七.想いは奇跡を運んで
「休憩、終わりだな」
人の気配が近付いてくるのを察し、ティスが立ち上がった。
少年はアガシャーの隣に立ち、羽根飾りの模様のついた短剣を握り締める。
「アーサの休憩場はこの回廊沿いにある。ここから五つ目の、右側にある両開き扉のある部屋だ。今の時間なら、きっとそこにいる」
息を整えたアガシャーも、ティスに続いて腰を上げた。
「邪魔者は?」
「多い。ロンベーヌの大事な糧だからな」
「じゃあ、俺が肉体労働するから、師匠は精神労働頼むぜ」
少年の言葉に頷くと、アガシャーは杖を水平真一文字に突き出し、右手で印を切り出した。
それとともに、消失し始める結界。
ちょうど巡回中だったのか、二人の兵士が回廊の角から現れた。兵士たちは、いつもとは違う気配に気づき、身体を硬直させる。
「無理は禁物だぞ、ティス」
「わかってら。いくぜッ!」
結界消失と同時に、ティスは驚く兵士の頭上に飛び上がった。短剣がティスの手の中でその身を翻し、鎧を切り裂く。
「て、敵襲だあぁぁぁぁーっ!!」
生き残った一人が腰を抜かしつつも、必死でその場から逃げ出した。アガシャーは突き出した錫杖ごしに印を組む。途端に、逃げだそうとした兵士はその場に倒れた。
「殺したのか、師匠?」
「いいや、眠ってもらっただけだ。この兵士自身に、罪はないのだからな」
倒れた兵士の脇を走り抜けつつ、少年は苦笑を浮かべる。
「あいかわらず優しいんだな、師匠は」
「私に出来る戦い方はこれしかないのだから仕方あるまい? ……次が来たようだ」
一つ目の赤銅色の扉を後目に見ながら、ティスは身を沈めた。髪をかすめて大剣が宙を切る。大柄な兵士は的をはずしたことを感触で掴むと、柱に刃を食いこませる前にぴたりと止めて、そのまま返す刀でもう一度獲物を狙った。
アガシャーは思わず声をあげる。
「ティスッ!」
ティスは身体を沈める勢いそのままに、トンッと軽く手を床に触れる。直後、振り子のように勢い良く両足が伸び、振り下ろされる刃を蹴り折った。
少年は身体の捻りを利用して、握り締めた短刀の柄を大柄な兵士の鳩尾にたたきこむ。
矢のような一撃だった。
ティスは男を床にはいつくばらせると、まるで舞い落ちる木の葉のように軽やかに床に降り立った。少年はそのまま、後方で武器を構える兵士たちを真っ赤な瞳で睨みつける。
通路に固まっていた兵士たちは、倒れ伏した屈強な男の姿とティスの真っ赤な瞳を交互に見た後、おどおどしながらティスとアガシャーに道を譲った。力の差をあっさりと認めたのか、それとも真っ赤な瞳の圧力に負けたのか……。
「お前も、本当の敵が誰か、よくわかっているではないか。さっきの兵士といい、今の男といい……ちゃんと、命を奪ってはいないのだから」
アガシャーは肩から力を抜く。ティスはニッと笑って白い歯を見せた。
「俺は『魔』じゃねぇからな。無駄な殺生は、アレ以来一度だってしちゃいねぇんだ。それより……」
ティスは開かれた道の奥を見据えて言葉を止める。
彼らの目指す扉は、既に視界内に納められていた。だが、扉の前には真っ白な軍服の女の姿がある。
それは、忘れようとしても忘れられない、あの女――。
「来たな。ベネクス騎竜戦団第二師団長、シェラ・リグテラムド……」
シェラを睨みつけるティスの瞳が、どす黒い光を帯びた。
女は、憎しみのこもった少年の視線を、さも楽しそうに受け流す。
「ちょっと違うぞ、小僧。今は『ベネクス騎竜戦団副将軍』だ」
「なるほど。ギル・トメルア壊滅の功績から、か」
顎を引いたアガシャーが静かにシェラを見つめた。シェラはアガシャーの姿を認めると、嬉しそうに目を細める。
「そう。そして、今ここでお前の首を取れば、ロンベーヌ様の寵愛は私だけのものになる……」
パチン、と指を鳴らすシェラ。女を中心に風が渦を巻く。
渦を形作った風は、ほどなく竜巻に姿を変えた。
竜巻は、まず通路の脇に固まっていた兵士たちを喰らい始める。その動きには、まるで遠慮が見られない。
シェラは、風に切り刻まれていく兵士たちを見て妖しい笑みを浮かべた。
「ひっ! に、逃げろッ!!」
「巻きこまれるぞッ!」
切り刻まれているのは兵士だけではない。白い石壁も次々に巻き上げられ、建物自体も崩壊し始めている。
これには、さすがにティスも目を丸くした。近付いてくる台風のような風の刃の接近に、彼は懸命に足を踏んばる。
「おいおいッ! 何もかも壊す気かよッ? 無茶苦茶だな、てめぇッ!!」
