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感情なんて無駄だと信じてた僕に、君はその存在を証明した

作者: 花映影

教室の正面。朝の陽射しが黒板に斜めに差し込み、そこには数字と文字が入り交じっていた。時々、見慣れない記号までが混ざっている。


そんな黒板に夢中で書き込む教師は、こっちの様子なんてまるで気づいていない。


ただひたすらに、文字も数字も記号も増えていく――まさに、これが「数学の授業」ってやつだ。


「数学の本質とは何か?答えは試験でも解答でもない。それは証明だ。では証明とは何か?厳密な論理の推移を経て結論に至り、求める内容の真理と意味を見出すこと――それが証明である」


林葶驀リン・ティンモーは、ぽつりとつぶやいた。




チャイムが鳴るや否や、先生はすぐに出席を取り始めようとしたが――


教室の入り口近く、椅子に座っていた一人の生徒が、そっと手を挙げた。

教師はそれにすぐ気づいて、声をかける。


「林くん、何か質問か?」


「先生、どうすれば√2が無理数であることを証明できますか?」


普通の高校生なら「そんなの当たり前だよ」と言うところだろう。だが、葶驀にとっては、それはまだ解かれていない謎だった。


教師は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐさま黒板に向かって、大量の計算式と解説を書き出す。


内容はこうだ――√2を有理数だと仮定する。有理数ってのは、分数で表せて、しかも分子と分母に共通の約数がないもの。


だけど、その仮定のもとで両辺を分母で掛けて平方してみると、分子と分母の両方が2で割り切れちゃう。――はい、矛盾。


だから、√2は無理数である。これはいわゆる「背理法」ってやつで、葶驀が一番好んでいる証明法でもある。


葶驀は、心の中でひとつの仮定を浮かべていた。


現実世界に一卵性双生児がふたりいると仮定してみる。


見た目は同じ、同じ経験をするかもしれない。


でも、物質には質量があって、空間を占有する。


つまり、同じ時間、同じ場所に完全に重なることなんて、絶対に不可能だ。

だからこそ――この世界にいる人間は、誰もが唯一無二の存在。


そう考えながら思索に沈んでいると、いつの間にか下校のチャイムが鳴っていた。


「ねえ、ちゃんと聞いてたの?」


その声で我に返る。


目の前には、小柄な少女が立っていた。どこかの低学年が間違えて入ってきたんじゃないかと思うような見た目。


高校に進学してから、葶驀の周りにはほとんど知らない人ばかりだった。


かつて同じ学校に通っていた顔も、ほんのわずかしかいない。


ただ一人だけ――中学で三年間同じクラスだったあの子だけは、幸運にも同じクラスになった。


陳渃嫣チン・ルオイェン


「どうしたの?何かあった?今朝も遅刻したでしょ?」渃嫣の問いかけにも、葶驀はいつもの無表情のまま答える。


「ただちょっと寝坊しただけ。でも、これ(この問題)の解答、合ってるかな?答えの数値がどうもおかしく見えて……」


渃嫣は、習題帳を差し出す。


「計算の論理も式も正しい。みんなもやってみたが問題はない。排除法に基づけば、あり得ないものをすべて除外した残りの結果は、たとえ現実的でなくても絶対に正しい。つまり陳さんの答えは合っている」


