光、消えかけた影。


「お前はその中で一番だ」


彼女は頷く。

喉の糸がきしむ。


『私は……』


赤は燃え、緑は冷え、刻印は裂けたように疼いた。


――閃光。


白い手の女が囁く。


『せめて一人は救う……』


その声と共に、灰色の火が弾けた。

細い糸が伸び、グリディスの左目に触れる。

冷たい。だが永遠。


彼は逃げたかった。

だが夢は首を押さえ、「まだ見ろ」と囁く。


――再び宴。


彼女は歩く。

刻印の糸がひとつひとつ脈打つ。

触れる者は彼女に印を残そうとする。

だがすべて、赤が飲み込む。


「これは……彼女のもの」


――ぱちん。


森の音が戻った。


「……起きろ」


声が耳に近い。

生きた声。


グリディスは息を呑み、目を開けた。

頬を伝ったのは血ではなく、光。


「夢を見た」

掠れた声で言う。


「刻印が……どう生きているのか。どう嘘を飲み込み、どう痛みを刃に変えるのか」


シャドウは黙って見ていた。

その瞳は刃のように細く鋭い。


「子どもは夢を見ていい。けど――あいつらは違う」


「……あいつら?」


「全部だ」


彼女は立ち上がる。

その背に刻印の光がかすかに震える。


「近くにいろ。深く沈むな。

左目が引きずるなら閉じろ。息を短く。

手を伸ばすな。水の手に捕まる」


彼女は影のように歩き出した。

グリディスは後を追う。


森は彼らを見て、聞いて、囁いた。


『結び目……裂けた息……忘れるな……』


シャドウの刻印が静かに灯る。

それは彼女だけのものではなかった。

彼と繋がる――一本の糸のように。

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