「ティス、下がれッ!! 巻きこまれるぞッ!!」
「でも、アーサがッッ!!」
ティスは止めるアガシャーの手を振り払い、竜巻を走り抜けようと足を踏み出した。が、足に走った細く鋭い痛みに思わず身を引く。
我に返って見れば、高笑いするシェラの向こうに見えていた石の扉が大きく軋んでいた。風にかすめとられた石片が竜巻の中に大量に混ざり、抵抗を続ける蝶番と錠前に確実にダメージを与えている。
当然、その石つぶてが人間を傷つけずに済むはずはなく、逃げ遅れた兵士たちは、例外無くその身体を血に塗れた肉片へと変えられていった。
「どうした、小僧? お前の大事な姫君は私の後ろの扉の中だぞ。踏みこんで来ないのか?」
ティスは風の刃の届くか届かぬギリギリのラインを保ちつつ、その向こうにアーサがいるはずの扉を悔しそうに、そして心配そうに見つめている。
向こうでも異変を察知したのか、中の人間が騒ぎだして扉をこじ開けようとしているのが、石扉の軋み具合から見ても明らかだった。
もし今、あの鍵が壊れて、中からアーサが顔を出したら。
そう思うと、少年の心は潰れそうになる。
だが、今ここでやみくもに動いて自分も身動きできなくなったら、もう二度とアーサを助けられないだろう。
ティスは飛び出したい衝動を、これまでの人生で覚えている限り、最大級の忍耐力を絞り出して抑えつけた。
そんな少年の様子を、シェラはますます面白がる。
「小僧、この風がそんなに恐ろしいか? だったら、アガシャーにでも頼んで中和してもらったらどうだ? それとも、これでも中和しているつもりなのかな?」
ティスはハッとして振り向いた。肩で大きく息をしている師匠の姿が少年の瞳に映る。アガシャーが集中している気の行く先は、風を繰るシェラではなかった。
「ティス……下がれ」
アーサにばかり気を取られていたティスは、避けていたつもりだった竜巻の圏内にいつのまにか踏みこんでいたのである。彼は慌てて飛びのいた。
ティスが風の脅威に晒されない位置に後退したのを確認したアガシャーは、精神力を使い果たしてその場にドサリと崩れ落ちた。
ティスは、慌ててアガシャーを抱き起こす。
「師匠ッッ!!」
「クククッ……脆弱な老人の分際で、魔軍を仕切るこの私の力を中和しようなどとは、百年早いのだよ」
「てッ……んめぇーッ!!」
ティスの赤い瞳がさらに赤みを増した。
シェラはそんな少年などまるで眼中にないかのように、竜巻を纏ったままゆっくり二人へ近付いてくる。
その時だった。
バァンッッ、と大きな音がシェラの背後で弾ける。飛び散る蝶番、巨大な石の板、顔を覗かせた隷の女たち。そして、その女たちの一番後ろで虚ろに佇む蒼い髪の少女……。
六年前と同じ蒼い髪に、ティスは確信を持って少女の名を呼んだ。
「アーサ……」
そして、それは少年の恐れていた瞬間の到来でもあった。
* * *
赤い筋が宙に伸びる。離れてしまった胴体に、頭部が未練を残した結果なのか。二つ、三つと、筋はあっという間にその数を増やしていった。
「……?」
何が起きたのか分からないのか、視点の定まらないアーサは、ぼーっとしたまま屍と化した女たちに近寄る。
あと一歩――その先は、確実な『死』だった。
何としても、風を止めなければ――アーサを護りたい!
ティスの頭は、それだけしか考えられなくなった。
「おい、シェラ! 風を止めろッ! アーサが巻きこまれるぞッッ! あいつは、ロンベーヌの大事なキャパなんだろ!?」
ティスが叫ぶ。
アーサは今、ロンベーヌの為に生かされている。ならば当然、ロンベーヌの部下であるシェラは、彼女を絶対に護らなければならないはずだ。
彼は、シェラの部下としての意識に賭けたのだ。
だが、妖女は肩越しにアーサを一瞥しただけで、風を止めようとはしない。
「必要無いな……」
氷のような一言。
「この程度で死ぬのであれば、あやつはロンベーヌ様の望む者ではなかった、ということだ。もっとも、小娘ごときがあの方のお眼鏡に叶うことなどあり得ぬがな」
(こいつ……アーサを妬んでやがるッ!)
瞬間、ティスは女の言葉の中に危険を感じとっていた。
氷の表情に隠してはいるが、シェラは今確かに、帝国やロンベーヌの部下としてではなく、女として行動している。
「アーサッッッ!!」
(死なせない――ッ!)
たった一つの想いが、少年の力を呼び覚ました。
獣の咆哮が、少年の咽をつき上がっていく。
……ゥゥゥゥウウウガアァァァアアァァァアーッッッ!!