葶驀は、いつも通りの淡々とした口調で言い切った。


その説明の冗長さに、渃嫣は最後の一文だけをなんとか聞き取り、ため息をつく。


「あなたって、感情なく機械みたいに長々と説明するのやめられないの?証明だのなんだの、面倒くさい!聞いてるこっちが眠くなるわ」


渃嫣がぷりっと文句を言うと、


「俺にとって感情は不要だ。感情は真理の証明を妨げるだけのものだから。いい例が、先ほど自分の答えに疑いを抱いた陳さんだ」


そう言い残し、葶驀は立ち上がって教室を出ていく。


渃嫣はその背中に向かって、呟いた。


「中二病……」


葶驀は知っている。自分には、社交も感情も必要ないってことを。


それが他人には奇異に見えたとしても、すべての人間が唯一無二なら、自分もまた――奇異ではない。ひとのうわさなんて気にしなくていい。




放課後。葶驀は教科書とノートを素早く鞄にまとめると、まっすぐ教室を出た。


その足が教室のドアをまたぐ直前、ふと振り返ると――渃嫣が女子たちの集団と談笑しているのが見えた。


その光景に何の感慨も覚えず、葶驀はひとり下校の道を歩き出す。


葶驀の口元は、誰に聞かせるでもなく、何かをぶつぶつとつぶやいていた。


「確率……パーセント……現実的状況……」


その姿は、まるで思考そのものに取り憑かれたようで――


「ちょっと、歩くの遅いよ!」


背後から声が飛んできた。


しかし葶驀は気づかない。背中を軽く押されて、ようやく我に返る。


「さっき教室でみんなとおしゃべりしてたでしょ?人付き合いは大事なんだよね?」


「そんなことどうでもいい!明日はクラス内のリレー代表予選があるんだから。中学のとき速かったでしょ?」


渃嫣は急ぎ足で話題を切り替えてくる。


「様子を見よう。選抜されれば参加する」


葶驀の返答は、やっぱり感情のない平坦なもの。


渃嫣はにこりと笑って、葶驀の横を小走りで抜き去った。その背中に、ひと言だけつぶやく


「じゃあ期待してるね」


「期待しないほうがいいよ」


葶驀の返しに、渃嫣は言葉を詰まらせ、会話は唐突に途切れる。


「ところで、何を考えてたの?そんなに真剣に」


二人は商店の前を通り、小路へと入っていく。


葶驀は、左前方に見える古いアパートを指さした。


「今朝通りかかったとき、ベランダの植木鉢がやけに目立っていて。地震が来たら落ちて自分に当たるんじゃないかって考えてたんだ」


「確かに地震が多いから心配よね。結果はどうだったの?」


渃嫣が興味深げに問うと、葶驀はわずかに考え込んでから、事もなげに答える。


「スマホで調べたら、毎年強い地震が何度も起きてるんだが、上下校で一分しか通らない道だし、その時強い地震で植木鉢が落ちる確率は、宝くじの一等より低い。それに、落ちたものがちょうど自分に当たる確率はさらに低い――ほとんど心配いらないね」


