森の糸と影
二人は黙って歩いていた。
足元の小道が、まるで誰かが小声で読み上げる手紙のようにかすかに囁く。
頭上の緑は深く、風が針葉を一枚ずつ確かめるみたいに動いていた。
グリディスの足下で苔が弾む。左目には、その踏み跡が淡い光を残し、ゆっくりと消えていくのが見えた。
――森は聞いている。そして、応えている。
耳ではなく、皮膚の下から始まる声。
頬に重くのしかかり、やがて「言葉」となって割れる。
…道を外れるな…
…最初に呼ぶものを取るな…
…結び目が来る…結び目が息づく…
左目にまた、影と光が広がる。
シャドウの胸から紅と灰の糸が溢れ、腰へと流れ込み、刃に吸い込まれていく。
――武器が、彼女の光を飲んでいる。
彼は息を浅くした。森が吸い込もうとする長い呼吸を避けるように。
すると視界が澄む。根、石、段差――ただ「道」だけが見えた。
シャドウが僅かに頷く。「それでいい」と。
やがて道は傾き、低地へ。
湿った木の匂いと、名を持たない酸味が漂う。
足元で小さな泡が弾け、光の糸が瞬く。
――そこで彼は見た。
根の下に眠るもの。
三本の太い根が「指」のように伸び、白濁した瞳膜が張られていた。
その奥に緑の火がかすかに瞬いた。
「踏むな」
彼の囁きに、シャドウは目だけで問い返す。
しかし彼女にも分かった。森が、急に静かになったからだ。
「……コレヴン」
彼女は唇だけを動かした。
「眠ってる。起こせば、道をねじ曲げる」
指先を伸ばす。だが触れない。
グリディスの目には、彼女の胸から流れる光が根の上をかすめ――眠りを乱さないのが見えた。
二人が通り過ぎると、土の奥でコレヴンが寝返りを打つように揺れた。
――覚えている。行け。
グリディスは言いたかった。ありがとう、と。怖い、と。遠くに行かないで、と。
だが口にしたのは愚かな一言。
「……どうして、怖くないの?」
「恐れるのは高くつく」
彼女は笑った。だが、その笑みはすぐに壊れて、歩みを速めた。
*
斜面を抜けた先に、小さな窪地。
根を剥き出しにした大樹が、ひっくり返された掌のように水を抱いていた。
「五分だけ」
シャドウが告げる。「ここは安全じゃない」
彼は苔に腰を下ろし、短く呼吸を整える。
シャドウは片膝をつき、刃を抜いて指でなぞった。
澄んだ音が響き、紅と灰の光が鋼に吸い込まれていく。
「……君の光を、刃が飲んでる」
「彼らは彼らの仕事をしてる」
彼女は顔を上げない。
水面を覗く。
そこに映るのは「自分」だったが、左目だけが緑の彗星のように尾を引いていた。
彼は冷たい水を浴びせた。
――痛いほどの清さ。世界が一度、揃った。
「少し楽になった?」
「……うん」
*
再び歩き出す。森は声を変える。
枝が鳴り、囁きが刺さる。
…戻れ…左へ…影を辿れ…
「左だ」
無意識に声が出る。
シャドウは一瞬彼を見たが、そのまま従った。
根が立ち上がり、道を囲む。
そこに「いた」。
木と影を纏ったもの。
目は光る胞子のよう。
視線を逸らせと彼女が囁く。まっすぐ見れば道を奪われるから。
彼は袖口のほつれを見つめ、横目に影をやり過ごす。
……光……影……結び……
……嘘をつかぬ刃には傷はない……
「通れる」
グリディスが呟くと、シャドウは薄く笑った。
「なら、転ぶな」
二人は線を抜け、森の匂いが戻った。
*
夜。
根の影で休む。
「……怖い?」
彼が問う。
「知らないものは嫌いだ」
即答。そして、少し間を置いて。
「でも、君は邪魔じゃない。ただ――賑やかすぎる」
彼は頷いた。
「名前は?」
「……シャドウ」
「……グリディス」
森がその名を覚えたようにざわめいた。
その瞬間、闇に火花。
彼の左目が焼け、思わず彼女の肩を掴む。
刃が閃く。痛みが引く。
「座ってろ」
彼女の前に、薄い影が滑った。
森が警告を囁く。
「上じゃない。下へ行け」
影は消えた。
彼女が刃を収める。光も戻る。
「助かった」
彼が呟くと、彼女は首を振った。
「これは偵察。本番はこれから」
*
川を渡る。
滑る石。冷たい水。
彼の目に一瞬、少女の顔と「刻印」が映る。
体が傾く。
「こっちを見ろ」
彼女の声で、水は引いた。
紅の瞳が燃える。
左目も、その光を信じた。
「……ありがとう」
彼女は答えない。ただ、前を示す。
水が吐き出した骨の板。
そこに刻まれた「紋」。
「触るな!」
遅かった。彼は握っていた。
冷たいが、心地よい震え。
「どこでそれを……」
沈黙。
「……分からない。でも、これからもある」
「……どこにでもじゃない。残れなかった場所にはない」
それ以上、彼女は語らなかった。
*
夜はさらに深く。
影は重く、囁きは濃く。
「ここで一時間」
彼女は根に背を預け、刃を胸に置く。
「片目だけ開けろ。半分の光で。約束だ」
「約束する」
そして、彼は笑った。
「僕は、隣にいる」
シャドウは答えない。ただ目を閉じる。
森は静まり、最後の囁きを落とした。
…線を守れ…静けさを守れ…互いを守れ…
二人の間に、淡いミリアルの糸が光った。
まるで道しるべのように。




