8.
8.
13時51分。西川衞事務所。
あどけない美少年の鰭崎朋が、紅茶のポットに追加の湯をそそいだ。高級な茶葉は2回は飲めるのが一般的だ。シュリードゥワリカは「ラクシュミーとクリシュナ」という意味らしい。ヒンドゥー教の女神ラクシュミーの夫がクリシュナだ。ラクシュミーは仏教に取り入れられ吉祥天女になった。
六里周がゆっくりと香りを楽しんでいた。
クレール・セルはというと、気配を隠して杖をつきながら立っていた。
「ぼくはなんとなく、みゆきさんが死を選んだ理由が分かる気がします」
「私も」
フランス語で話す鰭崎朋にクレール・セルが賛同し、右肋骨を押さえた。
理解はしたが納得していない六里周が微笑んだ。
*
一週間前。茶泉記念病院(神戸)病棟。
「何か他にやり方はあっただろう」
右手を挙上した長藻秋詠が、三島みゆきに聞きながら、PBスイスツールズの六角レンチをギプスの中に入れた。かゆいらしい。
「もうどうしようもないのよ」
みゆきが泣いていた。フェイスタオルが濡れて重く垂れ下がっている。
「幸せを恐がらなくてもいいだろう。楽しく生きればいい。やっと見つけたイケメンなんだろう? 結婚したんだろう? 誰も手は出さないよ。二人して笑って、生きればいいじゃない」
「ダメなのよ、私。本当に恐いの」
秋詠がレンチをそのままに左手を広げ、みゆきを招きよせた。ビエビエ泣いてしまう。
「未来も認めてくれるかどうか分かんないし」
「どうでもいいだろう」
「だって、わたしあの子の母親なのよ?」
みゆきが上目遣いに聞いた。
「都合のいい時だけ母親面するなよ。あなた母親らしいこと何もしていないだろう。デオキシリボ核酸――DNAを提供しただけ。それだけの関係」
「そんな……親子なのよ?」
みゆきが右上を見た。
「天井に答えは書いていない。あなたがどこで誰と何でプレイしようが、未来ちゃんには関係ない」
「でもね、付き合いだしてすぐ航ちゃんから『三人でいっしょに住もう』って言ってくれてるのよ?」
「理想と現実は違う。子供を巻き込むな。大人の事情に。もういくつだっけ?」
「先月十四になった……ぐすん」
「どうせバカなプレゼントを三島くんと二人で贈ったんだろう」
「どうして分かるの?」
抱きついていたみゆきが目を大きく開きながら、身体を起こした。
「人には相応しい贈り物を。自分たちが楽しみたいから贈るのは止めろ。どうせサプライズでプロポーズしたんだろう?」
「あっああ……」
「ああじゃない。幸せにサプライズはないんだよ。予定通り幸せになる。結婚する相手の意思の確認、家族への挨拶、結納で婚約して、結婚する。結婚式はどうでもいい。婚姻届を出せば配偶者になる。そうした順番を間違えるから問題になるんだろう?」
「またその話……」
みゆきが目を細めた。ジト目。
「だって、穣くんが――あ」
「やっぱり八犬穣訓さんか……」
穣訓は、代議士秘書六里周の姉を廃人にしている。秋詠の右手が鳥肌立った。六角レンチを回転させてかゆみを和らげた。
「穣くんはね悪くないのわたしが――」
「――どうせ私が同意書を書いたから、逃げたんだろう」
「いやでもあの」
「避妊しないような男が、人殺しなんてできるかよ」
「でも、でっ、結果的には未来が生まれたんだし、これでよかったのよ」
「みゆきさん」
レンチを抜いて、みゆきを正面から見た。
「はい、何でしょう」
「人生は車窓からの景色に過ぎない。未来ちゃんにとって、あなたや三島くんは、この社会を含めて保線係なんだよ。どうにか次の分岐点までは行ってほしいけれど、辿り着き選ぶのは未来ちゃんだから。そして、どの車窓からの景色もあまり変わらない。人生の岐路をどう選んでも車窓からの景色は変わらないよ。自分が望む風景に近づくんだ。その風景に出会えたなら、美しいと言葉にする。それだけ。多くの人は選んだ岐路を美しく見せようとするけれど、人生は車窓からの眺めでしかないんだ。だから、選べなかった岐路も見ることができる。親しい人と分岐点で別れても、すぐは同じ景色を観ている。でも、車窓からの眺めは変化する。やがて、向こうの窓の景色は観えなくなる。けれど、観えなくていいんだよ。その苦悩を知る必要はないんだから」
「わたしどうしたらいいの? 秋詠さん選んでよ」
「もう選んだんだろう? それを言いにきた。ありがとう。――また会いましょう」
「また会えるの?」
「本当の『さようなら』は『また会いましょう』と言うのです」
全身から力が抜けたらしい。だらりと肩を落とすが、深呼吸を2回して顔を上げた。