その言葉を残し、渃嫣は左の路地へと消えていった。


「じゃ、また明日」


「じゃ」


葶驀は振り返らずに、いつも通りの無表情で返事をした。




夏休みが明けても、暑さは容赦なく校庭を焼いていた。


体育教師がトラックのスタートラインに立ち、手にしたストップウォッチを睨みつけている。


今日は、毎年恒例の100メートル走のタイム測定日だ。


この記録が、体育祭の大隊リレーでクラス代表を決める材料になる。


葶驀の苗字は画数が少ない。


体育の先生は名前の画数が少ない順に並べていたため、葶驀の番はすぐに回ってきた。


第二レーンに立ち、スタートの構えをとる。


隣の生徒たちはほんの数センチでも前に出ようと足元を調整しているが、葶驀だけは、特に意識することもなく、自然体でそこにいた。


「位置について!」


体育係の生徒の声が飛ぶ。葶驀はほんの少しだけ、身体を前に傾けた。


「よーい――ドン!」


号砲と同時に、葶驀は地を蹴り、風を手刀で切るように腕を振る。


ゴールラインの白が視界に入り――葶驀は最後の一歩を力強く踏み込んだ。


「林くん、11秒15!」


教師の声がグラウンドに響いた。


減速しながら振り返ると、後続の生徒たちはまだゴールに届いていない。


葶驀は、そのまま何事もなかったようにクラスの休憩エリアへ戻り、空いていた渃嫣の隣に静かに腰を下ろした。


「速いじゃん。選ばれるよね?」


渃嫣がちょっと驚いた声で言う。


「全員が測り終えないとわからない」


葶驀は無感情にそう返す。


「絶対選ばれるってば!」


渃嫣が声を張り上げたその瞬間、周囲の生徒たちが一斉に振り向いた。


渃嫣は顔を赤らめて、思わず頭を下げる。


「陳さんはうつむかなくても、みんなには見えないんじゃない?だって、僕がこの席に座ってると、理屈では君のことを完全に隠してるはずだし。」


葶驀は不思議そうに言ったが、渃嫣から返ってきたのは呆れたような白眼だけだった。


自分のどこが悪かったのか、葶驀にはまったく分からなかった


「私、やっぱり先生に欠席届け出してくる」


席を立とうとする渃嫣に、葶驀は首をかしげる。


「どうして?」


「足が短くて遅いから、たぶん選ばれない。それなら一人減っても変わらないでしょ?」


渃嫣の答えに対し、葶驀は真剣な顔でこう返す。


「問題ないわけないだろ?20人が選ばれるとしたら、21番目の子が走り終えた瞬間に、選ばれる確率はもう100%じゃなくなる。仮にNが20より大きいとすると、第N人目が走り終えた時点で確率は変動し、N+1人目が走り終えたらまた下がる。だから、20人以降は一人増えるごとにちゃんと意味があるんだ。少なくとも、選ばれる可能性においては……」


