街は囁きの匂いを纏う
第一巻 第2章6 ― 街は囁きの匂いがする
木漏れ日が葉の隙間から差し込み、やわらかいのに刺すような光が顔を打った。
シャドウは目を細める。
「……もう、着いた?」と低く囁く。
グリディスは隣で足をぶらぶらさせながら、森から渡された樹皮をいじっていた。
周りが急に明るくなったことにも気づかない。
「んー……たぶん、そう?」あくびをしながら言う。
「早すぎない? 森がサボったとか?」
そう言いかけた瞬間、シャドウがぴたりと止まった。
身体が張りつめ、風が縮み、マントがかすかに震える。
手が――鞘に触れかけた。
顔が変わる。
唇の笑みに冗談は消え、そこに浮かんだのは《道化の微笑》。
髪は灰の色へと沈み、瞳は紅に燃え、斬撃の前触れのように光った。
グリディスは固まった。
ただ――感じた。
「今、誰かが出てきたら……彼女は名前を聞きもしない」
「え、えっと……」彼は唾を飲む。
「今の……ちょっと、怖かったよね?」
シャドウは振り返らずに言った。
「“注意深い”って言うのよ、弟くん」
「でも、今の君は……君じゃなかった」
彼女がゆっくり振り返る。髪も瞳も再び黒に沈み、内側の光が引くように静まっていく。
「違うわよ。それが本当の私」
グリディスは一歩近づいた。
「その“君”は……あんまり好きじゃない」
「私もよ」彼女は柔らかく答える。
「でも、あの私だけが守れる時があるの」
風が切り裂かれ、その中に――古く、やわらかく、どこか笑っている声が混じった。
――「幸運を、影よ」
シャドウは何も返さない。ただ、息を吐いた。
前方にはもう城門が見えていた。巨大で、陰鬱で、苔に覆われ、まるで大地から生え出たよう。
石壁は蔓に絡め取られ、森は外ではなく内側にあるかのような錯覚を与えていた。
門前には二人の衛兵が立ちはだかっていた。
ひとりは頬に古傷を持つ年長の男――イレン。
動かない表情は石のようで、ただ目だけが鋭く光っている。
もうひとりは雀斑の鼻をした若いラレク。
その瞳に走ったのは……即座の動揺。
「……お、お前らか?」ラレクが呟いた。
「二日前に森へ入ったって……あの連中?」
「うん」グリディスはポケットから樹皮を取り出す。
「ぼくら……戻ったよ」
イレンが一歩前に出る。
まるで信じがたいものを見ているような目だ。
「生きて? あれの後で?」
彼は顎で背嚢を指す。
「証拠はあるか?」
シャドウが鼻で笑い、グリディスは得意満面で袋を叩いた。
「もちろん! 持ってきた! “嘘つき”って言われたくないからね!」
背嚢から取り出されたのは、脈動するズヴェシュニクの核――不気味で、硝子じみて、ほとんど生きている。
ラレクがのけぞる。
「モル=ヴェド……な、な、なにこれ……!?」
「ズヴェシュニク」シャドウが淡々と言った。
「“顔で語る”。“恐怖を囁く”。悪夢の住人よ」
イレンは無言で火箸を伸ばし、慎重にそれを受け取る。
「……そこへ入った連中は、誰も戻らなかった。お前たちが初めてだ」
グリディスは頬をかき、苦笑する。
「ぼくらは……初めてじゃない。ただ……しぶといだけ」
「あるいは……ただの頭おかしい」ラレクがようやく絞り出した。
シャドウの口元がゆがむ。
「想像より、ね」
グリディスは森を振り返る。
「……食べないでくれて、ありがと」
――門が、重く開いた。
門を抜けた瞬間、世界が一変した。
静寂ではない。
ぶつかってきたのは――喧噪。匂い。行商人の声、槌音、駆け抜ける足音。
人波が押し寄せ、生のざわめきが渦を巻く。
汗の匂いに焼き魚の香ばしさが混じり、香辛料の粉が鼻を刺す。
叫びと笑いと怒鳴り声が、石壁に反響しては飲み込まれていく。
シャドウはマントを引き、前へ歩みを進める。
マントの裾が地面を擦り、音もなく影が流れる。
ふと、自分の手を一瞥した。震えていない――だが、心臓はまだ早い。
