元素の歌
グリディスは身を震わせ、顔を上げた。
カウンターの向こうに、大柄な男が立っていた。
バーテンダー――。
年老いてはいるが、体は頑丈で、肩幅も広い。
まるで岩を削ったような腕。
胸まで伸びた白い髭。
腰には小さな斧。飾りではなく、実用のためにあるのは一目で分かる。
鋭い眼光。すべてを見抜くような視線。
「お前、見ない顔だな。……余所者だろう」
木のカップを拭きながら、低く言った。
「ただ……ここなら情報があると聞いたんだ」
舌が少しもつれながら、グリディスは答える。
「情報、ね」
バーテンダーはカップを置き、周囲に素早く視線を走らせ、身を乗り出す。
「まあ、あるかもしれん。だが何を知りたいかによる」
胸に緊張が走る。
――ヴェトロジャツ。
シェドウが口にした言葉を思い出す。
『自由な者たち。世界の鎖に縛られぬ者』
あの時は浪漫的に響いた。だが今……空気が重い。
「ヴェトロジャツのことを……聞いたことは?」
バーテンダーの目が鋭く光る。
重苦しい影。沈黙。
やがて、彼は呟いた。
「おとぎ話が欲しいのか? それとも真実か?」
「……真実を」
グリディスは唾を飲み込む。
「なら聞け」
髭を撫で、再び周囲を見回してから――。
「森を引き裂く嵐を見たことはあるか?
街を呑み込む波を?
生き物のように踊る炎を?
……あれらの力に顔があるとしたら?
人の姿をして歩いているとしたら?」
声は重い。抗い難い。
「穏やかなら、ただの風。ただの一滴。ただの小さな火。
だが怒りを見せれば……」
グリディスの胸が縮む。
否定したい――ヴェトロジャツはただの放浪者だと。
だが、その声は真実を突きつける。
「彼らは風を愛して旅をするんじゃない。
どこにも受け入れられないからだ。
奴らの後ろには、恐怖と破壊がつきまとう。
……こうも言われてる。
ヴェトロジャツが眠る時、夢の中で囁かれる。
“燃えるべきもの”“沈むべきもの”。
奴らは元素の歌そのものだ。
だが、その歌は決して優しい子守唄じゃない」
恐怖と疑念が混ざり、グリディスを締め付ける。
シェドウの笑み。あの異質な瞳の輝き。
夜に消え、戻ってきた時の不自然な光――。
「だから、もし出会ったら……怒らせるな。脅すな。理解できると思うな」
声はさらに沈む。
「彼らが自分を見失えば、隣にいる者もまた消える」
言葉を探すが、舌が貼りついて声にならない。
世界が揺らぐように感じられる。
その瞬間――。
風が止まった。
いや、風そのものが「消えた」。
冷たい指が、彼の手首を掴む。
「なんて可愛いの、私の弟くん……」
柔らかく、甘い声。だが底には別の何か。
振り返る――。
そこに立っていたのは、想像していなかった少女。
黒髪、白い肌。美しい顔立ち。
だが――瞳だけは同じ。
シェドウ。
バーテンダーの体が震える。
知らないはずなのに、本能が恐怖を告げる。
「な……何を……」
言葉は途切れた。
シェドウは首を傾げ、蛇のように笑う。
「行くわよ、弟くん。……興味を持ちすぎ」
強く腕を引かれる。
足は勝手に動く。
バーテンダーは止められない。
ただ見送るしかなかった。
その瞳には、純然たる恐怖が映っていた。
二人が扉の向こうに消えた時、彼はようやく深く息を吐いた。
だが――体を動かす勇気は戻らなかった。