その理屈に、渃嫣は思わず吹き出した。


「何それ、数学の帰納法をそんなふうに使うなよ!」


大笑いしながら、手で口元を押さえる。


「歪んだ理屈も、誰かが理屈を与えれば理屈になるんだよ」


葶驀はどこか誇らしげに胸を張った。


「はいはい、まさか“やってみなきゃ分からないでしょ”って説得してくるかと思ったのに!」


渃嫣が笑いながら言った。


「それは君が先生に相談しに行けば絶対言われると思ったからね。どうせ同じこと二回も聞きたくないでしょ?」


葶驀がそう言うのと同時に、スタート地点から体育係の生徒が渃嫣の名前を呼んだようだった。


「君の話聞いてたら、なんか元気出てきた気がする。じゃあ、ちょっと走ってみようかな。」


渃嫣は笑顔と真剣な眼差しを浮かべながら、スタートラインへと向かっていった。


「ちゃんと見てるよ。」


葶驀は、渃嫣の背中に垂れる長い髪を見ながら呟いた。


葶驀は、渃嫣が走る前から諦めてしまわないよう、なんとか声をかけようとしていたのだ。


「うん。」


今回は、渃嫣も珍しく、それだけの返事をした。


スタートラインの後ろに立った渃嫣は、ポケットからヘアゴムを取り出し、髪を一つにまとめて簡単なポニーテールにした。


そして頬を軽く叩き、集中を高めるように身を整えた。


「位置について!」


「用意!――ドン!」


体育係の生徒の掛け声が飛ぶと、渃嫣は素早くスタートを切った。


葶驀はなぜか「頑張れ」と声を出すことができなかった。


普段は人目なんて気にしない自分なのに、なぜか今回だけは違った。


――きっと、誤解されたくなかったのだろう。


だからせめて、心の中でこっそりと応援しながら、目を離さずに渃嫣の走る姿を見守った。


もっと速く、まだ足りない、もっと――


渃嫣は、葶驀の視線を受け止めながら、ゴールへと駆け抜けていった……。




数日後の放課後。


教室の布告欄には、体育祭の大隊リレー選手の発表が貼り出されていた。


けれど、葶驀は一瞥もせず、いつも通り教室を出る。校門をくぐる、そのとき――


「どうやって教室を出たの? 一度も気づかなかったから、走って追いかけたよ!」


渃嫣の声が後ろから飛んできた。


「いつも通りだよ」


葶驀の返答は、あまりに淡白すぎた。


「全然存在感ないよね……」


渃嫣は呆れたように嘆息する。


「存在感の定義と単位って何だ?」


葶驀は、まるで本当に疑問に思っているような口調で問い返した。


「知らないよっ!」


二人は並んで歩きながら、しばらく無言になった。


「ほら、私は選ばれたよ。林くんは19番、私は10番」


渃嫣はスマホを取り出し、写真で撮っておいた発表表を見せてきた。


「おめでとう」


葶驀は感情ゼロで告げた。


それが余計に気に入らなかったのか、渃嫣はむすっと唇を尖らせる。


「ねえ、先にあのコンビニまで競争しようよ。負けたら飲み物奢って!」


そう言い終えると、渃嫣はすぐに走り出した。


どうやら、こうすれば葶驀でも追いつけないと思ったらしい。


コンビニは学校からそれほど遠くない場所にあったため、二人はすぐに到着した。


葶驀は店に入り、冷凍庫からアイスキャンディーを二本取り出した。


会計を済ませると、イートインスペースの一角に座った。


しばらくして、飲み物を手に戻ってきた渃嫣が、葶驀の前にカップを置いた。


「ほら、あげる。」


渃嫣は明らかに不満そうな顔をしながら、飲み物のボトルを葶驀に投げ渡した。


「フライングしたのに負けるなんてね。」


葶驀はそう言ったが、顔には笑みも怒りもなく、ただ何を考えているのか分からない表情を浮かべていた。


「うるさい!」


渃嫣はわざと怒ったふりをして言った。


葶驀は、自分の持っていたアイスキャンディーを差し出した。


「はい、アイス」


翠綾は驚いた表情を浮かべ、信じられないというような目で術潭を見つめた。


「クラスの大隊リレーの代表になったお祝いってことで」


術潭は淡々とそう告げた。


翠綾はアイスを受け取り、それを見つめながら、何か言いたげに口を開きかけた。


「どうかした?アイス苦手だった?だったら、代わりに俺が食べようか」


術潭が不思議そうに聞く。


「ううん、違うの。ただ、その……体育祭の日、時間ある?行きたい場所があるの。」


翠綾はどこか恥ずかしそうに、ためらいがちにそう言った。


葶驀は、特に予定もなかったし、学校行事を避けているわけでもない。


「空いてるよ」


いつもの口調で、そう答えた。




数日間にわたる大隊リレーの練習。そして中間試験による鍛錬と試練。


そのすべてを経て、ついに──待ちに待った体育祭がやってきた。


校長が指揮台に立ち、スピーチを始める。


だがその言葉は、まるで語りきれない思いがあるかのように止まることがなく、容赦ない日差しは、まるで下にいる生徒たちを狂わせんばかりに照らし続ける。退屈な待機の時間は、果てしなく続いた。


ようやく解散がかかると、生徒たちは集合場所から一斉に散っていった。


高学年は自分のクラスの屋台へ駆け出し、低学年は三〜五人のグループで、のんびりと校庭を闊歩する。


渃嫣はというと、友人におすすめされたドリンク屋さんへ向かおうと、葶驀を引っ張っていた。


「ちょっと待ってて、もう少しゆっくり……」


手を引かれながら、葶驀がぽつりと言う。


「今ゆっくりしてたら、売り切れちゃうよっ!」


渃嫣の声には焦りがにじんでいた。


「どうせ、すぐには売り切れないって」


葶驀は冷静そのものだった。


「でも、今行かないと……あとで大隊リレーの競技、始まっちゃうんだよ。あいたっ!」


突然の人混みの押し合いで、渃嫣が葶驀にぶつかり、転びそうになる。


すぐさま葶驀が渃嫣を支え、なんとか踏みとどまる。


そして、二人は再び屋台へ向かって、足を進めた。


葶驀は、渃嫣の背中を見ながら歩くうちに、ある違和感を覚えていた。


──歩き方、なんか……おかしい?