彼女は何も言わず、横の弟を見る。
「……服、ボロボロ」
口元に笑みを浮かべて。
「匂いは……茸の沼で溺死した蛙って感じ」
「僕のせい!? 森が悪いでしょ!」グリディスが抗議する。
「あなたは草むら。私は蜘蛛」
彼女はさらりと返し、人波を切り裂くように進む。
広場を抜ける。
色とりどりの露店、毛皮を詰めた木箱、ぶら下がる根の束。
蔓で編まれた鎧を着た奇妙な傭兵、木細工の玩具を抱えた子供。
空気は針葉樹と湿った土に、葡萄酒の甘さが混ざっていた。
グリディスは自分を見下ろす。
「……マント穴だらけ。上着……これ、上着だった?」
「うん、ズヴェシュニクに会う前まではね」
周囲の視線がじりじりと刺さる。
好奇、警戒、そして――わずかな畏れ。
グリディスは理由をすぐには掴めない。
「シャドウ……ぼくら、そんなに変わった?」
「ええ」
「いい方向に?」
「それは……あなた基準」
彼はふっと笑う。
だが次の瞬間、街がまるで別物のように見えた。
うるさくて、鮮やかで、生々しい。
――生き延びた。
そして、何かが始まる。
大通りを外れると、
狭い路地に朝の荷の残りを捌く露店が並んでいた。
南の島の香辛料、凍える毛皮、インスピレーションを呼ぶ薬。
雑多な叫びと匂いに、グリディスは嵐の後の子供みたいに息を吸い込んだ。
「……世界って、恐怖と影だけじゃないんだね」
「そうね」シャドウが鼻で笑う。
「腐った大根で滑る自由だってあるわ」
路地を抜けた先に――ギルドがあった。
古びた両開きの扉。
中からは重いジョッキのぶつかる音、笑いと罵声、そして音痴な歌。
酒と煙と焼ける肉の匂いが渦巻き、建物そのものが唸っているようだった。
シャドウは襟を正す。
「準備は?」
グリディスは喉を鳴らす。
前にここに入ったときの視線、嘲笑、彼女の堂々とした背中――全部が蘇る。
「……う、うん。いや、やっぱ……うん。たぶん」
「結論:前進、英雄」
扉を押すと、轟音の渦が二人を飲み込んだ。
酔いと煙と酒の匂い。
壁が叫びとジョッキの衝突で震えているかのよう。
だがシャドウは黒髪の「姉」の仮面を被り、まるで家に帰るように進んでいく。
「振り返らないで」低く囁く。
「ここでは“迷い”が餌だから」
何人かの狩人がすぐ反応する。
片眼帯で牙のような歯をした男が鼻を鳴らす。
「おう、ねぇちゃん。観光客連れか? それとも今度はカードで全員ひっくり返すか?」
シャドウは肩を揺らすだけ。
「カードは退屈。生還はちょうどいい刺激」
「へぇ……」分厚い肩の男がにやりと笑う。
「その歩き方、覚えてるぜ……前よりトゲが減ったな。別モデルか?」
グリディスは息をのむ。
この前、シャドウにうまくやられ、財布を抜かれた男だ。
彼は気づかないふりか、それとも黙っているのか。
「気を付けな」男が続ける。
「ここはお前みたいなの、それなりに“可愛がる”ぜ」
シャドウは振り返り、声に一片の怯えもない。
「声のボリューム落としな、大男。入口で転がった奴は、たいてい長いこと黙ったでしょ? 思い出させようか?」
彼の肩がぴくりと動く。記憶が閃き、わずかな怯えが滲む。
だが両手を上げる。
「わーった、わーった。悪気はねぇ。正直言うとよ……あん時は授業料だった。財布は取りすぎだが」
「“取りすぎ”ってのは、殴られた後に家具扱いされることよ」シャドウが鼻で笑う。
「でも蒸発は早いみたいね。多少は成長」
「今は財布に鎖付けてる」彼はぶつぶつ。
「入口にも近づかねぇ」
「賢明。けど、また近づきたきゃどうぞ。保険と遺書を忘れずに」
ウィンク一つで、周囲に笑いが走った。
赤毛の女がカウンターに肘をつき、面白そうに声をかけてきた。
「へぇ、俊敏な小娘だね。そっちの坊やは何? 湯たんぽ?」
グリディスの顔が真っ赤になる前に、シャドウが即座に被せた。