「何ッ!?」
予想外の強烈な気に、シェラは思わず風を反転させた。直後、何かが風の防護陣を打ち砕く。弾かれた彼女は、もんどりうって床に転がった。
今の今まで、絶対優位を保っていたはず。シェラは何が起こったのか分からず、痛む頭を支えながら周りを見回した。
その目が驚きに見開かれる。
「ば……馬鹿なッ!? 開封の呪句なしに、三眼獣人の力を発現しただとッ!?」
額に開かれた真紅の第三の眼。それは確かに、六年前ティスが現した真実の姿の時に現れたものであった。
三つの紅眼が、座りこんだシェラをじっと見据える。
「三眼獣人ごときが……完全形態ならいざ知らず、不完全な獣人の貴様ごときが、竜の将である私に圧力をかけるなぞッ!」
魔に生み出された故か。ティスの紅の瞳は、シェラにそれまで感じたことがなかったであろう恐怖を映し出していた。
他人の恐怖を糧とすることはあっても、これまで他人から恐怖を与えられたことはないのだろう。知らなかったモノを知ることほど、恐ろしいモノはない。
恐怖を誘う紅の眼の重圧に耐えかねて、シェラは攻撃を放とうとした。だが、それはことごとく失敗する。
覚醒したティスには隙がなかった。
何とか風を繰り出そうと試みるシェラだったが、その動きの全てをティスに察知されるなり、彼の鋭い爪が彼女の身体を傷つけ、床や壁に叩きつけるのだ。だが、さすがに一個師団を率いる女。風繰りが間に合わないと悟るや否や、シェラは細身の剣を抜いてティスに真っ向から切りつけていった。
しかし、ティスは剣を避けるどころか、そのまま身体で受け止める。その瞬間、鋭い刃はティスにかすり傷一つ付けることなく真っ二つに折れて地に落ちた。まるで、硝子棒でも折れ砕けるかのような音を立てて。
「アーサをおとなしく渡せ。そうすれば、命だけは助けてやってもいい」
「ふ……ふざけるなッ!! 我らに造られしモノが、我らに勝てるなどと本気で思っているのかッ!?」
全身に広がる痛みに気を失いそうになりながらも、シェラは気丈にティスを睨みつけた。
ティスはその視線に一旦は眼を合わせたが、シェラがかなり弱っているのを確認すると彼女を無視する。
彼は倒れているアガシャーを担ぐと、茫然と座りこんだままのアーサの元へと歩き出した。
蒼い髪の少女は、喜ぶことも、そして恐れることもなく、ただただ赤い瞳を見つめている。
「アーサ……」
懐かしさのいっぱいこもった声が少女に投げかけられた。
アーサは、側に近寄ったティスを見上げる。
「……テッ……ちゃん?」
虚ろだった蒼い瞳に、かすかに光が宿る。一瞬の喜び。
だが、そのすぐ後にアーサの表情が固くこわばった。瞳から大粒の涙が溢れだして止まらない。
「あ……あ! あたし、あたしッ! ごめん、ごめんッテッちゃんッッ!! あたしがみんな悪いのッ! だから、母さまを殺さないでぇッ!」
少女は頭を振り乱し、両手で顔を覆って嗚咽した。ティスは心臓を掴まれるような切なさに身体を震わせる。
「アーサ……お前……」
「この娘の時間は……六年前のあの日のまま……凍り付いたあの日のままなのだ……」
なんとか意識を取り戻したアガシャーが、ティスの背中で苦しそうに喘ぎながら呟いた。老人は少年の背中を降りると、アーサを優しく抱き抱え、頭を撫でてやる。
ティスは虚ろに呟く。
「アーサは……俺が、おばさんを殺したことで……心が砕けちまったのか?」
「そうとも」
冷やかな声がティスの耳を貫いた。
少年の身体は硬直する。
「お前が殺した。アーサの母親は、お前が喰い殺したのさ」
シェラは、やっと生まれたティスの心の隙を見逃しはしなかった。言葉で、少年の心を侵食していく。
「お前はアーサの母を喰い殺しただけでなく、アーサ自身の心をも喰い殺した。お前は、我ら『魔』と同じだ。人を喰らい、絶望を生む……」
「それは違うッ! あれはおぬしが操った結果ではないかッ! ティス、しっかりせよッ、聞いてはならんッ!」
女の魔力のこもった声から少年を引き戻そうと、アガシャーは必死に叫んだ。
しかし、ティスの瞳は見る見るうちに光を失っていく。
シェラはニヤリとほくそ笑んだ。
「俺は……魔……」
「そう、お前は私の仲間……だから……共に光を滅ぼそう……ロンベーヌ様もお喜びになる……」
「ティスッ!!」
アガシャーはもう一度少年の名を呼ぶ。だが、少年はもうシェラの傀儡だった。
疲れきったアガシャーに、シェラの術を破るだけの気は残されていない。
「今の私にできることは……一つか」
アガシャーは覚悟を決め、少女をしっかり抱き締めた。
何があろうと、少女には傷一つつけさせまいとしているのが、少年に向けた背中から分かる。
その時だった。風が一陣、アーサの周りを渦巻いた。
『また、同じことを繰り返させるつもりなのか……?』
涙の跡の残る顔をアガシャーの胸に埋めていたアーサは、突然心に響いてきた声にピクリと反応する。六年前までほんの時々、耳に届いていた優しい声……。
『母が死んだのは、お前がシェラに操られたためだ。あの少年のせいではない。アーサ、それはお前自身が一番よく分かっているはずだ。それ故に、お前は心を閉ざしてしまった……。だが今度は、お前の大切なあの少年がシェラに操られて、大切なものを失おうとしている。友として、お前はそれをそのまま見過ごして良いのか? 自分と同じ想いを、かけがえの無い友人にさせるのか?』