でも、それが何なのか、はっきり説明はできなかった。


とりあえず、そのことは、胸の中にそっとしまっておくことにした。


飲み物を手に入れた二人は、運動場に出てウォーミングアップを始めた。


これからの大隊リレーに向けて、体をほぐす時間だ。


その時だった──渃嫣の次の順番の選手が、運動場にやってきた。


葶驀は、なにかに気づいたかのように、その選手のもとへ歩み寄った。


「君、第十一走者(バトンを受ける順番)だよね?」


葶驀が声をかける。相手は不思議そうに顔を上げた。


同じクラスで何ヶ月も過ごしてきたのに、葶驀が話しかけるのはこれが初めてだった。


「そうだよ!どうしたの?何か用?」


警戒を含んだ口調で返される。


「できるだけ早く、バトンを受けてくれ。早いほどいいんだ」


葶驀は静かに伝えた。


「なぜ?」と、相手が問う。


葶驀は本当は、さっきの押し合いで渃嫣の足が捻挫したかもしれないことを言いたかった。


だけど、渃嫣がこの日の試合を心から楽しみにしているのを知っている。


もしそのことで参加できなかったら、どんなに残念か……。


だから言いかけた言葉を、飲み込んだ。


「俺の言うとおりにして!」


葶驀は相手の疑問を無視して、命令口調になってしまった。


「え?理由も言わずに命令?自分が速いからって、偉いわけ?」


相手の意外な反応に、葶驀は戸惑った。


「俺は……ちょっと速いだけだよ。」


無感情に言ったその言葉は、相手には皮肉にも聞こえたかもしれない。


「速いのは認めるよ。すごいね。でもその謙虚なフリ、見下してんでしょ?」


相手は刺すような言葉で返す。


「そ……そんなことないよ!」


葶驀はもごもごと答えた。


そんな二人の口論の最中、渃嫣が間に入った。


「ごめんね。林くんはそういう話し方だけど、悪気はないんだ」


渃嫣は葶驀に代わって謝り、葶驀を運動場の外へ連れ出した。


木陰で葶驀が問いかける。


「どうしてあんな人に謝るんだ?」


「だって、それが一番簡単な解決方法だもの。たった一言謝るだけで、不毛な争いを止められるなら、損じゃないでしょ?」


「俺は全然損だと思うけど。例えば……」


葶驀が理屈を並べようとしたところで、


「ねえ、もうちょっと感情を込めて話せない?いつも冷たくて、今時のロボットのほうが感情あるくらいだよ。私にはまだ誤解はないけど、あなたをよく知らない人には皮肉に聞こえちゃうんだ」