「彼は耳当てじゃない。心当て。あんた、サイズ比べたいなら、おでこの横幅からどうぞ」
周囲から「ぷっ」と笑いが漏れる。
赤毛は鼻を鳴らしたが、思わぬ返しに一瞬言葉を失った。
その隙を逃さず、グリディスが前に出て、真剣な顔で言う。
「お姉さん、すごく綺麗。ほんとに。ドレスを着た炎の狼みたいだ」
赤毛が固まった。沈黙。
……次の瞬間、酒場全体が爆笑に包まれた。
「それと正直者!」シャドウがグリディスの肩を叩く。
「はい、赤毛さんはお口チャック。子供に言葉で転がされる前にね」
赤毛は唇を尖らせて何か言いかけたが、周囲の笑い声にかき消された。
結局、グラスを傾けて「もういいわよ」と小さく呟く。
バーテンが二人を顎で示した。
「おまえら、依頼の件か?」
グリディスは無言で袋から《ズヴェシュニクの核》を取り出す。
淡く光り、内側で何かが蠢き、囁いているように見えた。
一瞬で、ざわめきが消える。
笑いも冗談も止まり、重い視線が二人に注がれる。
バーテンは核を凝視し、乾いた声で頷いた。
「……受理だ。支払いはカウンターで」
シャドウが口角を上げる。
「助かるわ。顔のない群衆と、意味のない騒音には飽き飽きしてたところ」
グリディスが袖を引いた。
「他に……やること、ある?」
「あるわよ」シャドウが低く言う。
「正当な取り分を受け取ること。それと、自尊心を一粒も落とさないこと」
二人がカウンターに進むと、バーテンは粗末な袋と、皺くちゃの紙片を一枚。
袋を落とすと、心地よい金属音が響いた。
「契約どおりだ」
短くそう言ってから、彼は口の端を上げる。
「正直なところな……俺は“戻らねぇ方”に賭けてた。だから、負け分で一枚上乗せだ」
シャドウが片眉を上げる。
「へぇ。私たち、賭けまで壊すんだ。気分いいわね」
「お前はカードに向いてる」バーテンが薄笑い。
「いや、その“相棒”を見る目つきを見る限り……やっぱり刃物向きだな」
グリディスは袋を覗き込み、笑顔がこぼれる。
「これで……僕らも“本物”に?」
「いいえ」シャドウは鼻で笑った。
「でも、食事と――沼カエル臭のするマントの代わりくらいは買える」
二人が振り返った瞬間、酒場の奥から野太い声。
「おい! 誰だ、俺の財布!」
数人がびくりと肩を震わせ、ざわつきが走る。
一人はポケットを探りながら悪態をついた。
シャドウは振り向かずに呟く。
「恥ポイント:−1。利益ポイント:+3」
「い、今のって……」グリディスが小声で。
「私たちは何もしてない」彼女は肩をすくめる。
「自分から無くす人がいるだけ。哲学の問題」
グリディスは笑いをこらえながら歩き、二人は酒場を後にした。
――ギルドは二人を覚えるだろう。
街も――耳を澄まし始めている。
市場は鮮やかだった。
布、毛皮、焦げた脂とラベンダーの匂い。
呼び声、硬貨の擦れる音、木の台のきしみ。
人波は自分のリズムで生き、二人に特別な視線を投げない。
半暗がりの店。燻した草と古い毛の匂い、木酢の酸味。
隅では鉄鉢の油が根菜を焦がし、かすかに音を立てていた。
カウンターの向こうで獣人が立ち上がる。
大柄で、毛は年季の灰を被ったように落ちている。
長い眉の下で、目は濁った琥珀――雪を抱いた琥珀のよう。
片耳には編み草の輪。
革と毛の重ね胴には、爪と葉を模した縫い目が浮かんでいた。
彼が低く唸る。
「グラ=ヴィル ウンドラ……シャル=ト リク ヴァ リィ?」
グリディスは固まった。
「えっと……」吊るされたチュニックを指差す。「これ……いくら?」
獣人はじろりと見て、声を少し大きくする。
「ハ=トリク クリンゲト ヴァルグル。あるいは……ヴァルトゥル ゴシュ ヴェッタ」
「え、ええと……」グリディスは懐を探り、慌てて数枚のコインを置く。
「コインなら……買う!」
獣人の声が喉で笑う。
