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冬夜の雨がロールカーテンを揺らしていた。23時15分。レンガ造りのビル〝ヂ〟ングに残っているのは4階の事務所にいる二人だけだった。
「お先です」
奥のバスルームから、髪をバスタオルでふきながらハンサムが上半身裸ででてきた。鍛えているのか見事な6パックだ。パラブーツのブラウンのデッキシューズと、ベージュのチノパンにスナワチの牛革のベルトが似合っていた。
「三島くん、携帯光っていたよ」
そう言って眼鏡を正したのが責任者の長藻秋詠だ。増永眼鏡のフレームにネッツペックコーティングレンズは、上品だが価格もそれなりにする。スナワチのブラックのストレートチップに、襟付のチャコールグレイのウェストコート。眼鏡の他には時計はおろか貴金属を一切身につけていない。どこにでもいる普通の会社員に見えなくもないが、二人ともITエンジニアだった。
24時間稼働させている三島の自作PCに、雨が上がるという天気予報がでていた。新型コロナウイルス感染症(COVID−19)によって行動が制限された記憶は新しい。その次は天災だった。もう3か月も降り続いていた。
「取ってくれてもよかったのに」
三島航多がダークグレーのシャツの袖に腕をとおした。長い足を折りながら奥のマホガニーのテーブル席についた。実質的な作業は航多が行っているので、MacBook Proで確認するだけの秋詠はソファーで十分だった。
航多が瞬きした。
「どうした?」
「知らない電話番号……留守電……0476って?」
「千葉だね。何番?」
航多が留守電を聞いている間に、秋詠が検索した。
「コーサウェイだ」
コーサウェイホテルは5つ星だ。長藻秋詠がコンシェルジュの研修をしたことがある。関西の財界人レイ・クックマン――蒲沼励に頼まれて断れる人間はいない。
「何と?」
「子供の使いです」
秋詠が一笑した。どうやら「また架けます」だったらしい。情報は必ず劣化する。
「はい」
着信に答えた。
『三島航多さまのお電話でよろしかったでしょうか』
美しい声に、声フェチの長藻秋詠が眼鏡を正した。ウェストコートの下にブレイシーズが見える。
「はいそうですが」
『わたくし、コーサウェイホテル成田宿泊部客室係の小山田由子と申します』
「はい」
三島航多がペンを欲しいと手を振ると、うなずいた長藻秋詠がキーボードで叩いた。
『三島さま?』
緊張から小山田由子の声がうわずっていた。
「聞いてますよ」
三島航多が外部スピーカに切り替えると、長藻秋詠が録音を開始して、うなずいた。
『三島みゆきさまが体調不良のため病院に搬送されました。みゆきさまから航多さまにその旨ことづかりましたのでご連絡させていただきました』
「そうですか。みゆきさん――妻の容体はどうでしょうか」
『ホテルの医師によると発熱――体温38度5分――がありましたので感染症の可能性が高いとのことです。なお、PCR検査は陰性でしたので新型コロナウイルス感染症ではないとのことです』
途中紙をめくる音が聞こえた。優秀な人間なのだろう。
『つきましては、搬送先の病院をご案内させていただきたいのですが、お手元に筆記用具と紙はございますか』
「録音していますので、どうぞ」
『申し上げます。搬送先の病院の名称は、茶泉記念病院です。ご住所は千葉県成田市……』
茶泉記念病院は全国展開されている有名な病院だ。成田にもあるらしい。
住所まで聞いた秋詠が、先にホームページのアクセスのページをプリントアウトして航多に渡した。
小山田由子の「では、繰り返させていただきます」という言葉にそって、連絡先を確認した。
*
茶泉記念病院(成田)。ICU(集中治療室)。
「23時15分。死亡を確認」
石田医師が手をあわせた。阮美麗看護師も肩を落とし手をあわせ目をつむった。
「ご家族の方は?」
レベル3からエアシャワー室に異動しながら、石田医師が深く目をつむりながら聞いた。
「確認します」
事務的に阮美麗が答えた。
*
コーサウェイホテル成田宿泊部。23時23分。
「部長。よろしいですか?」
美しいスタイルの小山田由子が資料を手に、嬰児に乳をやる田澤部長に声をかけた。
「ちょっと待って……」
HPのノートPCを閉じた。どこにでも守秘義務があり、コーサウェイはその点でも優秀だった。
「どうぞ」
「1729号室の除菌を終えましたが、灘医師から14日間は様子をみたほうがいいとのことです」
「そうしましょう」
飲み終えた子を抱いて噯気をうながしながら、胸元を正した。
「上は頭を抱えるでしょうけれど、それが仕事だから」
呼応するようにゲップした。
「よしよし――情報は関係各所と共有します。ありがとう」
「それと、同室の男性ですが連絡がつきませんでした」
下書きをテーブルに置いた由子が口を歪めながら言った。
「人には事情があるから」
浮気は罪だが、犯罪ではない。浮気をされた配偶者の民事的な問題であり、国が裁くような刑事罰はない。とはいえ、恋人を病魔に奪われた小山田由子にしてみれば許せないことなのだろう。
「顔にでているわよ。――由子ちゃん。転職するのもアリよ。――移動を願うとか。簿記の資格もあるし会計課はどう? ――そっか眠たいですか」
ぐずり始めた子を田澤部長が立ってあやした。
「それはそれでもっと闇を見てしまいそうです」
不正は行っていないだろうが、知られては困ることは多いのが「他人の事情」だ。数字は嘘をつかない。女性の宿泊代に、ブリオーニの高価なネクタイが含まれているとしたら、贈り物をしたと考えるのが妥当だろう。
「とりあえず、14日間待機で」
「私は接触していませんよ?」
「嘘も方便というでしょう?」
嘘も方便は『法華経』「譬喩品」の三車火宅が由来とされている。「火宅」――煩悩の火に焼かれる迷いの世界にいる子供を助けるために、「三車」――三人それぞれに「好きな車を買ってあげるから」と嘘をついて救いだしたという。これが声聞、縁覚、菩薩の三乗の教えとなる。
田澤部長が幼子を寝かせると、小山田由子を待たせたまま内線で灘医師に連絡した。
『――田澤部長が仰るのならそのほうがよろしいでしょう』
二重線を引いたあと、ボールペンのノック音がつづいた。灘医師も心配していたらしい。
『あっちょっとそのまま待ってください。病院からです。――はい灘です。……そうですか、ご連絡ありがとうございます。ではよろしくお願いいたします。――例のクランケが亡くなりました。ご家族の方には病院から連絡していただけるそうです』
小山田由子がふらふらと倒れ込んでしまった。
「由子ちゃん! 灘さん来て!」
母親の声に反応せず、赤ちゃんが静かに眠っていた。