渃嫣はそう言った。


葶驀は「陳さんが誤解しなければいい」と思いながらも、その言葉を口にするのは恥ずかしくて、結局黙ってしまった。


「ねえ、あなたは何も言わないの?私に不満があるなら言いなさいよ!」


渃嫣は葶驀の無言に向かって言った。


「別に陳さんに来てもらうよう頼んだわけじゃないし」


葶驀は、自分が悪くないのに理不尽に扱われている気がした。


「じゃあ次からは適当にしてよ!感情なしじゃ生きられないでしょ!」


渃嫣は怒気を帯びて返す。


「なら陳さんが証明してみろよ!理性的に!」


葶驀も負けずに言い返した。


「いいよ!証明してあげる!」


渃嫣がそう言い終えたその時、遠くから大隊リレー選手集合のアナウンスが響いた。


二人の言い争いはそこで途切れ、お互い振り返らずに集合場所へ向かった。


その後、渃嫣はもう自分のところには来ないだろうか。


あの時もそうだった。感情というものは本当に面倒だ。


他人に気を遣うだけでなく、訳のわからないことや事実に反すること、無駄なことまでしなければならない。


葶驀は心の中でそう考えながら、自然と過去に思いを馳せた。


あの頃の葶驀はまだ小学生で、試験の成績が発表されたばかりだった。


葶驀の一番の幼なじみは成績があまり良くなく、あまり嬉しそうではなかった。


小さな葶驀は何か言おうとしたが、どう表現していいかわからず、結局こう言った。


「だって、試験前ずっと遊んでたからだよ。次はもっと頑張ればいいよ。」


最初から最後まで感情はなく、小さな葶驀がいつもそうしていたように、シンプルに相手の問題点を指摘しただけだった。


「おい、あんたさあ!いい成績取ったからって偉そうにするなよ!いつもそんな口調で話して、自惚れてるんじゃないのか!」


そう言い捨てて、幼なじみは振り返らずに走り去った。


小さな葶驀は追いかけることもせず、ただ呆然とその場に立ち尽くした。


その後、二人は徐々に疎遠になっていった。


葶驀はそれ以来、一つの警告を受け取ったのだ。


「感情というものは本当に面倒で、大切なものを奪うだけだ。」




四百メートルのトラックには、六クラスが大隊リレーのレースに備えて集まっていた。


ピストルの音が鳴り響き、計時員がストップウォッチを押す。


第一走者が素早く飛び出し、バトンタッチが繰り返される。


トラックの両側からは応援の声が響き渡り、二周目に入ったころには、葶驀たちのクラスは後続を引き離しつつも、常に二位をキープしていた。


そして第六走者がスタートすると、渃嫣がバトン受け継ぎエリアに立っていた。


脚には断続的な痛みが走る。


人混みで押されたときに捻挫した足首の痛みを、渃嫣はすでに感じていた。


ずっと楽しみにしていたこの日のリレー。


短い脚で速く走れず、これまでは選ばれなかったけれど、ようやく出場できる日だったのに……。


まさか、脚を怪我してしまうなんて。


遠くの別のリレーゾーンで待機している葶驀の姿を見ながら、渃嫣は先ほど自分が彼にあんなにきつく当たってしまったことを深く後悔していた。


痛みのせいで、いつものように冷静でいられず、イライラしやすくなっていたのだ。


隣のレーンの選手がバトンを受け取るのを見て、渃嫣は焦りながら自分のレーンへ視線を向ける。


バトンはもうすぐ自分の手に届く。


受け取る準備をして、痛みをこらえながら助走を始めた。


今、渃嫣にできるのは、この100メートルを全力で走り切ることだけだった。


金属製のバトンの冷たさが手に伝わる。


一瞬で強く握り締めたその手は、練習のときよりもずっと滑らかに動いた。