「シャル=ハ ヴェルティル ドラ=ロン クリンゲト?」
――今度は明らかに嘲りを混ぜて。
グリディスは焦って身振りを繰り返す。
チュニック、金、取引……伝えようと必死に。
その肩に、すっと手が置かれた。
シャドウだ。
「そのままだと、二倍払うことになるわよ」
シャドウは一歩前に出る。
瞳の奥から色が抜け、笑みは消え、声は低く鋭く――獣人の言葉で返す。
「シャル=トア ヴァルディシュ エン’グリル ラクタ。メ リン=シ、マ ヴァル グロト」
その場の空気が揺れる。
獣人の琥珀色の瞳がわずかに開き、低い笑いが喉で転がった。
「タ=ラ……ヴァルデス。リィ グル タン=フィル――フェヒト、ニィ ティスク」
――声が和らぐ。
「坊やは舌のない影だ」
シャドウは体を寄せ、目を細める。
「彼はまだ学び途中。でも早い子よ。もう“ヴァルグル”が“よそ者料金”って分かったみたい」
獣人は頭をかき、口元に笑みを浮かべ、厚い手でチュニックを差し出した。
「持ってけ。正価で。舌が通じるなら、それでいい」
シャドウは一瞬で皮肉顔に戻る。
そしてグリディスへ、さらりと通訳。
「意訳:『余計なこと言い出す前に、割引で買ってけ』」
「えっ……今のって、ヴァルト語?」
グリディスは驚いて瞬きを繰り返す。
「そう。ここじゃ常識。取引の半分はその言葉でされる。知らなきゃ三倍払うか――命までね」
彼女はチュニックを押し付け、代金の一部だけを置き、残りを彼の手に戻した。
「覚えなさい、坊や。この街は剣だけじゃ生きられない。舌も刃なの」
獣人は軽く頭を下げる。
「グルリント ヴァルド’シャ、娘。影の共鳴、上手い」
シャドウは細い笑みを浮かべ、さらりと返す。
「あなたは“値引き”を首に下げた老猫。――じゃあね、毛皮屋」
獣人の喉がゴロリと鳴る。
それ以上は何も言わず、暗がりへと沈んでいった。
グリディスは布を見下ろす。
濃緑の繊維、木目を模した縫い目。
骨鋲の短いカフタン、油引きの腰外套、なめし革の軽い脛当て、鋲打ちの掌を持つ手袋。
森の旅人のために、森そのものが縫ったかのようだった。
彼は息を吸い、胸の奥が熱くなる。
――煙の匂い? それとも、彼女の声?
「次は私ね」
シャドウは踵を返し、店の最も暗い隅へ歩き出す。
吊るされているのは、地味で、影に溶ける服。
「まっ黒は……やめてね」グリディスが恐る恐る声をかける。
「影に溶けるの。目立ちたくない」
彼女は振り返らない。
「私は役者じゃない。狩人よ。梁の上で光ったら――落下死」
彼女が選んだのは、濃灰の高襟外套。裾は獣毛を織り込んで補強されている。
その下には煤色のフィットチュニック。折り目の中には短刀や財布が隠せる。
隠しループ付きのベルト、しなる靴底の軽靴。
甲を抜いた長手袋――指先は敏感なまま、痕跡だけを隠す。
古びた石鏡――“ルルヴェシュの微笑”と呼ばれる――の影で姿を映す。
「うん、これが私。……ほぼね。痒くない布って、逆に怪しい」
「君は……君に見える」
グリディスは照れ隠しに呟いた。
「“君じゃない私”に、でしょ。それが狙い」
彼女は薄く笑った。
「誰にも“誰か”だと悟らせない服は、いい服」
会計を済ませると、獣人にヴァルトで投げる。
「人混みの“囁き”になってみない?」
彼が低く笑い、返した。
「訳:『お前はもう囁きだ』。……まあ、褒め言葉でしょ」
外へ出た瞬間、喧噪が再び押し寄せる。
焼きたての薄餅、炒めた根菜、そして――絶対に焼いちゃいけない何かの匂い。
グリディスは胸いっぱいに吸い込んで、即むせた。
「ごほっ……毒……?」
シャドウが煙る屋台を指差す。
「焼きモスギツネ。食べた人は生きてた。……ほとんど」
二人は人の波を抜け、細い路地へ。
ここではもう食べ物ではなく――「囁き」が商いだ。
声は小さく、頷きが返事の代わり。
