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雨跡が残る06時11分、茶泉学院中学校高等学校の緑が丘寮の前にホンダ・アスコットFBT−iが止まった。エリック・クラプトンがCMに出演していたので、クラプトンアスコットとも言われる。ジュネーブグリーンパールの塗装が色褪せているのがホンダらしい。
「じゃあ、長藻さん。ありがとうございました。さようなら」
助手席から降りる三島航多が長藻秋詠に頭をさげた。
「また会いましょう」
「もう会いたくないんですけどね」
「本当の『さようなら』は『また会いましょう』って言うんだよ」
大きな紙袋を手に、三島航多が苦笑した。未来への贈り物だろう。
アスコットが見えなくなるまで、三島航多は立っていた。別れのときは、見えなくなるまで見送るのが礼儀だから。姿が小さくなっても、振り返ってくれるかもしれない。角を曲がったときにこちらを見るかもしれない。そこにいるはずの自分がいないのだとしたら、それはとても哀しいことだと思うから。
深呼吸をした三島航多が、寮の警備に連絡した。先に伝えているので、すぐに応接室に案内されたが、そこにいたのは警官二人だった。
「三島未来さんのお父さんですね?」
「はいそうですが。未来に、何かありましたか?」
「あなたには接近禁止命令がでていますので、逮捕します」
「はい?」
三島航多に手錠がかけられた。
「06時18分。被疑者逮捕」
「ちょっちょっと待ってくれ」
「抵抗すると公務執行妨害になりますよ?」
*
緑が丘寮の近くのマンションの地下駐車場に、アスコットを止めた長藻秋詠がドアミラーをたたんだあとエンジンをきった。
「〝She should have died hereafter. There would have been a time for such a word.〟」
ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『マクベス』の一節を言葉にした。妻の訃報を聞いたときの主人公マクベスの台詞だった。
「〝Tomorrow, and tomorrow, and tomorrow.〟」
台詞をつづけながら、ドアを開けゆっくりと閉め、奥のエレベータまで歩いた。
「〝Creeps in this petty pace from day to day, To the last syllable of recorded time; And all our yesterdays have lighted fools the way to dusty death. Out, out, brief candle!〟」
エレベータが止まると若く美しい女性がでてきた。ややこぶりだが整ったバストが美しい。
「〝Life's but a walking shadow; a poor player, That struts and frets his hour upon the stage, And then is heard no more: it is a tale told by an idiot, full of sound and fury, Signifying nothing.〟」
長藻秋詠が眼鏡を正しながら、台詞をつづけた。
「エルメス?」
女性は香水〈オスマンサス ユンナン〉――オスマンサス(金木犀――キンモクセイ)と雲南省のお茶の香りを身にまとっていた。
カードキーでエレベータのドアのドアを開け、閉まるときスバルの水平対向四気筒エンジンの音が聞こえた。
深く息をはくと、右手の薬指を目尻にあてた。どうやら泣いていたのを見られたらしい。
「〝Lay on, Macbeth〟」かかってこい、マクベス。
負け惜しみなのだろう。長藻秋詠が引用した。正しくは〝Lay On, Macduff〟で、このあとでマクベスはマクダフに敗れる。
カードキーで、赤木南々子の家のドアをあけた。
「やあ」
淡いブラウン系の玄関だった。靴の紐をゆるめた。
「南々子」
秋詠が声をかけても返事がなかった。
調度品も茶系から暖色で統一していた。趣味が好い。台湾のデザイナー黄琳玲だ。
リビングに向かうと、美しい足が見えた。
赤木南々子は、リビングの床で眠っていた。
全裸で。
永遠に。
長藻秋詠は深呼吸しながら、ゆっくり目をつむり開いた。
赤木南々子の首に、指を曲げた甲をあて、ゆっくりとはなした。瞳孔を確かめるが完全に開いていた。
アルコールで手を消毒した長藻秋詠がソファーに沈みながら、一日に二人の美女を失うのは世界の損失だろうと考えていた。
――私が死んだら泣いてくれる? 秋詠さん。
泣けなかった。絶望にあって人は泣けないものだ。
――ああ。たぶん同じ日に亡くなるよ。
苦笑して、眼鏡を正した。
光る糸が目の前にただよい、首を絞めた。ピアノ線だ。さいわい右腕がはさまっているが、音をたてて首が締まっていった。
――A4 440Hzだな。
死にかけている割には冷静な長藻秋詠だった。
気配を消していたらしいもう一人が押さえつけようとするが、秋詠が首を回し、反動で逆回転しながら一人の顎を砕いた。
しかし、ミュージックワイヤで首を切ってしまった。出血で気を失う前に、秋詠は左手で右ポケットにあるカッターナイフを取り出して、相手の右首筋を切った。傷んだ右手でワイヤをゆるめ、左手でカッターナイフを投げて、受け取った右手で男の左の頸動脈から喉を切った。反動で秋詠の右手の傷が広がった。
左手にカッターナイフを持つと、衝撃で朦朧とした人物の右の腓骨を折って倒れさせた。
「女?」
長藻秋詠がマスクをとると、美しい顔が苦痛に歪んだ女がいた。
「――!」
ナイフで切ろうとするが、秋詠の掌底打で飛ばされてしまった。フランス語で何か言っていたが、ナイフの風切音で聞こえなかった。
「すまない。フランス語は理解できないんだ」
長藻秋詠がフランス語で答えた。首の出血を確認したが、問題ないようだ。
もはや気配を消す必要もなくなった男が、秋詠に大型ナイフを突き刺した。
秋詠は傷めた右手を生贄に、男の腕の鎖骨を折った。後退する男の股間を蹴ると、倒れた男が喉を押さえていた。息ができないらしい。カッターナイフをポケットに入れた秋詠が右手に刺さったナイフを抜くと、男の太腿の内側を包丁を研ぐように動かした。大腿動脈から流れでる血液が床を彩った。
女の上着を剥ぐと、右肋骨の隙間にナイフの刃を入れた。抜いていないので、さきほどよりは出血は少ない。
「肝臓だ。抜くと、失血死する。理解したか?」
長藻秋詠のフランス語に女がうなずいた。そして、左手で押し込んだ。女が両手で止める。
「抜くと、失血死する」
何度もうなずく女の胸から、SIG SAUER P226を取り出した。膝をついて、左手で弾倉を抜いて、遊底をオープンさせて確かめたあと、初弾を装填した。
ウェストコートのポケットに銃を入れると、カッターナイフを手に女のナイフを拾いあげた。
呼吸をゆっくりさせ、気配を消して待った。