アーサの瞳に、かすかだが強い光が蘇る。だが、その途端、彼女は激しい頭痛に悲鳴をあげた。
「あ、頭が、頭が痛いぃーッ!」
「これは……アーサの心を、闇が塞いでいる……心が鎖に繋がれている? 何と……何と、酷いことをッ」
苦痛に涙を浮かべるアーサの姿に、アガシャーは苦々しい顔をする。
老人の沈痛な呟きに、シェラは邪悪な笑みを浮かべた。
「人とはすごいものよな。どんなに悲しく、苦しいことがあっても、未来を、そして希望を信じる心がある限り……心に『光』がある限り、いくらでも立ち直る。いくらでも強くなる。だがな、我ら『魔』には、その心の『光』こそが邪魔なのだよ。ならば、その『光』を封じてしまえばいいだけのこと……」
「それが、『精神制御』の真実か! そのせいで、この大陸の人々はその心を……ッ」
アーサが、六年もの間、心が壊れたままだったのは決して彼女自身のせいだけではなかったのだということを、アガシャーは改めて悟る。
「せっかく死ぬのだ。一つくらいは、真実を教えてやらねば可哀想だからな」
勝ち誇ったように、シェラはアガシャーを見下ろした。その眼から笑いが消える。
「……殺れ」
シェラの抑揚のない命令に、心を縛られたティスがアーサとアガシャーに歩み寄り、鈎爪の伸びた手を振り上げる。
少年の手刀に気が収束していくのを見て、アガシャーは息を呑んだ。
再び、風が騒ぐ。
『アーサッ! お前も風を紡ぐものならば、邪悪な風紡ぎを見逃してはならぬッ!』
「この声は……まさかッ!」
強い力の篭ったその声は、その力強さ故か、今度はアーサ以外の人間にも聞こえていた。それに聞き覚えがあるらしく、アガシャーが目を見開く。
だが、彼が声を発するより早く、風はアーサを叱咤した。
『風の娘よ! 目を覚ませ、心の鎖を解き放てッ!! そして、己の護るべきものを思い出すのだッ!!』
「護るべき……ものッ!」
風が蒼い少女をくまなく包みこむ。風は赤に、黄色に、そして蒼に色を変えて、アーサに流れこんだ。
「心の中の暗闇が、消えていく。忘れたいと願った記憶が……戻ってくる……」
アーサは目を閉じ、大きく息を吸う。少女は両手を胸の前にぎゅっと握りしめ、辛い記憶に耐えているようだった。
だがじきに、アーサはくっと顔を上げる。
その顔は、辛い過去の幻影に惑わされていたさっきまでとは明らかに違っていた。
「風は真実を見、時を疾る。真実は真実、私はもう逃げない。円環の闇にはもう負けないッ! 大事なものを護るためにッ!!」
少女の凛とした瞳がティスを見る。風が、少女の心を受けてティスへと流れ始めた。
「テッちゃん……あたしの初めての友達。何も知らないあたしに外のこと教えてくれた大事な友達。……失いたくない……失わせないッ!」
アーサの身体が、光輝く風の粒子にまみれて燦めいた。
瞳の光が強くなる。
『そうだ! 己を風と一つにッ!』
「風……風よ……風よッ! テッちゃんを、彼を本当の彼に戻してーッ!!」
アーサを取り巻く風が白い光を生んだ。
急激に膨れ上がった光は風にのり、虚ろなティスを包みこむ。それは、シェラから流れていた力を一気に断ち切った。
「そ、そんなッ!?」
切断された邪悪な風繰りの余波で、シェラは後方へもんどりうって転げる。
「私の……かつては、トメルア一とうたわれたこの私の風繰りを……またも押し返したというのか!? この娘は、一体何者なのだッ!?」
「人間よ。ただ、普通の人よりも、少しだけ風の声がよく聞こえるだけ……」
風をなだめながら再び姿を現したアーサの顔は、もう、絶望に心を縛られた者のそれではなかった。
「ごめんね、テッちゃん。あたし、もう大丈夫」
「俺こそ、また過ちを繰り返すトコだった。ありがとな」
少女の傍らには、肩を上下させながらもシェラをキッと睨みつけるティスの姿があった。
彼の瞳にも、すでに傀儡の色はない。
「てめえ……どこまでも汚いヤツだなッ! もう絶対に許さねぇぞ!」
「シェラ。おぬしの命運、どうやらここまでらしいぞ。諦めて負けを認めよ」
ティスの肩に手を置いて、アガシャーもボロボロの女を哀れそうに見た。必死で周りを見回すシェラだが、さっきの彼女の竜巻のせいで、兵士は誰も生き残っていない。
シェラのこめかみから大粒の汗が湧き出し、普段よりいっそう白さを増した首をつたって次々に流れ落ちた。
「誰が……誰が認めるものか……。叛徒などに負けたなど……認められるものかッ! ロンベーヌ様のお側にずっといるためには、絶対に認められんのだッ!!」
シェラは視線を宙に、そして地に泳がせる。その動きがピタリと止まった。追い詰められたはずの女の口元から、すきま風のような笑い声が漏れ始める。
低く、そして長く含み笑いを続けるシェラに、ティスとアガシャーは怪訝な顔をしながら身構えた。
「……狂っちまったのか、こいつ?」
「違うぞ、小僧……。やはり、風の流れは我を選んでいるらしいな……」
ゆらり、とシェラが立ち上がる。その手がかすかに動いたように見えた直後、シェラは右手の中に鈍く輝く金属を握り締めていた。それが何であるのか、三人はすぐに理解する。
それは、この農場一帯に無数に打ちこまれている、白い面を刻んだ鉄の剣のような、あのくさび……。
(ヤバイッ!!)
