ティアレーヌ・ド・ダリルの静かなる結婚
憎らしいほど晴れ晴れとした早朝の空が、秋の気配を漂わせて、幾つか雲をたなびかせていた。
世話人が退室した一刻の時間。
王都一番の教会の新婦側の控室で一人、鏡の前で微笑む女性がいる。
白いロームエッダの実家の象徴花と、血のように赤い夫方の家の象徴花を髪に飾り、真っ白なレース性のヴェールを目深に被ったティアレーヌ・ド・ダリルは、鏡に映った、女神もかくやの美貌の麗人――――整った顔立ちに、一対の紫水晶の下の方から淡く栗色の薫る特徴的な虹彩の大きな眸を長い金糸の睫毛で彩った薄化粧の顔に、輝かんばかりの金髪を緩く結い上げ、大々的に肩を出した今流行りの型のウェディングドレスを着こんですっかり婚礼支度の整った己の姿に、静かに笑みを深めた。
これからティアレーヌは、結婚まで一度も顔を合わせず文通ばかりしてきた夫と初めて顔を合わせ、生涯の伴侶として誓いを立てる。
この、国の古い言葉で千の花という意味を持つ国で王族が一、建国神プロティシアの血を受け継ぐとされる強大な力を持った女系一家の皇家、実家であるダリル家と一生の縁を切り、夫方の貴族に国王によって下賜される――――それは、ティアレーヌが生まれて間もなくに決まっていた事。
ティアレーヌは、見ず知らずの夫とその家に深く感謝していた。
彼女の歳は数えで二十七。通常であれば二十歳前ともなれば嫁ぐところを、夫方の好意で、ティアレーヌの好きな職――――つい最近まで女優業までさせてもらえていた。
夫となる男性は、文通の内容を見るに、優しく誠実な人柄のよう。誰かに代筆をさせていたならばその限りではないが、その時はその時だとティアレーヌは思っている。
見ず知らずの相手と子を成し、見ず知らずの環境で家庭を築いていく。ティアレーヌは、夫となる男性に、心からの親愛を寄せるつもりでいた。
だた、愛情は――――もてないだろうと思っている。
それらは全て、全く別の相手に捧げているのだから。
ティアレーヌの心は、結婚の誓約日当日になってまで、見ず知らずの夫ではなく――――彼女が十歳になった頃に出会った、とある貴族の令嬢にあった。
*****
今でもありありと思い出せる、ティアレーヌが十歳になった誕生月の初めの日。
ダリル家と懇意にしている貴族の令嬢を集めた、ちょっとしたパーティーが催された。
その、幼い頃から知っている令嬢の顔の中に見知らぬ顔があったのが、ティアレーヌの興味を引いたのだ。
その少女は、当時の流行りだった丸袖は取り入れているものの、他の令嬢と比べても比較的簡素な造りの白い蝶の刺繍が印象的な紺色のドレスを着ていた。ハシバミ色のストレートな髪は顔の横髪を頭の後ろでドレスと揃いの蝶の髪留めで纏めており、二の腕の辺りまでの後ろ髪は背に流されていた。
一重まぶたに髪と同色の眸と、それ程目立つ顔立ちではなかったが、目立たないけれど可愛い子だな、とティアレーヌが思った事を良く覚えている。
他の、それぞれに打ち解けた令嬢たちとは違って、もしかしたらこういった場が初めてだったのかもしれない。随分と緊張気味に、少々青ざめていたのが印象的だった。
壁の花然としていた彼女に真っ先に声をかけたのも、ティアレーヌだった。
『まあ、かわいい蝶々さん。
蝶々さん、お名前を教えて下さいな?』
ティアレーヌは、その当時被れていた喜劇小説の主人公に寄せた語り口で、芝居がかった調子でこう話しかけた。話しかけられた蝶々さん――――彼女は、初め自分のことだと思わなかったようで、辺りを見回し、他に人がいない事に、はっと我に返ったかのようにティアレーヌを見つめた。
『す、すみません。
こういった場に慣れてなくて……り、リュシー・ド・ミルドラと申します。
ティアレーヌ様、本日はお招き頂きまして誠に有難うございます』
『いえいえ。こちらこそ来て頂けて光栄ですわ。
