3.
3.
口を曲げた三島航多がツイードのジャケットの本切羽を開いた手で、東プレのキーボードをたたいた。
「……やっぱりバスも出てますね」
東京行の深夜バスだ。大阪から乗車するとしても、ふつうは0時前に梅田を出発し8時に東京といったところだ。
「車で行っても朝ですね……というかもう朝か」
PCの表示は、03時57分だった。
「感染症対策としては車だけれど……」
長藻秋詠が忠告した。
「ええ分かってます」
深夜の高速で葬儀に向かう車の事故が多いのは常識だ。
「ミイラ取がミイラになるからね。……昔は薬用にしたらしいよ」
「相変わらず不謹慎ですね」
目を細めながら航多が事実を述べた。
「正直な悪人なんでね。……元はミルラっていう没薬をさしたらしい。樹脂だね」
「それを盗んだ?」
「さあどうだろう。東方の三賢者の贈り物にもあったな。カスパール――老賢者の贈り物が没薬だ」
他の二人、若いメルキオールは黄金、壮年のバルタザールは乳香を贈ったとされている。
「茶泉のクリスマス劇が毎年それでした」
学校法人茶泉学院は日本聖公会系のキリスト教主義学校だ。理事長の茶泉珠子は茶泉学院大学医学部附属大学病院の院長でもある。
「あったなあ……」
「長藻さんって桃山でしょう?」
「姉妹校なんだよ。桃山学院高等学校は。ちなみに、ニッカウヰスキーの竹鶴政孝が一時期化学を教えていたらしい。その生徒が私の古文の教官」
「けっこうつながっているもんですね」
「六次の隔たりというのがあるらしい。だいたい6ステップで間接的な知り合いになれるそうだ」
「世の中狭い……」
三島航多が右上をみた。赤木南々子のことを思い出したらしい。
「長藻さんって未来ちゃんの父親知ってます?」
「知らない。どうして?」
「いちおう連絡しようかと」
「別にいいんじゃない」
「よくないでしょ。そこらへんはきっちりしておかないと」
秋詠が一笑した。
「どうして笑うんです? おかしなこと言いました? ん?」
「みゆきさん、幸せだったんだなと思ってさ」
溜息をつきながら、航多がテーブルのフェイスタオルを顔にあてた。
「深呼吸。もう一度、深呼吸。もう一度、深呼吸」
「そんなだからみんなに嫌われるんですよ?」
「……寮に電話は?」
「えっ? リョウ?」
長藻秋詠はよく結果から話して、他の人間に理解されないことが多い。
「ああ、学校の寮にはまだ連絡していません。まだ未来ちゃんも眠っているだろうし。明日朝連絡して、ピックアップします」
「どうかしら。ディベート。あなただけで行くというのは?」
ディベートは論題に対して肯定側・否定側の2組が立論・質疑・第1反駁・第2反駁を行うが、立論者自身は肯定否定を選べない。たとえ自分の意見(や立場)が肯定派であっても、否定側となれば否定側として立論する必要がある。今回、長藻秋詠はあらゆる可能性を考えてみようと提案した。百%の正解などないのだから、少しでも過つ可能性を消しているだけにすぎない。ただ、誤解されることが多く、長藻秋詠が敵をつくる要因の一つでもあった。
「親に会わせないのはダメでしょう。たとえ感染症だったとしても――そうだった場合会えないですが、近くまで行かせてあげないと」
「会えた場合、最悪それで病気になったとしても? 不顕性感染で無症候性キャリアとなって、伝染させたとしても?」
繰り返すがこれはディベートなので、長藻秋詠は感染症対策に重きをおいており、三島航多はそれを否定する立場にあるだけで、喧嘩している訳ではない。
「それは本人が決めることでしょう。一生言われますよ? 行きたいところに行けなかったって」
三島みゆきの元夫は新婚旅行の行き先を勝手に変更したらしい。
「子供が病気になるのを親は――」
三島航多が拳をにぎっていた。覚悟を確かめた長藻秋詠は肩をすくめ、それ以上反駁しなかった。
*
茶泉記念病院(成田)。04時01分。
「では繰り返します。1.関係者に箝口令、2.専門医は成田で解剖、3.サンプルは東京ラボで解析、4.二次感染者と思われる人物の手配は厚生労働省から手配。絶対にその人物を追うな――はい、失礼します」
石田医師が通話をきり、顔をあげた。阮美麗看護師が眉間に皺をよせていた。
「あのう……」
「何も言うな。私たちができることはした。これからもできることをする。できることだけは必ず成し遂げる。それだけだよ」
溜息をついた石田医師が、椅子に深く腰かけた。
「たぶん……これは推測だが理事長は、何かを知っているんだろう」
「何かって何ですか?」
「知らないことは答えられない。逆にいえば、それだけこちらを守ってくれているともとれる」
「そうでしょうか……」
「でないと、責任を取るとは言わないよ」
「辞めたって感染は広がります」
「ああ、そういう意味じゃあないよ。責任を取るということは始末をつけるということ。始末――始めから最後まで。途中で仕事を放り出したり、離職するのが責任を取ることにはならない。最後まで行って対価を得るまでして、責任を取ったことになる」