獣の直感が、ティスの頭をかすめた。少年はとっさにアーサとアガシャーを抱えて横に飛ぶ。
痛いほどの耳鳴りが走った。間を置かずして大量の土ぼこりと瓦礫が、引き波のように宙に舞い飛ぶ。
風のエネルギーを受けて凶器と化したつぶてが、まだ着地していなかったティスの背中を容赦なく襲った。
「ぐあぁぁぁぁッ!」
「テッちゃん!!」
無防備な背中に受けた痛みに、少年はたまらず倒れ伏す。
少年を盾にした格好になったアーサが、悲鳴まじりの声をあげた。
「俺はいい。それより……師匠は!?」
傷は負ったものの、獣人の力故かティスはまだ動けそうだった。アーサは少年の言葉に従い、一緒に吹き飛ばされたアガシャーの姿を捜す。
シェラの姿は土煙の向こうに隠されているらしく、彼女がどうなったのかは見えない。ただ、時折、土煙に混ざって禍々しい黒い稲光が見え隠れしているのが、少年には無性に気掛かりだった。
床は相次ぐ風の脅威に耐えかねたのか、シェラの姿が確認できなくなってからずっと小さな震動を繰り返している。
ほどなくアーサは、雪に埋もれたようなアガシャーの姿を部屋の隅に見つけた。
「アガシャー様!!」
二人は慌てて、横たわる老人の元へ駆け寄る。ティスはアガシャーのかすかな鼓動を確認して胸をなでおろした。
「よかった。生きてる」
安心したのも束の間、アーサとティスの耳にザラザラした感じの、二重に響くような嫌な声が響いてきた。
『まダ……息がアるカ……運のイいヤつめ……』
「何だよ、この声?」
「まさか……シェラ?」
声と共に、地面から急激に膨れ上がってきた巨大で邪悪な気に、アーサとティスは思わず身震いした。
『そノ、まサかダよ。風ノ娘……』
黒いもやが餌を求める触手のように勢い良く広がる。その奥に姿を現したのは、アーサの言葉通りシェラであった。
だが、様子がおかしい。
先程までボロボロだったはずのシェラの身体と軍服は、すっかりきれいに治っていた。蒼かった瞳と髪は、どす黒い血の色に染まっている。まるで、電気をいっぱいに蓄えた雷雲のように、彼女の身体のあちらこちらから青白い雷光が小さく弾けては消えていた。
『く……クくク……。こレだ、コの力コそ、私ガ望んデいタもノだッ!』
雷光が肘から指先に螺旋を描いて走るのを見ながら、シェラは狂気に満ちた笑みを浮かべる。しかし、その笑みとは裏腹に、肩幅に開いて硬直した両足は大量の雷光に塗れて、今にも砕けてしまいそうだった。
「……一体……何が起きたの?」
邪気に溢れたシェラを見つめるアーサとティスの耳に、再び風の声が響く。
『ヤツは、巨大な『魔』の力を身体に降ろしたのだ。太古の昔、このアトナルディアに封じこまれた『魔』の四天王がリーダー……魔星王ガーディスの力を!』
「ガーディスッ!?」
アーサは、ハッとしてもう一度シェラをよく見た。女の身体は全身くまなくどす黒い邪気を発している。
だが、その頭頂部だけは気の流れが逆になっていた。
ティスもその事に気づいたらしく、気の流れの源を目で追っている。
邪気の源は、農場のあちらこちらに無数に埋めこまれた白い面のくさび――そう、シェラが土煙の向こうに消える直前に持っていた其れと同じものだった。
「自分よりデカい力限界域を持ってるヤツから力を引き出して、降ろしてるってのか?」
「間違いないわ、テッちゃん。あの人の頭へ向かって、邪悪な力が流れてる」
「でも、自分の限界を越えた力を駆使するなんて、自殺行為だぜッ! 持つワケねぇよッ!!」
常識を越えたシェラの行動にティスが困惑する。血色に染まった女は、そんな少年を嘲笑った。
『確かニ……普通なラば、ナ。だガ、私は違ウ! ろンべーヌ様ニ選ばレたノだカらッ!』
シェラは両手を振り上げ、釣竿のように身体をしならせる。反動で撃ち出された巨大な邪気の塊は、あっという間に、無数の拡散弾となってアーサとティスに襲いかかった。
「何が選ばれた、だッ!! こんなモン……」
ティスはとっさにアーサの前に立つと、目一杯伸ばした両の手のひらを水平に勢い良く開く。
その軌道に合わせて展開した光の壁に、拡散弾の初撃がぶち当たった。ティスは余裕の笑みを浮かべる。さっきまでのシェラの様子からすれば、これで十分なはずだった。
(仮に、もっと巨大な力をあいつが身に受けてたとしたって、発揮するにはその何倍もの労力が要するはず……。もう限度を超えてるシェラに、そこまでの力が残ってるはずはねぇ)
だが、光の壁は拡散弾の初撃だけで相殺され、消滅する。
「なッ? んな馬鹿なッ!」
少年の顔が一気にこわばった。次の瞬間、ティスの身体を邪気のつぶてが襲う。身体をよじる間もなく、つっ立ったままの少年は残り全ての拡散弾の餌食となった。
錐のように鋭い邪気が、細い針のような穴を少年の全身に均等間隔で開けていく。頬が、腕が、腹が、足が……身体のあちらこちらが、一斉に血しぶきを吹き上げた。
シェラの高笑いとティスの倒れる音が重なって、アーサの耳に戦慄すべき二重奏を届けた。
少女は、真っ青な顔で少年を抱き起こす。
「……大……丈夫か……アー……サ?」
「あたしは大丈夫! 大丈夫よ。テッちゃんが前に立って護ってくれたから!」
アーサの目に大粒の涙が溢れる。ティスは喘ぎながら少女の涙を血まみれの人指し指で軽く拭ってやった。代わりに、血の跡が隅のようにアーサの目の下を彩る。
「心配……いらねぇ……よ、ちっとばかし……血が出て……力が……抜けただけ……だから。こんなくらいじゃ……死にゃしない……って」