リュシー、とお呼びしてもよろしいかしら? 私のことはティアレーヌとお呼びくださいな。
リュシー、あちらでお飲み物でもいかがかしら?』
これが、ティアレーヌと、リュシー・ド・ミルドラとの出会いだった。
出会った当初は、ティアレーヌはリュシーに対して、年の頃はそう違わないのに、その物静かな面持ちに関心はするものの、他の令嬢と対して変わらない思い――――友達として見ていた。
少々固い語り口をしていて、流行には疎いが、誠実な友達だと。
それが、いつの間に恋慕に変わったのか、ティアレーヌはその時のことを、ある種の事件と捉えている。
それは、リュシーが度々催されるダリル家主催の貴族の集まりに、顔を見せる事が多くなったあるパーティーの事。
時期は夏の初め、野外で、ちょっとしたピクニック形式でのパーティーだった。
ティアレーヌは、やはりその当時の流行だったつば広のピンクの帽子に、揃いの色の、首元がレースの編み物で出来た細かな刺繍が美しいドレスを着ていた。
リュシーは髪を一纏めに結い上げて、ティアレーヌと似たような水色のドレスを着こみ、同じくつば広の帽子を被っていた。他の令嬢も色こそ違え同じようないで立ちだった。
パーティーは和やかに進み、そろ終盤の頃。
『きゃあ! っやだ! ……帽子が……』
急な突風がティアレーヌの帽子を近くの木の上まで飛ばしてしまう事件が起きた。
その時、おろおろとする他の令嬢やお付きの者を尻目に、被っていたつば広帽をティアレーヌに預けて、真っ先に自身のドレスが汚れるのも構わず木に登って帽子を取ってくれたのが、リュシーだった。
その時の、女性とは思えぬほど鋭い目つきと機敏な動き、ほつれたハシバミ色の髪の一房に、普段の遠慮深い姿とのギャップで、ティアレーヌは、一瞬にしてリュシーに恋に落ちてしまった。
同性に恋した己に戸惑う暇もなく、それから、ティアレーヌはどんどん可笑しくなってゆく自分に嫌気がさしていた。
リュシーと他の令嬢が親し気に笑っているのを見ると胸の奥が痛み、確かに友達の筈のその令嬢の事を酷く恨んだりもするようになってしまった。
四六時中リュシーの事で頭がいっぱいで、大好きな喜劇小説も、淑女教育にも身が入らない。リュシーのハシバミ色の眸は今何を映しているだろう? 今何をしているの? ティアレーヌの中で、リュシーへの想いは膨らんでゆくばかり。
不思議な事に、リュシーは、淑女学校へも通っていないようだった。
学校に行けば会える他の令嬢の友達とは違って、リュシーには、パーティーの時しか会えない。それがまた、ティアレーヌの心を千々に乱す。
リュシーとはそれまで以上に親しく接するようになっていた。友達の範疇を超える事はなかったが、度々ティアレーヌはリュシーに抱きついたりもした。
リュシーと逢える時は何日も前から眠れず、逆にリュシーとのパーティーが終わるとその次はいつ逢えるか、やきもきして同じく眠れぬ夜を過ごした。
そんなティアレーヌの幸福と苦悩は、彼女が十四の時、唐突に終わる。
リュシーから、丁寧な手紙が来たのだ。内容は、今までのお礼と、急なお別れを告げるもの。
どうした事だろうと手紙を読み進めてゆくと、とうとう、リュシーが随分と歳早い結婚をする事を知った。
政略結婚。それは、ティアレーヌにとっても縁遠い話ではない。
ティアレーヌはその手紙を読み終えた後、呆然自失で――――ああ、貴族の令嬢はこういうものなのだ、と。深く深く哀しみ、涙すら出なかった。
時を同じくして、ティアレーヌの婚約者でもある相手から、ティアレーヌに手紙が届くようになった。それは、リュシーの兄だという、フェルバット・ド・ミルドラという人物。
ティアレーヌは、リュシーが何故ダリル家と懇意の貴族のパーティーに来ていたのか、その正解を悟ると同時に、リュシーの兄だと名乗る人物と、リュシーに傾けていた情熱が嘘のような、静かな手紙をやり取りするようになった。
