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テーブルの三島航多が、オーギュスト・ロダンに棄てられたカミーユ・クローデルの彫刻のようにすがる手をのばしていた。追いすがるカミーユ、去りゆくロダン、連れ去るロダンの妻(※)。共同制作者だったカミーユはその才能のすべてを愛するロダンに差しだしたが、ロダンはカミーユを棄てた。代表作『考える人』は、ダンテ・アリギエーリの叙事詩『神曲』地獄篇に登場する地獄の門の上で、地獄を考察している。※当時は内縁でのちに結婚している。
「どうしたの?」
ドアの外から赤木南々子が小声で聞いた。フェラガモのパンプスが脚線美を彩っていた。台湾のデザイナー黄琳玲のダークスーツに、プラチナのチョーカーとピアス。
深い息をはいた長藻秋詠が、顎で廊下にでるよう案内した。
「みゆきさんが亡くなった」
ドアをきっちり閉めてから、見えない中に視線をやりながら小声で答えた。
「あのビッチ――ごめんなさい」
本心が漏れたらしく、急いで口に手をやった。
「本人に言うなよ」
「はいはい。あっコレ」
秋詠がブルーのレターパックライトを受け取った。封はされているが、何も書かれていない。
「ありがとう」
「じゃあ今夜は無理そうね。せっかく楽しめると思ったのに」
秋詠が腰に手をまわして口づけをした。つむっていた目を開いた。
「熱があるのか? 薬は?」
南々子の頸動脈に曲げた指の甲を軽くあててから、手の平で額の温度をはかった。
「ロキソニンを1単位。――私が死んだら泣いてくれる? 秋詠さん」
愛称だ。ふつう「秋詠」とは読めない。
「ああ。たぶん同じ日に亡くなるよ」
「冗談ばっかし。……じゃあ帰るわね」
手を大きくふりながら、後ずさりした。
「気をつけて」
「はいはい……Let me see what spring is like on Jupiter and Mars」
背中ごしに手を振って歌いながら、天使が両翼を広げるような階段を降りていった。扇状の踊り場で折り返すと、首をかたむけ微笑んだ。
見えなくなってから戻ると、口を曲げながら三島航多が珈琲を飲んでいた。
「長藻さん。あの女、ファム・ファタールですよ」
フランス語で「運命の女」という意味だが、人を破滅させる魔性の女として使われることが多い。
「女は誰でもそうだけれどね」
意に介さず、アルミダイキャスト製のNTカッターのステンレス刃でレターパックを開けた。
「考えたんですけど」
「別れよう?」
中には、クリアファイルに書類が2通と、現金百万円が2束。それに、ランドマーク兵庫警備株式会社宛の領収書があった。
「数えて」
深く溜息をつく航多がソファーの向かいに座って、封を切って数えていった。
秋詠がレターパックのシールを剥がして書類の1通の裏に貼ってから、奥のマホガニーのテーブルの引き出しから長3封筒2枚と、ランドマーク兵庫警備と長藻秋詠の宛名のシールを出して貼付した。
「二百です」
百万ずつ山にした。日本の札は百万円で約1センチメールある。
「はい」
領収書に押印して、元のクリアファイルに入れて再封した。
「二度目だからね。一度は引き留めるけれど。――LMの取引は今後、三島くんが継続するということで。はい、契約書」
「了解です」
三島航多が2通の契約書の複数ページにまたがるランドマーク兵庫警備の割印を指差し確認した。二人の印も押されていた。
「ココ、かすれてますね」
「それは私ので」
長藻秋詠が封筒にそれぞれ百万円ずつ入れて、1封をウェストコートの右胸に入れ、左胸のポケットチーフを正した。
「はい」
契約書と、封筒を交換した。三島航多がダークブルーのブリーフケースにしまった。
「珈琲要る?」
「いただけますか。どうせ眠れそうにないです」
2客のカップを流しまでさげると、冷凍庫から〈先山珈琲 Sakiyama Coffee Dominica〉と印字された袋を取り出した。ソファーからキッチンは見えないが、香りがただよった。
「長藻さん……今までありがとうございました。いつか機会があれば、必ず恩返しします」
「要らないよ。――恩は与えた人に返すもんじゃないよ。他の誰かに、何かに、返せばいい」
ソファーに戻ってきた長藻秋詠が、カップをテーブルにおいた。
三島航多が珈琲に口をつけるが、深く目をつむってテーブルに戻した。洗面所で顔を洗い、フェイスタオルを肩に帰ってきた。
「言っておきますけど、汗かいているだけですからね」
「……」
長藻秋詠は何も返さず、ゆっくりとドミニカの珈琲を味わった。
「熱!」
三島航多の契約書がにじんだ。
*
茶泉記念病院(成田)。03時57分。
「接触者を特定できないとなると、申し送りでミスが発生する可能性が高い。いやそれよりも最悪を想定して、感染拡大を防止するほうがいい。はあしかし……」
石田医師が左手のオメガで時刻を確認した。
「現状で隔離あるいは自宅待機というのはどうでしょうか。クランケの夫は接触を認めていますし」
阮美麗看護師が提案した。
「いずれにせよ、上に連絡するべきではないでしょうか」
「それもそうだな。オマハ・ビーチで寝ている人はいない」
1944年6月6日、第二次世界大戦のノルマンディー上陸作戦の海岸だ。ドイツの高官は眠っており対応が遅れたと仄聞する。
*
深夜の電話はたいてい不幸なものだ。それだけに茶泉珠子は小さな胸を絹のシーツで隠しながら、2コールで電話をとった。
『成田の石田です』
「要件を」
幼い顔をしているが、老化しにくい体質なだけで年齢は三十を過ぎていた。HPのノートPCを開いた。
『昨夜搬送されたクランケが原因不明の感染症で死亡しました。未確認ですが、新種のウイルスの可能性があります』
「そう……。では、感染症の専門医の派遣と、東京ラボの使用許可ね。手配する」
二三秒ですべてをクリアする内容を返した。シミュレーションしていたのだろう。
『ありがとうございます。それと、コーサウェイホテル成田で発症したのですが、同室の男性が行方不明ですので、県警に捜索を依頼したいのですが』
クラウドから、三島みゆきのデータを表示した。
「コーサウェイ? ……箝口令。厚生労働省から手配させる。絶対に、何も、するな」
高級ホテルを利用する人間には、官僚も含まれる。藪をつついて蛇を出すことになりかねない。
「変更。専門医は成田に派遣する。遺体を動かすな」
『はい分かりました』
「繰り返す。1.関係者に箝口令、2.専門医は成田で解剖、3.サンプルは東京ラボで解析、4.二次感染者と思われる人物の手配は厚生労働省から手配。絶対にその人物を追うな」
『しかしそれでは感染が広がってしまう可能性が――』
「――かまわない。それは君の責任ではない。……私の仕事をとるな。石田くん」
強い口調のあと、茶泉珠子が前髪をかきあげた。額が広い。
『はい……』
「悪い予感がするんだ。最悪のね。たぶんその人物は政府関係者だ」
『それは――』
「――海外の高官だった場合……世界大戦は二度でいい」
『では繰り返します。1.関係者に箝口令……』
茶泉珠子が電話を切ると、隣に眠っている蒲沼製薬の蒲沼紀子の髪をととのえた。泣き黒子にキスをした。