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16時23分。コーサウェイホテル成田1829号室のドアを開いたのは、周玲玲一等書記官だった。
「お帰りなさい。ブリジット」
ドアを閉めるなり屈むと、待っていた少年――西春施三等書記官にキスをした。ブリーフケースをゆっくり床においた。185センチメートルある周玲玲と比べると、西春施は40センチも低い。
「その名前を言わないの。今は日本人なんだから」
大陸の外交官がスパイだというのは公然の秘密だ。九龍も変わりない。
周玲玲が金髪のカツラをとると、長い緑髪を背に広げ、スーツのボタンを左前に変えた。鏡で軽く髪をすく。
「そんな顔しないの。本当に愛しているのはあなただけ。――小施、美味しいご飯を食べに行きましょう」
日本語にするなら「施ちゃん」といった愛称だ。
「しかし、酷い女ですね。三島みゆきって」
クローゼットからアクアスキュータムのコートをだして広げた。
「それだけ有能――ということでしょ」
袖を通すと、ブリーフケースから白いケースを取りだし人差指に白いワクチンパッチをのせた。
「手をだして」
「これが?」
「そんなに痛くはないよ」
「痛いですって」
マイクロニードルだ。このパッチは3Dプリンターで出力された高分子化合物だ。絆創膏のように貼りつけると、内包されたワクチンが体温で溶けて皮膚の内側に吸収される。
「お子さま」
周玲玲が微笑むと、西春施が頬をふくらませた。
「どうせまだ子供ですよ」
結婚年齢に達していないらしい。
「寒いからあなたもコートを」
「はーい」
*
成田市街地。08時01分。路上に止めたベージュのBMW M5 E34の後部座席で周玲玲がレノボのThinkPadを開いていた。
暗号化されたメッセージの着信が表示された。
《〝Persona non grata〟だ。一等書記官》
〈PNG? 理由は? 同志〉
後部のドアガラスはスモークフィルムが貼られており、外からは見えない。
《開示義務がないのはお前も知っているだろう》
〈派手にやり過ぎましたかね? 本当の理由を伺っても?〉
《バーターだ》
〈バーター? 何のバーターですか?〉
交換といってもいろいろある。聞きたいのはその理由だ。
《お前も、私も、知る権利がない》
何か入力していた。
《だが、推察するに、日本側の人材と取引だろう》
〈その日本側の極めて優秀な人材とは?〉
《それは戻ったときに話す。大阪で会おう》
大阪市西区靱本町に、総領事館がある。
〈いま東京なので、大使館のほうが近いですね?〉
《お前をいったい何をしているのだ?》
〈戻ったときに話します〉
〈三等書記官を連れていきます〉
《好きにしたまえ》
――人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえ。
《いっしょにいるのか?》
〈もちろん〉
《ところで――》
「え?」
画面がホワイトアウトした瞬間に周囲が光に包まれた。
モスバーガーの袋を両手にもった西春施三等書記官が、爆風で飛ばされた。
*
08時05分。九龍観光局中央のモニタが「映像入力信号が存在しません」と表示した。
「何があった」
インターネットの暗号回線の特定を指示した。
「サーバの信号がありません。場所は……千葉県成田市……市街地の防犯カメラに切り替えます」
モニタにはまだ信号がなかった。ランドマーク千葉警備にハッキングして範囲を広げて表示させた。拡大させる。
「何てことだ」
周玲玲が乗っていたBMW M5 E34はスペースフレームとサスペンションだけを残していた。世界ラリー選手権(WRC)の最上位カテゴリーだったグループBのランチア・デルタS4のように。
「米国の人工衛星の画像を表示します」
車両を中心として半径十メートル以内が焦土と化していた。
「何が起こったのだ」
「日本の通信衛星から、強力な電磁波が送信されたようです」
「つまり……日本が九龍の外交官を暗殺した? 何故? 戦争を始める気か?」
「米国の通信を傍受。げっ! 通信遮断! 通信遮断! 有線を切れ!」
真っ暗になった。ブレーカごと落としたらしい。
「どうした?」