フェルバットは、手紙のやり取りは欠かす事無く――――毎年ティアレーヌの誕生月の初めに贈り物をくれた。ティアレーヌが、リュシーを失った哀しみから逃れるかのように次第に没頭していった、役者としての道も応援してくれた。
ただ、ティアレーヌとしては、十三、十四辺りの年若いリュシーを嫁に出した、ミルドラ家にはあまり良い印象はなかった。
今も。
そんな、ミルドラ家の当主と、本日結婚するのである。
フェルバット・ド・ミルドラは、誠実な人物だろうとティアレーヌは推測する。誠実だが、恐らく遊び心はない人物。
去年のティアレーヌの誕生月の初め、フェルバットが贈ってきた贈り物は、ダリル家の象徴花であるロームエッダの白い花を模した髪飾りだった。
この国では、花嫁は自身の家の象徴花と相手の家の象徴花を髪に飾って嫁いでいく。転じて、自身の家の象徴花でも、男性の家の象徴花でも、男性から花を髪に飾られる事はプロポーズの意味になる。
その習わしに則った髪飾りだろうと窺えた。
その贈りものを手に取った時、ティアレーヌは、いよいよか、と。静かに――――諦めに笑みを深めている。大好きなリュシーを奪った、結婚が、自分の身にも迫ろうとしている、と。
******
「お時間ですよ」
その世話人の声に、ティアレーヌは静かに回想から返ってきた。鏡の中には、これ以上ない程に着飾ったウェディングドレスの麗人がいる。どこか他人事のように、ティアレーヌはそんな事を思い、世話人の手に従って、誓いの場へと赴く。聖堂の間の扉が開かれ、待っていたのは。
「……リュシー?」
そこには、忘れもしないハシバミの髪に同色の眸、一重まぶたの焦がれに焦がれた顔があった。着ている服は白のタキシードで、近年の新郎側の衣装の流行に則ってティアレーヌと同じくロームエッダの花と真っ赤な花を飾った髪は首の後ろで一纏めにされているようだし、上背もあったけれども。
ティアレーヌは一瞬、もう何年も前に結婚してしまった筈のリュシーが居るのだと錯覚してしまった。それ程に、横から見た建国神プロティシア像の目の前で佇んでいた人物は、リュシーと瓜二つ。
思わず胸の高鳴りで足を止めてしまったティアレーヌは、ついで、兄妹だったものね。と、今更に今更ながらの事を、すぐに沈んだ気持ちで思った。
「お初にお目にかかりますわ。フェルバット様。……私の友、リュシーとは、双子でしたのね」
自身の動揺など何食わぬ顔で、止まった足もそのままに、相手の人物に計算ずくの、世間から美しいと絶賛されている微笑みを浮かべる。
勿論赤くなるだろうとティアレーヌが思った彼、フェルバット・ド・ミルドラは、しかし、少し青ざめて、いや、と固く目を瞑ってしまった。
その青ざめ方がまた、出会った時のリュシーを彷彿とさせて、ティアレーヌには残酷にも懐かしい。
カツコツと聖堂の空間にヒールの音を響かせてフェルバットに近寄っていくティアレーヌに、フェルバットは、暫く無言でいたが、意を決したように、目を開けた。ティアレーヌを真っ直ぐに見、こう言う。
「……初めまして、ティアレーヌ姫。
…………。私に、妹はいないのです」
ティアレーヌは、ピタリと動きを止めた。微笑も思考も一瞬にして固まった。いない、とはどういう意味か。この男は何を言っているの? じゃあ一体、ティアレーヌが十歳から十四歳の間会っていた、今も心の中にあり続けるリュシーは誰だと。
フェルバットは、俯いて、申し訳ありません、と、困ったような、苦しそうな顔で続ける。
「リュシー・ド・ミルドラは、……私なのです」
「え?」
ティアレーヌは、思わず喉から声を零してしまった。リュシーがフェルバットだったという、それは、つまり。
目の前のフェルバットは心底心苦し気に続けてゆく。
「本当はもっと前にお伝えできれば良かった。
私に、女装の趣味は有りませんが、私の、母が。