だが足の痛みは消えない。


顔をゆがめながらも、渃嫣は前へ前へと必死に走る。


かつてのような速さは出ない。


汗が一滴、また一滴と頬を伝い落ちる。


口の中には潮のような塩味が広がり、ライバルたちに次々と抜かれていった。


痛み、後悔、自己嫌悪。


渃嫣の目には涙が浮かび、こらえきれずに瞳の端を濡らす。


すでにバトン受け継ぎエリアで待機していた次の走者も、渃嫣の異変に気づき、すぐに前に出てバトンを受け取ろうとした。


ようやく渃嫣はバトンを次に渡し、横へ移動して休む。


葶驀は心配で駆け寄りたかったが、二人の間に漂う険悪な空気にためらい、結局、自らゆっくりと歩み寄った。


渃嫣の少し乱れた様子を見て、葶驀は何と声をかければいいのか分からず、長い沈黙の後、ようやく口を開いた。


「もし泣けば解決できるなら、世界中の人が泣くだけで済む。けど、明らかにそんなわけない。だから泣くより行動して、自分ができることをやるほうがずっといい」


葶驀にとって、こういう時に言うべき言葉だった。


だって、二人はたった今、口げんかしたばかりなのだから。


「泣いてないよ!走ってたら砂が目に入っただけ」


渃嫣はすぐに葶驀を見返した。


その目には「早くバトン受ける準備してよ」というメッセージが込められていた。


葶驀は慰めることはできなかった。


でも、渃嫣が弱さを見せたくないことはわかっていた。


だからこう言った。


「じゃあ、今度は一位を取り返してくるよ!」


そう言って背を向け、接力エリアへ向かう葶驀。


心の中で渃嫣の言葉を思い出しつつ、感情を込めて言ってみたが、いつもの話し方ではないせいか、少しぎこちなくなった。


渃嫣は笑いをこらえながら言った。


「そんな口だけの自信、言うなら結果出してよ!」


接力エリアに立つ葶驀は、いつもより強く自信を感じていた。


まるでアドレナリンが全身を駆け巡り、今までより速く走れると確信しているようだった。


順位は遅れ気味だったが、葶驀は一気に第四位、第三位、第二位と上げていく。


観客の声援、心臓の鼓動、呼吸の音──すべてが味方で、原動力だった。


ただレースに集中する。


優勝が目前、最後の走者が待つ地点も見える。


葶驀は熱い想いを込めてバトンを手渡し、自分の役割は終わった。


興奮が冷めやらぬまま、自分の出番は終わった。


最後の走者も全力で追い上げたが、惜しくも二位でゴールした。


葶驀はスタート地点近くを見たが、渃嫣の姿はなかった。


おそらく試合後は保健室へ休みに行ったのだろう。


葶驀はレースを撮影していた先生を探し、渃嫣が先に帰宅して休むことにしたと聞かされた。


暑い日差しの下、葶驀は木陰に腰を下ろし、リュックからスマートフォンを取り出す。


渃嫣に電話をかけようとした。


しばらく鳴り続けて、やっと電話がつながる。


電話の向こうから、わずかな泣き声が聞こえた。


「ごめんね……みんなの大隊リレー、台無しにしちゃって」


渃嫣は自責の言葉をこぼす。


「大隊リレーって一人の競技じゃなくてチームのものだ。優勝できなくても誰か一人の責任じゃないし、二位でも誰か一人の功績じゃない。強いて言うなら、誇らしい言葉を先に言った俺の方が問題だったかも」


葶驀は言った。


電話の向こうから笑い声とともに弱まる嗚咽が漏れる。


葶驀は言葉を継いだ。


「だから自責しなくていい。もし心配が消えなければ、次の授業でクラスのみんなに説明すればいい。きっとみんな理解してくれる。それでもダメなら、俺が一緒に謝るよ。たった一言の謝罪で不毛な災いを避けられるなら、それが一番お得な方法だと思う」