ティスは元気な笑顔を浮かべた。そのまま、アーサの後ろのアガシャーの無事も確認してホッと息をつく。彼自身も、見た目ほどにはダメージを受けずにすんだらしい。
「これも……獣人化の影響なのかな……?」
『なルほド……回復も早イとイうワけカ。なラば、一気ニかタをツけレば良イわケだナ?』
どす黒い血色の瞳をネコのように細めながら、シェラはティスとアーサを見下ろした。アーサは傷だらけのティスをしっかり抱き締め、シェラを睨み返す。
シェラはそんな少女を嘲笑うかのように、彼女の髪を掴んで引き上げた。
「は、離してッ!」
『くクく……ソんナ目で睨ンでモ、何も恐ロしクはナいゾ、風の娘ヨ。今の私ニは、タとエろンべーヌ様でアっテも傷一ツつケらレぬヨ』
「やめろッ! アーサを離せッ!!」
必死にあがくアーサと、彼女を助けようと足元に絡みついてくるティスを、シェラは一緒に投げ飛ばす。
少年は、とっさに身体をねじってアーサと壁の間に上半身をねじこんだ。そのまますごい勢いで壁に激突する二人。
悲鳴と破壊音が大きく響く。
「アーサ……」
「大丈夫。それより、テッちゃんのほうがッ!!」
もうもうとあがる土煙の中で、ティスは微かに残った意識でアーサの無事を確認した。自分を揺さぶるアーサの姿にティスは笑みを浮かべる。だが、彼の傷は先程の拡散弾によるものにさらに加算された形になったため、今度は「大丈夫」とはとても言えない状態になっていた。
白い土煙の向こうでは、アガシャーを前にシェラが立ち尽くしている。
彼女の身体から弾ける雷光が、先程までとは比べ物にならないほど激しく弾けては消えていた。それに伴ってシェラの皮膚が徐々に崩れていく。まるで、古くなった家から土壁が剥がれ落ちる様をみているようだった。
「風が怯えてる! あの人、『力』が制御できなくなり始めてるんだッ! 抑え切れない力が風に溢れてきてるッ!! どうしよう。このままあの人が崩れたら、風が代わりに邪気に満たされちゃうッッ!!」
アーサが風の震えをティスに告げる。ティスは必死に頭を働かせた。何とかしなくちゃ……。だが、焦るばかりで血の減った頭はなかなか上手く働いてくれない。
ティスとアーサが思い悩むのをよそに、シェラは動きが一気に悪くなってきた自分の身体に舌打ちしていた。
『……くッ! かナり身体ガ壊れテきタな……ヤはリ、生身でハ限界がアるカ……。やムを得ン。とッとトけリをツけテ、べル・がルさーの身体ヲいタだクこトにスるカ……』
小さな、ほんの小さな呟きだった。だが、それがティスの頭に一つの考えを閃かせる。
「アーサ! 俺の開封の呪文、覚えてるか?」
「えッ!?」
突然の信じられない問いに、アーサは大きく戸惑った。ティスは、真剣な眼差しで少女を見つめる。
「どうなんだ? 大事なことなんだ。覚えてるのか、いないのか?」
「……忘れるはず、ない」
アーサは視線を地に落として答えた。
ティスは、ゆっくりと身体を起こす。
「アーサ……俺に、開封の呪文を唱えてくれ……」
「えぇッ!? いやよ、そんなのッ! 第一、アレ言ったら絶交だって、テッちゃん前に言ったじゃないッッ!」
ティスの予期せぬ言葉に、アーサは頭を激しく横に振って拒絶した。ティスは、アーサの肩をしっかり掴んでまっすぐ彼女を見る。
「絶交は撤回だ。……あいつ、俺が自力で三つめの目を開けた時、『完全体ならいざ知らず』って言ったんだ。それは、俺の完全体は、あいつら魔にも劣らないってことじゃないかってのは薄々勘づいてた。でも、それに確信を持たせてくれたのは、今のヤツの言葉さ」
ティスは、シェラにちらりと視線を移した。
「アイツ、俺の身体なら今の『力』に耐えられるって言ってる。つまりそれは、俺の力はヤツと同等かそれ以上ってことじゃないかと思うんだ。もしかしたら、俺の身体は、本来はガーディスの器にするはずだったのかもしれない……」
「でも、獣になったら、テッちゃん、意識がなくなっちゃうじゃないッ! それに、もしうまくあの人倒しても、あたし、テッちゃんの戻し方知らないのよッッ!!」
ほとんど悲鳴に近いアーサの拒絶。だが、ティスはきっぱりと言い切った。
「意識は絶対無くさないッ! 俺、今度は決めたんだ。絶対にアーサを護ってみせるってッ!! だから、頼むッ! 開封の呪文、唱えてくれ。師匠を護るため、風を護るため、そして、俺がお前を護れるようになるためにッッ!!」
強い意志の光。ティスの目は今、まさにその光に満ち満ちていた。
アーサはその光に押されたのか、思わず首を縦に振る。
「……今回は、あたしもテッちゃんも操られてるわけじゃないものね。わかった。あたし、テッちゃんを信じる! だからテッちゃんも、絶対に自分に負けないって約束してッ!」
「おうッ!」
「約束破ったら、ゲンコツだからねッ!!」
「わかったよ」
念を押すアーサに苦笑しながら、ティスは背筋を伸ばして真っ直ぐ立った。
そんなティスに、シェラは視線を合わせる。彼女の両手には、邪気の塊がそれぞれ収束しつつあった。
『どウしタ、小僧? おトなシく殺ラれル用意か?』
「んな訳、ねぇだろ。――アーサッ!!」
ティスの声にアーサは頷き、六年前にただ一度しか唱えたことのない言葉を紡ぎ出した。
「約束、忘れないでねテッちゃん! ……ナドル・ティエ・ヘス……『ティス・カ・ポリトカ』ッッ!」
『何ッ!?』
シェラの顔が驚きと恐怖に歪んだ。
そして……光と闇が入り混じって広がっていく。
* * *
るがあぁぁぁぁぁぁぁあああぁぁぁーッッ!!