幼少の頃より私の顔があまりに女じみているからと、貴女との初顔合わせの日、女装させられたのが事の始まりでした。一回きりという約束だったのですが、その後も、母は面白がって……。
私の声が変わった、十四の時まで、女装してパーティーに行かされていたのです……。
その後は家を継ぎ、忙しさにかまけて会うことも出来ず、こんな事を手紙で言う訳にも行かず、今日まで……。
騙すようなことになって、本当に、申し訳ございません」
沈痛な面持ちでそう語り終えたフェルバットは、ティアレーヌに向けて、深々と花で着飾られた頭を下げる。
ティアレーヌは、混乱すると同時に――――リュシーは目の前の、フェルバットだった事に一定の理解を得た。なるほど、どことなく固い語り口などそっくりではないか。当たり前だ。リュシーの本当の名前はフェルバットなのだから。
ならば、ならば。
(あの時、私の飛んで行った帽子を取り戻してくれた人が、私の夫)
「っ!……っ!?」
ティアレーヌは思わず漏れそうになった驚愕の声を寸でで飲みこんだ。リュシーはフェルバット。フェルバットはリュシー。どんどんと熱くなってゆく頬やら身体やら心臓の音やらを言外に押しやり、一つ、大きく深呼吸する。
そして、にっこりと、それはもう心からにっこりと微笑んだ。今声を出せば声が震える。そう思い、密かにつばを飲み込んで、急にふわふわと頼りなく思えてしまう足元を確かめるように、カツン、とフェルバットとの距離を縮めた。
「頭を上げて下さいフェルバット様。
私は、今、とても幸せな気分ですのよ?」
「え……?」
フェルバットが顔を上げた先には、嫣然と、まるでこの世の花の全てが恥じらい蕾になってしまうかのような、輝かんばかりの女神の微笑みがあった。
ティアレーヌの心の底からの微笑みに、フェルバットは唖然と頬を赤くし、その顔に魅入っている。
ティアレーヌは、その微笑みのまま最後の距離を詰め、呆然とするフェルバットの片手を取った。体中が熱かった。今にも泣きだしてしまいそうな程の喜びのまま、片手を持ち上げると頬ずりする。
「いつか、教えて差し上げますけれど……今は、秘密ですわ」
目を閉じ、フェルバットの片手の温度を頬に感じながら、そう言って、さあ、誓約を致しましょう、と。
今の今まで困ったように事の成り行きを見守っていた教皇に微笑を向けた。
フェルバットはハッと我に返り、怒っては、いないのですか、と続けたが、今は秘密ですわ、と悪戯っぽく微笑む――――随分と機嫌の良さそうなティアレーヌの姿に、釈然としないまま――――はたと自分の手がティアレーヌの頬に在る事にまた、真っ赤になった。
ティアレーヌは、そんなフェルバットに手を返し、教皇に向き直ると、誓約の言葉を待つ。
それに倣うように、フェルバットもまた教皇に向き直った。
教皇は軽く咳をし、今度こそ、二人にそれぞれ誓約の言葉を告げてゆく。
誓いの口づけは、ティアレーヌにとって、どのお芝居をした時よりも幸せで、夢のよう。
この瞬間から、ティアレーヌはフェルバットの――――ティアレーヌが心から愛するリュシーの妻となった。
*****
披露宴までの道すがら、車の中でティアレーヌは向かいに座るフェルバットのそっぽを向いた赤い顔を眺めながら、そう言えば、リュシーはティアレーヌが抱きつくと決まって顔を赤くしていた事を思い返す。当時、それが堪らなく嬉しかったことも。
「フェルバット様。……あの時、私の帽子が木の上に引っかかった時。
衣装を顧みず帽子を取って下さって、ありがとうございます」
(それが無ければ、私は、貴方を好きにはならなかったでしょう)
あっけに取られてこちらを見たフェルバットのハシバミ色の眸に、ティアレーヌは嫣然と、喜びに笑みを深めた。フェルバットが話し出す、ああ、あの時のことは、という少し低い声を心地よく感じながら、車の揺れに身を任せている。
秋の始まりの空は美しく、二人の未来を祝福しているようだった。