「九龍観光局中央(KTBC)がハッキングしたのがバレました……」
「そんなことで――」
「――劉中将。『KTBCが、日本の衛星をハッキングして、九龍の外交官を殺したこと』になっています」
「安全確認しました。電力復帰します」
九龍劉庚海軍中将の視界がブラックアウトした。
*
08時23分。西川衞事務所。
スリーピースの背広の六里周がネクタイを正して、EPSONのノートPCで〝SECURITY〟フォルダからソフトウェアを起動した。
『遅い連絡。予定通りよ』
挨拶もなく、茶泉珠子が返答した。
「日本国の立場は? 米国は? 大陸は? 九龍は?」
平静だが、口調は強かった。
『何も、変わらない。パワーバランスをより欧州にシフトさせただけ』
磁器のカップで紅茶を飲んでいる音が聞こえた。
「政府としては、車両の燃料電池による事故として公表する予定だ。――だが、あれは何だ? あの力は?」
『電磁波』
「――いやそうではなく……」
『ブリジットが生きて九龍に戻ると困る人がいる。私も、あなたも、西川衞元大臣も』
ブリジットは周玲玲の英語名だ。同じ名字が多い九龍ならではの風習だった。
『三島みゆきが接触したのは他に夫の三島航多だけ。日本人の三島航多はサンプルとして使えるけれど、ブリジットは国際問題になるので消えてもらった』
「どうしてペルソナ・ノン・グラータに――場所を特定するためか」
六里周は愚かではない。茶泉珠子が異常なのだ。以前から九龍観光局中央(KTBC)をハッキングしていたに違いない。
「西春施は生きているぞ――ブラフか」
『正解。サンプルでもある。ブリジットは愛する小施に接種させているからな』
断言した。西春施のブラフとは、敵地で一人生き残っているばあい誰が裏切者か考えるまでもないということだ。KTBCは西春施を内通者と断定するだろう。そうなれば、西春施は誰を頼るか。日本の知り合いは、三島みゆきの友人の長藻秋詠しかいない。
「長藻秋詠とは何者なのだ?」
『抗体の提供者――実験体だ。ITの身体に、他に数十の病原体を感染させてある。命令に応じなければ、発病して死ぬ』
定期的に特定の薬物を摂取しなければ発病するのだろうということは聞くまでもないことだった。
『事実として、日本国は何の関与もなかった。米国も同様。ウイルスを極秘開発していた大陸は、ベルギーの施設を閉鎖する予定だ。応じなければ、九龍観光局中央が情報局であり、大陸の指令で海外で活動をした事実を公表する。同時に九龍は外交権を剥奪される』
「ベルギーで製造していたのか……」
『ワロン地方には鉱山が多くある』
ベルギー北部の風光明媚なフランス語とドイツ語が話される地方だ。2012年、ワロン地方の主要な鉱山遺跡群は世界遺産に登録されている。なお、アガサ・クリスティの推理小説の名探偵エルキュール・ポアロの出身地でもある。
「カミオカンデ」
カミオカンデは、岐阜県の神岡鉱山茂住坑の地下1000メートルに設置された4500トン水チェレンコフ装置だ。現在は、50000トン大型水チェレンコフ宇宙素粒子観測装置であるスーパーカミオカンデが観測している。
「けれど、どうして鉱山なのだ?」
『歴史の話になる』
「教えてくれ」
『鉱山が潰れたのは、前時代のエナジーである鉱石に魅力がなくなったからだ。ガソリンの時代に、石炭は使わない。使われなくなった黒いダイアモンドの価格は下落した。質量としての問題もある。山間部の鉱山は鉄道が利用されているが、鉄道には限界がある。そこで?』
「アルキメデスの原理……」
『そう浮力だ。海運によって、兵站は飛躍する。慶應義塾大学では鉄道や、醤油の兵站についての論文がある。手紙・葉書が重要な資料になっている。もっとも、電話が普及したためにFAXや電子メールが使用されるまで、契約書のような機密性の高い書類以外の資料は消えることになった』
情報の空洞だ。たとえば、著作権には保護期間があるため、著作権切れの作品と現在販売されている作品のあいだに、保護されているにもかかわらず人気がない作品の保存ができないという矛盾が生じる。
電話口で、ポットにお湯を入れる音が聞こえた。三指でテーブルを3回たたく音は、三跪九叩頭の礼だ。
『話をもどすと……』