真実が“在った”瞬間
朝は、忍び込むように石の部屋へ差し込んだ。
蔦の布を透かし、柔らかな光が床に揺れる。
湿った木の匂いが、壁までもが息づいているかのように漂っていた。
最初に目を覚ましたのはシャドウ。
いつもならすぐに跳ね起き、刃を握り、影へ消える。
だが今日は――ただ横たわり、掌に伝わる温もりを感じていた。
それは、グリディスの熱。
彼は乱れた髪で眠り、呼吸は不揃いだが穏やか。
その姿は、長く閉ざされていた者がようやく息を許されたようで――脆く、けれど優しい。
シャドウはそっと指先で鎖骨をなぞり、胸をなぞった。
武器を探すためではない。
ただ確かめたかった。夢ではなく、ここにいると。
「……黙ってると、いつもこんなに熱いの?」
小さく笑みを浮かべて囁く。
グリディスのまぶたが揺れ、目が合った瞬間、顔が真っ赤になる。
「あ、あの……ぼ、僕は……!」
「ふふっ」
笑いがこぼれる。軽く、解けるように。
彼女は身を起こし、床に立った。
灰色の髪が滝のように流れ、影をまといながらも光を宿す。
「プルートの微笑み」が櫛へと姿を変える。
揺れる鏡板に映るのは――偽りではない自分。
そこへ彼が近づいた。ためらいながら。
「……僕が、やってもいい?」
驚きが胸を打つ。だが、差し出した。
櫛を受け取った彼の指が髪に触れた瞬間――
灰の光が広がり、部屋が柔らかく染まる。
櫛が動くたびに、心が揺れる。
触れられているのは髪ではなく、魂そのもののようで。
シャドウは息を止めた。
「今日は……何をするの?」
初めて、影のない声で尋ねる。
「えっと……ギルドに行って、その後は……服を買う?」
耳まで赤くしながら答える。
笑いが零れる。
その音は、家の中にあるような、あまりにも暖かい響きだった。
扉は軋み、まるで二人を外に出したくないかのように開いた。
街の朝は、煙とパンの匂い、木屑と石の湿り気で満ちていた。
グリディスは胸いっぱいに吸い込み――すぐ咳き込む。
「うっ……でも、なんか……大人になった気がする! 二メートル伸びて、世界を救う勇者!」
胸を張る。
シャドウは彼をゆっくり見上から下まで眺め、片眉を上げる。
「勇者、ね……腹は鳴ってるし、髪は嵐の後のヤマアラシ。拝めよ、愚民たち」
「ちぇっ! まず朝食、それから世界救済って計画なんだ!」
彼女は襟を掴み、耳元で囁く。
「計画ね……椅子くらいの背丈になってから言いなさい」
彼は真っ赤になり、もごもご言い訳をする。
シャドウはもう前を歩いていた。
「風呂。すぐ。汗も煤も森の泥も落とせ。……その後、ギルド」
「ちょ、ちょっとくらい汚れてても……」
「大丈夫よ。路地裏のトカゲには好かれるかも」
「……勇者っぽい匂いだと思ったのに」
「ええ。確かに勇者。――古代の災厄の勇者ね」
彼女の口元に笑み。
彼はむくれたが、隣を歩き続けた。
街は冷たかった。
石畳は露で濡れ、壁を這う蔦は彼らの影に震えた。
人々は――そして人ならぬ者までも――ちらりと見ては視線を逸らす。
狐耳の獣人が帽子を持ち上げたが、すぐ背を向ける。
女は歩を速め、男は口を噛んで小路に消えた。
背後に足音。速くなったり、消えたり。
――近い。近すぎる。
「街は覚えてる」
シャドウの声は低く。
「私たちが帰ってきたことを」
鐘が鳴る。
露店の叫び声。
「新鮮な苔! 霧狐の毛皮!」
少年が飛び出し、シャドウの腰に手を伸ばす。
彼女は振り返らず、肘で弾く。
骨の音、悲鳴、消える影。
「て、手……折ったんじゃ……」