獣の雄叫びが轟いた。光と闇の渦から現れた水色の毛並みの豹に、シェラは収束途中だった邪気を投げつける。
だが、邪気の塊は豹の首振り一つであっけなく霧散した。
シェラは、ガクガクと顎を鳴らす。
『な……何故ダ? 完全体でハ意識制御でキまイ? 元へ戻ス方法も知ルまイが? ナのニ、何故、そコまデしテ、私に……魔ニ抗う?』
「……それは……オレが、人間だから……ダ! 人間の力を……ナメんなよ」
絞り出すようなティスの声に、シェラは信じられないといった様子で首を大きく振った。
『意識を保ッてイるッ!? そンな馬鹿ナ、馬鹿な、馬鹿ナあァぁァっ!』
シェラは反狂乱になって、小さな邪気の塊を無数にティスに向かって放つ。だが、水色の豹はその全てを蹴散らしながら疾風のように妖女へと迫った。
「無駄だッ! 邪神の化身として生み出されたオレに、同じ力が通じるものカッ!」
豹の真っ赤な三つの瞳が輝きを放つ。
『寄るナあアぁァぁァッ!!』
瞬間、シェラの腕が胸の前で集めた邪気を巨大な塊に変えた。それまでのモノとは比べ物にならない大きさの邪気の塊である。
『うォおォおオぉォぉォぉォぉッっッっーーッ!!』
「もう二度と、てめぇらなんかにゃあ、大事なモノを渡しゃあしねぇッ!」
暗紫色の邪気塊が撃ち出されるのと、ティスがシェラに飛びかかるのはまったく同時だった。
アーサは息を呑む。
――一瞬の静寂。風が止まった。
豹と化したティスは、ゆっくりと身体を起こす。
『ロ……ろンべーヌ……さ……ま……』
シェラの顔と右腕が天を仰いだ。
と、その時。シェラの腕の先に黒雲が渦巻く。
黒雲はそのまま、外套をなびかせるたくましい男の姿を形取った。
右手の死神の鎌。先が二つに別れた真っ赤な舌。そして、金色に冷たく光る細い目……。それは間違いなく、シェラが今、その名を呼んだ男であった。
シェラの顔に安らぎが満ちる。
だが、ロンベーヌは女を冷やかに見下ろしただけだ。
「……愚か者めがッ!」
男の一言が、シェラを地獄へと突き落とした。シェラは必死になって宙に浮かぶロンベーヌへと手を伸ばす。
『ろ……ロんベー……ぬサ……まァ……』
「大事な我が力を浪費しおって。所詮、貴様も『女』でしかなかったか」
ロンベーヌは真っ赤な舌をチロリと動かした。金色の目が大きくなり、強い輝きを放つ。
『ロ……ッ!?』
シェラのどす黒く染まった瞳がめいっぱい見開かれた。その目から一筋、光るモノが落ちる。
「……消えろ」
ロンベーヌの容赦の無い言葉が力を帯び、シェラに降り注いだ。次の瞬間、シェラの身体は石化し、そのまま砂と化して風に運ばれていった。
突然の出来事に、ティスとアーサはしばし茫然とする。
初めて二人の前に現れた蛇のような目と舌を持つ男は、宙に浮かんだまま悠然と見下ろした。
「三眼獣人、そして風の娘よ。お初にお目にかかる。我が名はロンベーヌ。ベネクス騎竜戦団の長。そして……純粋なる『魔』だ」
「魔!? 本物の!?」
アーサとティスが驚きに目を見張る。
ロンベーヌは余裕の表情で深々と一礼をした後、何喰わぬ顔で辺りを見回した。
「シェラは先走りしおったが、面白い状況を残してくれたわ」
ロンベーヌの目が細くなる。ティスはためらうことなく横へ跳んだ。直後、ティスがそれまでいた大地が大きくえぐられ、見る間に闇にむさぼり喰われていった。
思わず、見震いするティス。
それを見て、ロンベーヌはさも面白そうに笑った。
「くははははははッ! さすがは獣よ。我が微なる殺気を察するとは。だが、次は外さぬ。……ガーディス様の器であるお前ならばわかるであろう? 今、この地にはシェラが無理やり引き出した御方の力が……『邪気』が充満しきっている。つまり、我ら純粋な『魔』にとっては、この上なくご機嫌な環境なのだということが」
「だからって、なんでオレを狙ウ?」
ティスは毛を逆立ててロンベーヌを睨む。ロンベーヌはすうっと目を細め、妖しい笑みを口元に浮かべた。
「決っておるわ。このまま放っておけば、御方の莫大な力は『器』であるお前に皆、流れこんでしまうからな……。お前を殺せば、行き場を失った力は息子であるこの私に流れこんでくるはずだ。この力は私のもの……誰にも渡しはせんッ!」
ロンベーヌの右手が、黒い闇に包まれる。
その手はみるみる内に茶褐色の鱗に覆われていった。たくましい男の身体は音もなく歪んで骨張り、背中からは真っ黒なコウモリに良く似た巨大な翼が広がる。冠だったモノは頭と一体化し、白い毛が逆だった。
それはまるで、ハノーティン竜と蛇を人間に足したような、醜くも邪悪な姿……。
ロンベーヌは、真っ赤な舌をチロチロと動かした。その金色の瞳が輝きを増す。
「なッ!? 動けないッ!!」
途端に、ティスの動きが止まった。必死にもがくが、まるで手足が地面に縫いつけられたように動かない。
ロンベーヌはティスが動けなくなったのを確認すると、アーサの目の前に降りたった。再び、金色の目が輝く。
アーサは声を発することもなく硬直した。少女の蒼い目が見開かれ、こめかみから脂汗が流れては落ちる。
「だが、その前に風の娘を喰らうとしよう。このままでは、我も力限界域が足りんからなぁ……」
ロンベーヌの二つに割れた舌が、動けぬアーサの顔を舐め上げた。
「い……や……」
かすかな震えが、アーサが何とかこの場を逃げようと抵抗していることを示す。
だが、ロンベーヌはそんなかすかな抵抗など気にも止めずに少女の細い顎に手を伸ばした。
ロンベーヌの口唇が、アーサのそれに迫る。
「い……いやぁッ! テッちゃんッッ!!」