「そんなに簡単じゃないでしょ?」


渃嫣は笑いながら言った。


「でも、それでいいと思ってる」


葶驀はきっぱり言った。


ここで突然、天が揺れ、地が鳴り響いた。


校内には悲鳴が響き渡る。


「地震だ!」──電話の向こうで渃嫣の声。


物が落ちる音がして、直後に静寂が訪れた。


「陳さん!陳さん!」


葶驀は珍しく感情をあらわにして叫んだ。


だが返事はなかった。


葶驀は心を落ち着けようと必死に命じた。


状況を冷静に整理しようとしたが、体がついていかない。


「帰り道…地震…物が落ちる確率…鉢植え…」


頭の中でぐるぐると回る言葉。


以前、鉢植えが落ちて当たる確率がどれだけ低いか証明したにもかかわらず、心配は止まらなかった。


「先生、急用です!早く帰らせてください!」


葶驀は電話を切り、運動場脇で秩序を保っていた担任の先生に叫んだ。

「じゃあ、道中気をつけてな!」


先生は地震直後のことでも、特に疑わず許してくれた。


葶驀は小声で自分に言い聞かせた。


「今度はさっきより速く、そして周囲をよく観察しなきゃ」


リュックを背負い直し、校門を出て走り出す。




空っぽの通りを全力疾走する葶驀。


まるで、あの日、渃嫣と競争したあの時のように。


コンビニの看板が視界に入ったころ、信号が黄色に点滅しているのに気づいた。


対向の路地の薄暗い影の中に、誰かがいるようだった。


座っているのか、倒れているのかはっきり見えない。


迷わず、葶驀はリュックを脇に投げ捨てて、赤信号を無視し、前へ急ぐ。


その瞬間、背後から小型車が葶驀へ向かって猛スピードで迫る。


鋭いブレーキ音が響いた。


葶驀は目を閉じ、衝動的な行動を後悔した――命の危機。


だが、車は葶驀の数センチ手前で止まった。


息を整え、もう一度力を振り絞り、前へ駆け出す。


大きなビルの影の下、制服の長い髪の女子学生が路傍に座っていた。


──そう、渃嫣以外にありえなかった。


「もう……本当に、無事でよかった」


葶驀はほっと息をつきながら、怒鳴る車の運転手の声を無視して渃嫣に声をかけた。


「どうしたの?そんなに慌てて走ってきて」


渃嫣は少し驚いたように訊ねる。


「別に……」


葶驀は胸の中で安堵しながら、


「地震のあと、陳さんが一言も話さなかったから」


いつもの淡々とした口調で答えた。


「もしかして、私のこと心配してくれたの?」


「うん!ちょっとびっくりしちゃって。話そうとしたら……突然電話が切れたから」


渃嫣はすべてを理解したように返した。


「そっか……じゃあ、俺はこれで行くね」


葶驀は自分の無鉄砲な行動に少し恥ずかしさを覚えながら、早くその場を離れたかった。


「ねえ!私、脚痛いの見えないの?」


渃嫣が手を差し伸べて葶驀に支えを求める。


不本意ながらも、葶驀は手を差し出し、渃嫣を引き寄せた。


だが、放した瞬間、渃嫣はぐらついて、つま先でバランスを崩しかけた。


葶驀はすぐに手を伸ばして支えた。


「家まで送って、休ませてあげようか?」


葶驀が渃嫣を見つめると、渃嫣は黙ってうなずき、進む方向を指した。


正午の小道を二人は並んで歩く。


葶驀は自分の行動を思い返すだけで、体が熱くなるのを感じていた。


「ねえ、さっきのこと、まだ気にしてるでしょ!なんて言えばいいかな……かっこよかったよ」


渃嫣は言葉を選びながら話す。


「でも、すごくバカだった。まったく理性なく行動して、感情に任せてた」


葶驀は自嘲しながら答えた。


「でもね、もしさっき、本当に私が何かあったら……林くんが来なかったら、誰か気づいてくれたかな?」


渃嫣は葶驀に問いかける。


「多分、気づかなかった」


葶驀は反論しようとしたが、一番誠実な答えがそれだった。


「だから、自責しないでいいんだよ。人間だからこそ感情がある。自責も反省も、他人を思いやる気持ちも……全部、感情があるからこそ」


渃嫣は静かに言った。


葶驀は空を見上げ、言葉を発しなかった。


だが、心の中では確かにわかっていた。


葶驀が求めていた証明を、渃嫣から受け取ったのだ。

このお話は、最初に中国語でざっくり下書きをして、それを日本語で書き直したものです。


日本語で創作するのは今回が初めてだったんですが、チャットGPTさんがいろいろ手直ししてくれて、本当に助かりました。


母語じゃないので、きっと変なところとかあると思います。


もし気づいたら、こっそりでもいいので教えてもらえると嬉しいです!




最近また失恋しました。そしてまた、あの人に「好きだ」って思ってます。


ほんとに、いい人なんです(╥﹏╥)


下書きを読み返しながら書いてたら、ちょっとだけ葶驀と渃嫣がうらやましくなっちゃいました。




感想とか、「いいね」とか、もらえたらめちゃくちゃ励みになります〜!


気軽にコメントもしてくれたら嬉しいです!

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