*
長藻秋詠がくしゃみをした。
「大丈夫ですか?」
「God bless you. ……」お大事に。
三島航多の気遣いに、長藻秋詠が本来はくしゃみをした人にする常套句を返した。
「ああ、香典……御花料だっけ?」
「ああいいですよ。葬式無用、戒名不用って言ってましたから。それにこんな世界ですから要りませんって」
「白洲次郎かよ。……葬式の花代って税金かからないんだけどな」
「あああのイケメンの?」
「遺言書に書かれていたそうだ。まあ、安岡正篤と三島由紀夫、それに白洲次郎が戦後の日本を駄目にした三人だ」
遺言は法律用語では「いごん」と読まれている。
「辛辣ですねえ」
安岡正篤は陽明学の権威であり、大東亜共栄圏を管轄する大東亜省の顧問だった。心酔者も多く影響力があるとされながら、長藻秋詠が評価する点において落第している人物だった。三島由紀夫も傾倒した陽明学だったが、安岡正篤は何もしなかった。白洲次郎の悪行は失われた『ジロウ・ノート』に書かれているという。
*
絹のガウンをはおった茶泉珠子が、スマートフォンの〝SECURITY〟フォルダからアプリを起動させた。
〈RIKURI,_Mr.〉を選択してタップした。発信音。
2回、3回、4回。
『――何が起こった?』
通話先のアプリと同期して双方セキュリティを確認したあと、六里周が口を開いた。
「〝Catch−22〟」
『ふう……』
ジョセフ・ヘラーの『キャッチ=22』は戦争下の不条理を描いた小説だ。「気が狂っている者は自ら願えば除隊できる」のだが「除隊を自ら願う者は気が狂っているとは言えない」ので戦場に行くしかない。ジョン・ミリアスの映画『ビッグ ウェンズデー』の小説では、彼女が主人公の部屋に『キャッチ=22』があるのを見て気に入るシーンがある。もっとも彼の友人はドーナツを……。
「ブリジット――周玲玲をペルソナ・ノン・グラータにしろ」
六里周のスマートフォンに〝Chow Ling-Ling, Brigitte〟と表示された。〝Persona non grata〟とは「好ましからざる人物」を意味するラテン語で、この通告があれば外交官は国外退去処分となる。
『九龍に何と言う? 大陸は黙ってはいないぞ』
「説明義務はない」
ペルソナ・ノン・グラータは一方的に発動することができるし、その理由を述べる必要もない。派遣国が「本国召還」に応じない場合は、その人物の外交特権は失効してしまう。
『アジアを火の海に日本をまた焦土にするつもりか?』
三島みゆきのデータも表示された。
『抗体をもつ人間が発病した? いや発病しても重症化しない死亡しないはずだろう?』
「死は医師の管轄外だ」
『ふざけるな』
あくまで冷静に六里周が答えた。
「ウイルスはもっともヒトの弱いところを利用する。まるで生命のように」
茶泉珠子が感傷した。
『……質問がある』
「どうぞ」
『ウイルスは生命なのか?』
「定義による」
かつて、物理学者ヴォルフガング・エルンスト・パウリは論文の誤りについて「間違ってすらいない」と答えたという。正誤を問う以前の問題だったからだ。
『君の意見を聞きたい』
「……あくまで個人的な意見だが、ウイルスは情報――ミームに近い存在だ。1976年リチャード・ドーキンスが『利己的な遺伝子』という本のなかで述べているが、ミームは脳から別の脳に複製可能な情報だ。情報でヒトは死ぬ」
『情報でヒトが死ぬ? ウイルスは物体だろうどうして情報でヒトが死ぬんだ? ……ああ』
六里周は2回問うことで考えに至ったらしい。ゲーム理論の穂刈享(慶應義塾大学経済学部教授)は「同じ質問を二度繰り返すことで解答を理解できる可能が高い」と述べている。穂刈享は京都大学経済学部を卒業したあとロチェスター大学で博士号を取得しているので天才の部類にはいる人間だが、穂刈享がゲーム理論の専門家の講義に出席したとき(当然出席者も天才ばかりなのだが)その専門家が黒板に書いた内容を誰一人理解できなかったらしい。穂刈享が質問したところ完全否定で解答すら理解できず、もう一度同じ質問をしてようやく理解できたそうだ。
たとえば、発症前に対策していればウイルスに感染する可能性は低くなる。実際、新型コロナウイルス感染症(COVID−19)によって、従来のインフルエンザが減少している事実がある。物体であるウイルスよりも、茶泉珠子は誤った情報によってヒトが死ぬと警告したのだ。人類の歴史は『ヨハネによる黙示録』に記された四騎士に代表されるように、支配者による戦争と飢餓と疫病の歴史でもある。
「宇宙にあるダークエナジーは情報かもしれない。あるいは、情報こそが生命の本質かもしれない」
「それを証明する事は不可能だ。現代科学では生命を定義できないからな」
士郎正宗『攻殻機動隊(1)』(講談社、1991年)P250
「先生によろしく」
『ああ』