森が君の名を囁くとき
街の北門はもう遠く後ろに消えていた。
蔦と苔に覆われた石のアーチは、森の吐息に溶け消えたかのように背後に沈み、残されたのは濃い森の隙間から差し込む細い光の帯だけ。
彼らがまだ「完全なる深淵」ではなく、かろうじて文明の延長にいることを示す唯一の証だった。
先を歩くシャドウの足取りは、いつもの軽快さを抑えたものだった。
彼女は森に満ちる静寂に耳を澄ますかのように、慎重で、しかし優雅に歩を進める。
歩みはまるで舞のようで、揺れるマントの裾が細い腰と模様の刻まれた革鎧をちらりと覗かせる。
後ろで束ねた髪は黒く、先端だけ銀の光を帯び、煙のように揺れていた。
唇にはいつもの薄笑い。けれど、その瞳は獣のように鋭く森を探っていた。
グリディスは少し遅れて歩き、湿気でふやけ始めた地図を握りしめて一つ一つの道を確かめる。
灰色の外套は枝に引っかかり、淡い髪は何度も目にかかる。
彼は鬱陶しげにそれを払いのけながらも、黙々とついて行った。
「もし食われるなら、せめて伝えておくわね。久々にまともな食料を買い込んだのよ。
昼飯前に森の胃袋行きなんて、料理に対する冒涜じゃない?」
彼女はふっと笑みを浮かべ、淀んだ空気を吹き飛ばすように軽口を叩く。
「大丈夫だと思う。ここは……比較的安全なはずだ」
地図に目を凝らしながら、グリディスが答える。
「“比較的安全”だなんて……つまり最初から噛みつかれるんじゃなくて、まず匂いを嗅がれるだけってことね。
ほんと、楽観的で純粋なお坊ちゃんだこと。可愛いけど、危なっかしいわ」
道は古木の枝が天井のように覆いかぶさり、苔が厚く足元を敷き詰める区画へと続いていた。
森はただ鬱蒼としているのではない。
空気そのものが重く、喉に引っかかるように感じられた。
鳥の声も、枝の軋む音もなく、沈黙だけが支配している。
それは古の静寂だった。
グリディスはふいに立ち止まった。
腕に刻まれた〈トレスディル〉――あの紋様が微かに震えたのだ。
何かを感じ取ったかのように。
彼はシャドウから渡された「シュロップ・プルフ」の小瓶を取り出す。
「待っ……」
だが口に出すより早く、彼の手はそれを放っていた。
瓶は彗星のように宙を走り、鈍い破裂音と共に光と煙を撒き散らす。
――その時、影がざわめいた。
一本。
さらに一本。
そして十、二十と数え切れぬほど。
木の根元から。
枝の上から。
まるで天井から滴る恐怖の雫のように、それらは姿を現した。
〈ズヴェシュニク〉。
蜘蛛のような肢体。半透明で、樹脂の塊から削り出されたかのような身体。
その長い脚は木の根を思わせ、背には人の顔が浮かび上がっていた。
歪み、動き続ける――他人の感情を貼り付けた薄膜のように。
そして、囁く。
一斉に。
「お前は弱い。皆、知っている。彼女も知っている」
「お前は彼女にとって弟じゃない、ただの重荷だ」
「英雄になりたいくせに、自分自身が怖いんだろう?」
グリディスの顔から血の気が引いていく。
後ずさり、根に躓く。震える手。心臓は断頭台の太鼓のように鳴り響いた。
そのうちの一体が、子供のような笑みを浮かべながら這い寄ってくる。
「ぼ、僕は……」
「ちょっと!ふざけんな!」
背後から叫び声。
シャドウが矢のように飛び出す。
彼女の動きは舞と嵐の融合。
斬撃、旋回、突き。
最初の一体は真っ二つに裂け、粘液のような繊維が桃色と蒼に光り輝いた。
二体目は脚を切断され、三体目は喉の根元を貫かれて叫びを上げる。
彼女の動きは正確で、同時に狂気を孕んでいた。
「これで全部?この合唱?もっとドラマチックな舞台を期待してたのに!」
彼女は踵で回転し、短剣を投げ放つ。
刃は音を立てて一体の胸に突き刺さり、その顔は悲鳴に歪んだまま崩れ落ちた。
残りは一瞬ひるむ。
灰――屈辱。
グリディスは息を呑み、呼吸することすら忘れていた。
彼の投げた瓶は地面に転がり、ただの残骸と化していた。
「君……君は、僕に戦えって……」
シャドウは肩をすくめ、血と粘液に濡れた刃を払って笑う。
「私?そんなこと言ったっけ? 違う違う、弟クン。面白くなると思ったのよ。
そして正直に言うと――面白かったわ。方向音痴の魂みたいな投げ方だったけどね」
彼女の目が細められる。だが声は、どこか誇らしげだった。
「でも、誇りに思うわ。最初に手を出したのは君だもの。
大きな瓶を振りかざす、小さな英雄――悪くない響きでしょ?」
彼女はしゃがみ込み、倒れたズヴェシュニクの体から脈動する核を引き抜いた。
粘液に覆われ、眼球の奥の血管のような紋様が淡く光る、不気味な結晶。
「はい、記念品。ポケットに突っ込んで、自尊心と仲良く並べときなさい」
彼らが進むにつれ、空気はさらに重く、しかし不思議と明るさを帯びていった。
足元の苔は毛布のように柔らかく弾み、樹々はより高く、より古く、霧の奥へと枝を伸ばしていた。
森全体が――呼吸していた。
そして、その時。
一本の巨木の樹皮が静かに裂け、そこから彼女が現れた。
ドリアード。
