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茶泉記念病院(成田)。08時01分。175センチメートルの茶泉ひろみが2メートル31センチの黒塚に抱かれて玄関から入ってきた。猫の首をもつように待合の椅子におろすと黒服の大男は去って行った。
「大丈夫ですか? どこが痛みますか?」
見かけた阮美麗看護師が走ってきた。急患だと思ったらしい。
「痛い……頭……」
茶泉ひろみが中指でこめかみを押した。そうとう強い痛みらしい。
「えっ、ひろみさん?」
「はーい、ひろみさんですう――う」
二日酔いの茶泉ひろみ医師が吐きそうになった。
*
氷嚢を頭にのせ眉間に皺をよせ口をへの字にしながら、茶泉ひろみがiPadで資料を読んでいた。
「ひろみさんの専門は心臓外科では?」
新しい氷嚢をもってきた阮美麗が交換した。
「ありがとう。……そうよ。最近キッタハッタは流行らなくて、どこもかしこも低侵襲。それでCOVID−19でしょう? 数をこなせば専門家にもなっちゃうわ」
氷嚢の位置をズラした。
内視鏡外科手術によって患者への侵襲(負担)はかなり低くなった。COVID−19は2019年の新型コロナウイルス感染症の正式名称だ。
おおざっぱな性格の茶泉ひろみには細かい作業では物足りないのだろうと阮美麗は推察した。もちろん本人に言うような愚行はしない。
「新種のウイルスっぽいけど、気に入らないわね。全バラか……」
詳細な部分まで解剖するには根気が要るが、そちらの資質はもちあわせていた。二卵性双生児の妹、茶泉珠子医学博士の判断は正しいといえる。
「石田医師の休憩が終わったら、始めましょう」
*
茶泉記念病院(成田)解剖室。09時14分。
「録画……あっはい。撮れてる?」
「大丈夫です」
阮美麗看護師が、顔一つ分高い茶泉ひろみ医師を見上げた。
「どうぞ」
隣の石田医師も173センチメートルあるのだが、美しいプロポーションのために茶泉ひろみのほうが高く思えた。
*
石田医師が報告書の下書きを書き終えた。
iPadで茶泉ひろみが確かめるが、特に指摘することはなかった。問題は……。
「どうして、小腸だけが壊死しているんだ?」
遺体は内臓から傷むが、その速度が従来とは比較にならないほど細胞が死んでいた。
「ウイルスによるアポトーシスの加速は考えられないだろうか……」
「ネクローシスではなく?」
石田医師の仮説に、茶泉ひろみは顔をあげた。興味をもったらしい。
ネクローシス(壊死)は文字どおり細胞が壊れて死んでいくことであり、死んだ細胞もそう呼ぶ。感染や損傷などによって、生理的状態が維持できず死んでしまうことだ。一方のアポトーシスは、論理的な細胞死と呼ばれるもので、両者はまったく別のことを意味する。
「アポトーシスって蛙の足の話ですか?」
「合ってるけど、オタマジャクシの尻尾のほうね」
茶泉ひろみが、砂糖2つの甘い珈琲をのむ阮美麗をフォローした。
「ネクローシスは、偶発的・事故的な細胞死だ。対して、アポトーシスは、プログラム細胞死、または制御された細胞死を意味する。通常の細胞では、カスパーゼ――酵素の一つだ――カスパーゼ酵素が酵素前駆体としてあるんだ。前駆体、つまり不活性状態、まだ動いていない。アポトーシスは、物理的・化学的・生物学的因子によって誘発される。アポトーシスシグナル伝達によって、イニシエーターカスパーゼが活性化する。イニシエーター、開始、プレイ・ボールだ。イニシエーターカスパーゼは、エフェクターカスパーゼを切断し、活性化させる。エフェクター、効果を与える、効力を発揮させるもの。エフェクターカスパーゼは、標的細胞タンパク質を切断し、アポトーシスを実行する。アポトーシスには、外因性と内因性がある。外因性アポトーシスの刺激は、細胞膜の受容体をかいして細胞によって検出される。対して、内因性アポトーシスの刺激は、DNAの損傷や小胞体のストレスやROSレベルの増加……それに、有糸分裂中の細胞不良がある。詳しくいうと、外因性アポトーシスには2つの受容体がある。一つはデスレセプター、細胞死受容体だ。もう一つがデペンデンスレセプター、依存性受容体。デスレセプターは――何?」
阮美麗が手をあげた。
「お話の途中ですが、私には分かりません」
泣きそうな顔をしていた。
「新種のウイルスだと仮定して、それが外的要因となって、アポトーシスを引き起こした?」
「要約すれば、そうです」
茶泉ひろみの簡潔な内容に石田医師がうなずいた。阮美麗もふむふむしている。
「ネクローシスでない理由は? 外因性アポトーシスである根拠は?」
石田医師が、英語の論文を渡した。題名は『外因性アポトーシスによる細胞再生――mRNAの刺激によるカスパーゼカスケード抗体の活性化』だった。著者は……。
「あの女!」
茶泉珠子医学博士(ハーバード大学)の名前があった。
*
死んだ女性の家のリビングで待ちながら、長藻秋詠が赤木南々子の死因を確かめた。外傷は見られない。
「助けてほしい」
女の殺し屋が殊勝にも頼み込んだ。顎の骨を割られているので、まともな発音になっていないが、そもそも長藻秋詠はディスレクシアなので、他人の話を聞いていない。失読症とも呼ばれるディスレクシアは、識字に障害がある。それでも他人が何を考えているかは、だいたい解る長藻秋詠だった。いつか亡くなったら、茶泉珠子が頭の中をみたいと約束していた。
「何でも話す」
「止血剤だ、飲め。――知っている。というか、フランス語を話した時点で解った。あなた、ワロンの施設から手配された清掃人だろう?」
女に薬を与えたあと、長藻秋詠も嚥下した。他に武器がないか片手で女を半裸にした。清掃人は、殺し屋の符帳だ。血に濡れた仕事だから、雨乞い師とも呼ばれることがある。英語でいえば「レインメーカー」だ。稼ぎがいいので、金を降らせているともいえる。
「あなたのせいで、初めて人を殺めた。――そういうことか」
茶泉珠子が裏切ったらしい。正確にいえば、見捨てたのだろう。事前に部下の危険を回避するのも管理者の役割だ。
「何でもする」
女が懇願した。
「これの名前は?」
人間が亡くなれば物扱いになる。
「クリス、クリスチャン・セル。私は、クレール・セル」
「複雑な家庭事情だな。――ああ、言わなくていい。夫か恋人は? そう、じゃ私の女になれ」
横目にクレールを見ながら、クリスの装備を確認した。SIG SAUER P226の他にナイフがもう1本あった。
「もう1本はどこにある? あっちか」
視線の先にバスルームがある。罠を仕掛けたのだろう。血を洗うときに作動するはずだ。
空気が玄関に流れていった。
来訪者だ。
「あなた、どうしてまだ生きているの?」
蒲沼紀子が、長藻秋詠に質問した。