目線は互いではなく四方に散り、足音すら影に溶ける。
「立ち止まらないで」
シャドウの声は低い。
「誰かが『葉が落ちる』って言ったら――返事はしない。天気の話じゃない」
グリディスは思わず肩をすくめる。
「……わ、分かった」
角を曲がった先――
そこにいたのは袖の裂けた若者。
目は真昼の影みたいに深く、声はひそやか。
「ヒヨコは迷わない。姉カラスが一緒ならな。黒い羽……家族だろ?」
彼の視線は鋭く、意味深。
グリディスが返事に迷った、その瞬間。
――すっとシャドウが寄る。
手のひら一つで、若者の腰の重みが消える。
次の瞬間、彼の手の中に残ったのは半分の財布だけだった。
シャドウは涼しい顔で囁く。
「……自分で落としたのよ」
「え、えぇ!? だって……何も言ってない!」
グリディスは目を丸くする。
「賢いからよ。口を開くやつは沈む」
シャドウはひらりとマントを揺らし、もう歩き出していた。
若者は――気づいていないふり。
その目には、ほんの一瞬の苛立ちと、諦めの影。
やがて再び市場のざわめきが戻る。
甘いパンと蜂蜜煮の匂いが風に乗る。
グリディスの足が止まった。
焼きたてのベリー餡の薄餅が山積みされている。
彼の目はもう幸せに盲いていた。
「……二つください」
差し出した小銭が震えていた。
売り女の手も震えていた。
「食べなさい。戻ってきたんだもの。男の子は……食べて、大きくならなきゃ」
彼は顔を赤くしながら二つ受け取り、一つをシャドウに差し出す。
「お腹、空いてるでしょ?」
「二日間、空気しか食べてない者に、それ聞く?」
そう言いつつ、もうかじっている。
甘酸っぱい香り。
彼らの頬に粉が散り、笑みが戻った。
グリディスは小声で呟く。
「……森を出てから、初めて本当に笑えた気がする」
粉まみれの頬で笑いながら、グリディスがふと口を開く。
「ねぇ――日没までに、もう何かできるかな?」
シャドウは目を細め、唇に獣みたいな笑みを浮かべる。
「ひとつ案がある。ひとつの“財布”。それと……音が鳴りすぎる場所」
「ま、また……?」
グリディスは思わず腰を引く。けれど、瞳は好奇心で光っていた。
彼女の目には、もう火が宿っていた。
行動の火、混沌の火、そして――自由の匂い。
だが――次の瞬間、彼女は吐き捨てるように息をついた。
「やめときなさい。やりたい。でも、今はやめる」
「えっ?」
彼は拍子抜けして口を開ける。
「代わりに――君の“火歌い(オグネペフ)”を見せて」
彼女は笑いながら顎で示す。
グリディスの顔がぱっと明るくなる。
「ほんと!? ぜ、全部案内する! “書き蟲”も! “刻み手”も! それと煙の匂いのする蝋燭を作る人も!」
「落ち着け、坊や。地図のないガイドみたいになってる」
シャドウは笑いをこらえ、彼の足取りに合わせた。
夕暮れが街を染める。
叫びも囁きも一息つき、編み蔓の灯りが柔らかく路地に灯る。
影は長く伸び、空気は少し冷たい。
二人は急がず歩いた。
腹は満ち、財布は軽く、でも――なぜか心は静か。
「寝床を探すわよ」
シャドウが言う。
「また階段下の鼠抱き枕でも……?」
「ベッドにしなさい」
路地の奥、小さな宿が見える。
軋む木の看板、灯りの奥に漂う焼き生地と古木の匂い。
片目の宿主は無言で鍵を渡す。
開けた先は――部屋は一つ。ベッドも――一つ。
「……」
グリディスは真っ赤になり、足元を見つめる。
シャドウはわざとらしく肩をすくめ、片眉を上げる。
「問題ある?」
「な、ないけど……!」
声が裏返る。
「じゃあ決まり」
マントを脱ぎ、彼女はさっさとベッドの端に腰を下ろした。
グリディスは心臓を押さえながら、視線を泳がせた。
――街の喧噪が遠のく。
――代わりに、鼓動と呼吸だけが部屋を満たす。
静かに夜が落ちていく。
囁きの街の中で――二人の小さな灯りだけが残された。