「また会いましょう」
笑顔の美しい女性だった。
*
その一時間前。茶泉記念病院(神戸)病棟。
「ありがとう」
長藻秋詠の背中を拭き終えた三島未来が、袖を通してボタンを閉めた。
「Not at all.」どういたしまして。
拭いた紙タオルを丸めてゴミ箱に捨てると、秋詠の匂いを嗅いだ。クンクン。
「ラベンダーのイイ匂い。……秋詠さん聞いて、笑っちゃうわよ」
「聞きたくない」
秋詠が左手で耳をおおいながら顔を背けたが、未来が右耳に息を吹きかけた。
「聞くよ」
不惑前の秋詠が美しい少女に降参した。
「そうこなくっちゃ。このあいだ私の誕生日にあの二人、何をプレゼントしてくれたと思う?」
椅子に座ると、ベッドに頬杖をついた。
「結論から先に。――インターネットで転売して儲けた?」
「賢い人には敵わないわね。……はい、これお見舞い」
期待外れだった未来がそっけなく渡した。長細い。
簡易包装で〈Winkelschraubenzieher lang〉とある。動かすと慣性がかかるので、やや重い。
「ウィンケル……ああドイツ語か。スイスツールズのロングレンチね。ありがとう」
「あー開けるね。ドイツ語も話せるの?」
「いや、簡単な単語だけ。ラングとあるから長くて、重いものは工具かと推察しただけ」
「なある。せっかく秋詠さんと〈シャーデンフロイデ〉にひたろうと思っていたのに」
包装紙を適当にまるめてゴミ箱に捨てた。
「趣味がよくないよ」
ドイツ語の〝Schadenfreude〟は他人が不幸にみまわれたときに感じる自分の幸福のことで、かなり品がない。
「……もう会いたくないんだけど、あの二人に」
「会わなくもいいでしょう」
「プレゼントもイヤ」
「もらえるものはもらっておけば?」
ギプスに入れたレンチを回した。使い勝手がいいらしい。
「秋詠さん、結婚式の引出物で二人の顔写真が入った皿とかいる?」
「そんなのを贈ったの?」
秋詠がうなだれた。
「さすがに違うけど、似たようなものだったわ」
ネット販売できるほどのものではあった、あるいは一部の人間には好まれるものだったらしい。想像もしたくない秋詠は、目をゆっくり瞑ってゆっくり開いた。
「接近禁止命令をだしたい」
「そこまで嫌わなくても――」
秋詠が眼鏡を正した。
「――匂いがダメなの。とにかくダメなの」
「そうそれは……」
「……知ってる。遺伝的に近い証拠なんでしょう?」
思春期の少女が父親の匂いを嫌うのは、近親婚を予防する本能という説がある。だとすると、三島航多と血縁関係にないが、血のつながりはどこかであるのかもしれない。
「どうしてもと言うのなら」
「どうしても」
即答した。三島みゆきの育児放棄から、長藻秋詠が茶泉珠子の施設に入れた経緯がある。
「本当に秋詠さんが父親だったらよかったのに……」
「会いたい?」
「前はね。ちょっと興味があったから珠子お姉さんにお願いしたら、この四人のうちの誰かと言われちゃった」
長藻秋詠は入っていなかったらしい。
「秋詠さん、どうして中絶の同意書に名前を書いたの? ああ、いい、答えなくてもいいから。そんな顔しないで。わたしが無理に珠子お姉さんに聞いたの。だから、恨んでないから。どうせあの人が……ふう……あの人のことを考えたくない。根はいい人なんでしょうけど、ダメなの、もう」
根はいい人の性根が腐っている確率は百%だ。
三島未来が、法務省の「家庭内の重大犯罪に関する研究」という報告書の「少年による家庭内の重大犯罪」を長藻秋詠に見せた。三島未来は、先に茶泉珠子に相談したのだろう。
あまり知られていないが、多くの重大犯罪は血縁関係者や友人・知人によって行われる。通り魔などはわずかで、そのほとんどが顔見知りの犯行だ。
〈親族間の犯罪に関する特例〉では、窃盗罪(235条)・不動産侵奪罪(235条の2)・詐欺罪(246条)・背任罪(247条)・準詐欺罪(248条)・恐喝罪(249条)・横領罪(252条)・業務上横領罪(253条)・遺失物横領罪(254条)といった犯罪と未遂罪が、同居親族は免除されるか、または親告罪となる。窃盗・恐喝・横領までおこなえば殺されるというものだ。
三島みゆきに悪意の自覚はない。自覚がないからこそ質が悪い。手加減ができない。そして、未来はそうしたことが恐いのだろう。発作的に人を傷つけてしまうのが。
「いいよ。だせばいい。ただし、期間が決まっていたはず」
「6か月」
「そうその期間だけ」
「ありがとう。秋詠さん」
頬にキスをする未来だった。
(了)