屋根瓦に残る足跡
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グリディスが息を呑む間もなく、シェドウは軽々と彼を抱え上げ、地面を蹴って近くの建物の屋根に舞い上がった。
世界が揺れ、風が顔を裂き、次の瞬間、足裏は硬い瓦を捉えていた。
「せめて一声かけてくれよ……」
彼は体勢を整えようとしながらぼやく。
シェドウは鼻で笑い、屋根の端に腰を下ろす。視線は遠くへ。
街が広がっていた。曲がりくねった道、まばらな灯り、屋根の上を流れる半透明の霧。
グリディスも腰を下ろし、彼女を横目で見る。
「それで……真実の話は?」
彼は遠慮がちに切り出した。
シェドウの肩が一瞬震えた。だがすぐに感情を隠し、笑みを浮かべる。
その瞳には、いつものような嘲りの光はなかった。
「分かる? 伝説ってのは、外から見れば綺麗に見えるもの。でも、その中で生きると気づいた時――もう全然違うのよ」
彼女は指で瓦をなぞる。埃を払うように。
「昔、一人の娘がいた。信じちゃいけない相手から“力”を与えられた娘。――人々は彼女を色んな名で呼んだ。でも残った名は……シェドウ」
グリディスの胸に、重いものが落ちる。声は淡々としていたが、その奥にあるものは深すぎた。
「トレスディル……」
彼は小さく呟く。
シェドウはかすかに笑みを浮かべる。その瞳に、温もりが一瞬だけ揺れた。
「察しがいいじゃない、弟くん」
彼女は夜空を仰ぐ。「自分が自分のものじゃないって、いつ気づいたか覚えてない。でも正直……もうどうでもいい。大事なのは、これから」
拳を握る。すぐに開く。
肩が震え、呼吸がかすかに乱れる。目は遠くを見据えたまま、握ったマントの裾だけが感情を滲ませる。
立ち上がろうとした彼女の前に、グリディスが飛び込んだ。
勢いのままに抱きしめ、腹に顔を埋める。肩は震え、息は荒い。
シェドウは凍りつく。
胸の奥が詰まり、温もりが溢れ出す。苦しいほどに。唇が震えたが、歯を食いしばって声を塞ぐ。
「なに……」
声は揺らいだが、彼女は慌てて笑みを作る。
「また芝居でもしてるの?」
グリディスは彼女の腰をさらに強く抱いた。
「俺は……ただ、ここにいる」
シェドウは目を閉じ、ため息を落とす。指先で彼の髪を撫でる。震える指。だが退けはしない。
代わりに、彼の肩を軽く握り返す。
「今のあんた、森で迷った子犬みたい」
グリディスは黙っていた。ただ、その温もりと静かな息遣いが、言葉以上を語っていた。
シェドウは笑みを浮かべる。涙の光を隠せぬまま――この瞬間に身を委ねる。
そして視線を遠くへ。
夜の闇に灯る街の光。その中に答えを探すように。
街は静けさに包まれていたが、眠ってはいなかった。
細い路地は湿った空気を吐き、樹脂、炭、香草の匂いを混ぜて運ぶ。
灯火役が通りを歩き、石台に灯を置く。遠くでは荷車の軋む音が続いていた。
グリディスはシェドウの隣を歩き、袖に手を隠して温める。
風が会話をさらい、路地裏の猫の声や、眠らぬ鍛冶場の槌音を運んでくる。
「この街、夜でも生きてるな……」
彼が呟く。
シェドウは口元を歪める。
「当然よ。影が日没で消えるとでも?」
グリディスは彼女を見た。
「それって哲学? それとも皮肉?」
彼女はただ笑い、答えない。
騒がしい酒場の前を通ると、視線が彼らに注がれる。
好奇、値踏み、記憶を探るような眼差し。
グリディスは肩をすくめた。
「品定めされてる気分、嫌だな。市場の新しい商品みたいで」
シェドウは鼻で笑う。
「慣れなさい。森育ちで筆を持つけど、過去を持たない男――十分目立つ」
「……俺自身、何も分からないのに」
彼はため息をついた。
彼らは裏路地へ入り、街の喧騒が遠のく。
水音がかすかに響き、どこかの扉が閉まる音が残った。
「着いたわ」
シェドウが立ち止まる。低い木造の建物。傾いた屋根。入口の木札には焼き文字――だが消えかけている。
窓からの薄灯りが、歪んだ石畳に影を落とす。
「可愛いとこじゃん」
グリディスが笑う。
シェドウは彼の肩を叩く。
「宿よ。……あんた、寝相悪くないでしょうね?」
彼女が先に入る。グリディスは目を回しつつ、後に続いた。
宿の中は木炭の匂いと遠い部屋の声で満ちていた。
グリディスは木壁を興味深く見渡し、シェドウは主人と短く話す。
「一晩、二クリング」
男は細めた目で二人を測る。
シェドウは無言で硬貨を置く。グリディスは眉をひそめる。
「……高いのか?」
彼女は肩をすくめる。
「追い出されない程度にはね、坊や」
「坊やじゃない!」
グリディスはむくれる。
シェドウは笑い、鍵を取った。
部屋は狭いが整っていた。ベッド一つ。小窓。簡素な家具。
「え……ベッド一つ?」
グリディスは目を瞬かせる。
シェドウは振り返り、にやりと笑った。
「そうよ」
「そうよ、じゃない! 一つしかないだろ!」
「数えられるじゃない、賢い子」
「……俺は男だぞ!」
彼女はわざと驚いた顔を作る。
「まあ! てっきり若様かと」
「床で寝るか……」
彼は呟く。
シェドウはベッドに倒れ込み、両腕を頭の後ろに。
「落ち着きなさい、赤ん坊。食べたりしないから」
「赤ん坊じゃない!」
「はいはい」
彼は観念して隣に倒れ込み、枕に顔を埋める。
「押すなよ……」
「言いたいのはこっち」
彼女は笑った。
しばらく沈黙。
「ねえ」
シェドウが口を開く。「あんたの感情、変わってる」
「……どういう意味?」
グリディスは顔を上げる。
彼女は覗き込むように近づく。好奇の瞳。
「普通の人の感情はわかりやすい。喜びは明るい、恐怖は震える、怒りは鋭い。
でも、あんたのは……風みたい。常に動いて、形を変えてる」
グリディスは返す言葉を失う。
「悪いこと?」
「いいえ、珍しいだけ」
彼女は仰向けになり、両手を頭の後ろに組む。
「だからこそ、あんたを見てるのが面白い」
彼はその言葉を反芻しながら、眠気に沈む。
「明日……続きを……」
シェドウは彼の寝顔を眺め、口元を緩めた。
「もちろん、坊や」
彼の呼吸が安定したのを確かめてから、彼女は手を伸ばし、窓の灯りを透かして指先を眺める。
手首をなぞり、トレスディルの指輪に視線を移す。
「……風みたい」
小さく呟き、笑みを浮かべる。
そして目を閉じた。