肌は淡い緑、木目のような模様が流れ、髪は苔と蔦が織り込まれた滝のように腰まで垂れている。
瞳は星明かりを映した湖のように深く、静謐だが鋭い光を宿していた。
「……また“ここ”に来たのね」
彼女は囁いた。
「そしてまた……あなたの気配を掴めなかった」
ドリアードはグリディスの目前まで歩み寄る。
その存在感は静かだが、鋭い刃のように近い。
シャドウの手が自然と剣の柄にかかる。
「霧の中の灯――あなたは一体、何者?」
その声は口からではなく、頭の奥に直接響く。
グリディスは目を逸らせなかった。
胸の奥――そして〈トレスディル〉が震えている。
「私は若い。けれど根のさらに奥にいるものたちは……もっと知っている」
彼女は掌を差し出した。
そこには小さな樹皮の欠片。
表面には〈ヴァルト〉の古語の紋が刻まれ、内側から仄かな光を放っていた。
暖かく、同時に冷たい――森の呼吸を閉じ込めたかのような欠片。
「これを持ちなさい。
彼らがあなたを聞くことはない。
だが――あなたは彼らの声を聞ける。
自分を知りたいなら……すべての始まりより古き者に、問いかけなさい」
そう告げると、彼女の身体は再び木の皮に溶け込み、幻のように消えた。
残されたのは、脈打つ静寂。
森は彼らを――受け入れていた。
森は、先ほどのドリアードとの邂逅を境に沈黙を深めていった。
枝は動きをやめ、冷気が肩を撫でる。
気づけば夕闇が一気に濃くなり、色彩は薄れ、輪郭は霞んでいく。
「弟くん、正直言うとね……ここで野宿する気はなかったんだけど。
まあ詰んだわね。首までじゃないけど、くるぶしくらいは泥に浸かってる」
シャドウが肩を竦める。
「しょうがない。簡易キャンプよ」
グリディスは喉を鳴らし、こくりと頷いた。
胸の奥でカチリと音がした気がする。
「大人みたいなこと」だと望んでいたのに、現実に直面すると胸の奥がざわついた。
「薪を集めてきなさい。朽ちたやつじゃなくて乾いた枝。
樹皮も剥いできて。私は場所を整えるから」
言われた通り、彼は茂みに消えていく。
森は簡単に解放してくれなかった。袖を引く枝、やけに大きく響く枝の音。
けれどグリディスは手探りの知識で動いた。
やがて両腕いっぱいに枝を抱え、苔の剥がれた樹皮と古い切株の欠片まで拾って戻ってきた。
「よくできました。素直な子犬は生き残れる確率も上がるわね。さ、貸しなさい」
三段階で火を起こす。火打ち石から生まれた火花が樹皮を舐め、細枝を巻き込み、やがて炎は息を吹き返すように立ち上がった。
夜の森にオレンジ色の揺らぎが灯る。
シャドウは倒木に腰を下ろし、炎を映す瞳で手招きする。
「こっちへ来なさい、炎のアメーバ。暖まらないなんて、ただのマゾヒズムよ」
おずおずと隣に座るグリディス。
少し距離を空けたが、シャドウは呆れ顔で彼の肩をぐっと引き寄せた。
「疲れた?」
「……少し。色々ありすぎて」
彼は火を見つめながら答える。
二人の間にしばしの沈黙。炎の爆ぜる音が、夜の闇に細やかなリズムを刻む。
遠くでフクロウが一声だけ鳴いた。
「なあ、シャドウ」
「ん?」
「……あの空にある光、なんだ?」
彼女は空を仰いだ。
「星よ、弟くん。たまに見上げるの。そうすると……自分が見える時がある」
グリディスも見上げる。
無数の光点が霞む夜空に散らばり、幾つかはひときわ強く瞬いている。
「僕には自分は見えない。ただ……あそこに誰かがいるみたいに、温かい」
シャドウの口元がわずかに笑みに歪む。
それが慰めか、哀しみかは分からない。
「そうね……“いた”のかも」
炎に枝を足す。火は答えるように強く爆ぜた。
グリディスは大きなあくびをすると、そのままシャドウの肩にもたれかかった。
柔らかく、温かく、静かに。
――彼女は固まった。
反射的に手を離そうとした。
「近づきすぎるな」――ずっとそう生きてきた。
だが、腕は動かない。動けなかった。
偽装は崩れた。髪は灰色に戻り、肌も素の色を取り戻す。
仮面は剥がれ落ち、本当の顔がそこにあった。
「……知らないでしょう、弟くん。
私は幾度も他人に化け、何度も仮面をかぶってきた。
中身を守るために。壊されないために。
けど……あなたは。
ただ、ここに来て。
隣に座って。
何も問わず、何も責めず、ただいてくれる。
馬鹿……ほんとは、そんなことしてほしくなかったのに」
彼女はそっと腕を回した。
謝罪のように軽く。けれど確かに抱き寄せた。
彼の温もりがそこにあった。
珍しい炎。焼くのではなく、癒やす火。
「近さは弱さ。そう思っていた。
でも今は……怖い。自分じゃなく、この感情が。
これを失うことが」
静かな寝顔を見下ろす。
グリディスは穏やかで、無防備で――まるでそこに居る理由を当たり前のように持っているかのように。
「弟くん……あなたは一体、何者……私をどうしようとしているの……」
彼女は額を彼の頭に預け、そっと囁いた。
「夜明けまで……離さない」
その夜、星々の下で燃える火は、ただ暖を取るためではなかった。
初めて「生きている」と許された二人のために、静かに燃え続けていた。