「折れたなら自業自得。折れてなきゃ、学ぶだろう」
「な、学ぶって……盗みを?」
「誰から盗むかを、ね」
振り返りざまに、影のような笑みを浮かべた。
街はざわめいた。
石と影の狭間で――何かが囁いた。
ギルドは檻の獣のように彼らを迎えた。
喧噪、酒の匂い、汗と煙――空気そのものが重く、刃で切れそうだった。
壁には焼け焦げた獣の骨や牙、血で描かれた古い地図がかけられている。
その地図はかすかに震え……まるで息をしているようだった。
そして――生きた掲示板。
釘で留める必要はない。依頼は勝手に現れる。
今は沈黙していた。だがその沈黙こそ、不気味だった。
グリディスが小声で問う。
「これ……なんだ?」
「板よ。聞いてるの」
柱の傍に置かれた灰の器。
シャドウは顎で示す。
「戻らなかった者の印。……空っぽね」
「いいこと?」
「……誰も戻らなかったか、誰も認めなかったか」
その時、声が響いた。
「俺たちは北の端まで行った! 石の板を見たんだ!」
「古代の板だ! ミリアルが乱れてただけ!」
「乱れ?! あいつは黙って石を積んでた!」
「石の方が賢いんだろ!」
笑いが起きる。だが笑いの底に、確かな恐怖があった。
グリディスは掲示板の前に立つ。
一つの古い巻物に目を奪われた。
「ファルデン北の断崖調査。消息不明の伝令。石の板、奇妙な音。危険度:最高。報酬:応相談」
手を伸ばすと、酒場の主の手が先に置かれた。
「子供には無理だ」
「子供じゃない。森を……見たんだ」
主人はじっと見つめ、唇をゆがめる。
「生きて帰ったか。それだけで充分だ。……持っていけ。ただし戻れないと思え」
巻物を握るグリディスの手は震えていた。
古紙の匂いは樹脂と鉄。
その時、隅で老人が呟いた。
「板は……誰にでも優しく囁くわけじゃねぇ」
白髪の老人。首には奇妙な記号の刺青。
彼の目は核石に釘付けだった。
「……行ったんですか?」
「行ったさ。一人だけ戻った。残りは石の中だ。三日後、地図だけが帰ってきた……樹脂の滴と共に」
息を呑むグリディス。
周囲がざわついた。
――「あれがそうか」
――「生きて帰ったってやつらだ」
ギルド全体が、二人の足音を刻むように静まった。
路地はさらに深く――街の裂け目へと導いた。
石は湿り、壁は近く迫り、空気は重い。
シャドウが囁く。
「ここでは夢を売るの。……あるいは悪夢を」
黒い布で覆われた入口。石には「黒板」と同じ紋章。
扉が自ら開く。街が背後で「行け」と吐息をつく。
中は緑の燐光。空気を震わせる歌声。
床には血を流す青年。
「……歌が……」そう呟いて息絶える。
そして――少女。
蒼白な顔、虚ろな瞳。首には光る首輪。
手に持つのはセルドラ=エン。骨と腱でできた楽器。
彼女は襲わない。ただ奏でる。
一音ごとに、グリディスの皮膚の下で他人の記憶が疼く。
「武器じゃ……ないのか?」
「歌うものは、すべて武器になる」――シャドウの声。
音が強まる。
グリディスは手を伸ばした。彼女の指に触れる。
――世界が裂けた。
見えた。
鎖に縛られたシャドウ。地下聖堂。蝋燭。
叫ぶ声は届かない。
だが剣が応える。『道化の微笑』――魂の絶叫。
炎。破壊。咆哮。
グリディスは手を離す。息が荒い。
少女の瞳が揺れた。虚ろではない。生きている。
シャドウは蒼白で立ち尽くす。剣の柄を握り――しかし力を抜く。
「どうして……?」
グリディスには答えがなかった。ただ分かる。
彼は呼び覚ましたのだ。
胸の奥で、まだ反響が響く。
それは少女でも、シャドウでもない。
――ミリアル。