「アーーサァァァーーッ!」
少女の悲鳴に、水色の豹が吠えた。途端に、大気に何かが弾ける。水色の毛並みに向かって、光と闇の雲が竜巻のように渦を巻き始めた。風は逆流し、渦を描く雲の中心に向かって次々と吸いこまれていく。
『うがあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーッ!!』
「……ええい、うるさい獣めがッ!」
せっかくの雰囲気を壊され、ロンベーヌは思いきり不機嫌な顔になった。アーサから手を離し、吠えるティスに向き直る。
ロンベーヌの瞳から解放され、アーサはティスに駆け寄った。だが、近寄ろうとしたアーサは、渦の雲から突然湧いた青白い雷光に勢い良く弾き飛ばされる。
「テッちゃん?」
当のティスは豹の姿のまま、渦の中心で苦しんでいた。
稲光は、次から次へとその数を増やしている。
『う……うがあぁぁぁぁぁぁーッ!!』
「テッちゃんッ! どうしたの、しっかりしてぇッ!?」
ティスの苦悶の叫びに、アーサは半泣きになって少年を呼んだ。
「誰か、誰か教えてッ! テッちゃんはどうしたのッ!? 何が起きてるの?」
アーサは周りを見回したが、アガシャーは未だ気を失ったままだ。彼女がおろおろする間に、苦しみに歪んだティスの赤い瞳がどす黒い光に染まっていく。
『……ロンベーヌが言ったとおりだ。宿主を失ったガーディスの『力』が、本来の器である少年の完全体にその矛先を変えたのだ』
風に乗って何度も響いていた誰かの声が、再びアーサの鼓膜を震わせた。
「それは、私の力だッ! よこせぇぇッッ!!」
力を宿し始めたティスに、ロンベーヌは慌てて近寄る。巨大な鎌がティスの首目がけて勢い良く水平に繰り出された。
だが、鎌は少年に届くこともなく、闇の雲によって粉々に粉砕される。
「なッ!? そんな馬鹿なッ!? まだ、ガーディス様の力は辺りに充満していただけだったはずッ!」
玉の汗がロンベーヌの額から吹き出した。焦りからか、大して気を貯めることもなく真っ黒な邪気を撃ち出す。
しかし、その全てがティスを取り巻く紫電を帯びた雲に吸収されていった。
「く、くそ……同じ魔気相手では、直接的なダメージにはならんッ! おのれ、……それならば……」
直接攻撃の無意味さを悟ったロンベーヌは、金色の瞳を大きく見開いた。金色の輝きが、それまでの何倍にも増す。
「どうだ。これで動けまいッ! くっくっくっ……この我が瞳の魔力に叶うものなど、ガーディスとジャネル以外にはおらぬッ! さあ、獣よ。雲を外し、己で己を殺せッ! そして、ガーディスの力を我にッ! その時こそ、我が魔を、そして、この世界を統べる覇者となる時だッ!!」
ロンベーヌは、勝ち誇ったように獣のティスに命じる。
ところが、いくら待ってもティスには何の変化も現れなかった。それどころか、ロンベーヌを馬鹿にするかのように、ふいっとそっぽを向くではないか。
「な……にぃ?」
ロンベーヌは困惑の色を浮かべた。その手がブルブルと震える。ティスのどす黒く染まった瞳が、ギョロッとロンベーヌを睨んだ。
『……うざったいな……』
低く、地をこすって這うような腹に響く声が轟く。
ロンベーヌは思わず身震いした。
「ま……まさか……ガーディス……さま……?」
あっという間に、ロンベーヌの顔から血の気が引いた。
足がガクガクと音を立てて震え、その身体からは吸い出されているかのように邪気が薄れていった。
「シェラを、一睨みで消し去ったほどの男が……恐怖におののいている……」
アーサは、ロンベーヌとどす黒く染まったティスを交互に見ながら呟いた。
ガーディスと呼ばれたティスは、逃げ腰になったロンベーヌを四つの足ですかさず押し倒した。どす黒い瞳の中の血色の瞳孔が、猫の目のように縦に細くなる。
『美味そうだな、お前。余を超える? くくく……なんとも矮小な欲望ダ。だが、超えるのは無理だナァ。並ぶのが精一杯だろうて……余の復活の糧となって、ナ』
妖しい笑みが、ティス=ガーディスの口元に浮かんだ。
だが、嘲笑されているにも関わらず、ロンベーヌは怒るどころかますます青ざめていく。
「お……お許しを……母上。ご、ご、誤解でございます……。わ、私は……御方様のために、復活の手助けをしようと……。そ、それだけ、本当にそれだけでございますッ! だ、だから、喰うのだけはご勘弁を! ね? 母上……」
『母……?』
ティス=ガーディスの爪におもむろに力がこめられた。
ロンベーヌの鱗に覆われた身体のあちこちから、緑色の血が勢い良く吹き出す。
「ぎゃあああーッ! い、痛い、痛い痛あいいぃぃぃぃぃッ!」
『お前……余のカスの一つカ? お前のようなヤツが、余から生まれていたのカ? 余が生み出したのはジャネルばかりだと思っておったのだが……そうか、ふぅむ余の……ならば、喰っても問題ないナ』
ガーディスの爪はロンベーヌの肉体に食いこんだまま、上下に動いた。広げられた傷口から緑の血と共に黒い闇が吹き出す。ガーディスは、その闇を血と共に旨そうにすすった。
『余の預かり知らぬところでいろいろ喰らっているようだなぁ、ロンベーヌ? お前の血と苦痛は極上の味がするゾ』
「は、母上ぇ~ッ! お、お助け、お助けをおぉぉぉ~ッ!! いやだ~、まだ死にたくない、死にたくないんだよおぉ!」
魔気をあっというまに吸い上げられ、ロンベーヌは情けない声で泣きわめいた。
その顔には、さっきまでの自信も邪悪さも欠片さえない。
「どうか、命ばかりは……命ばかりは、母上! 何でもします、お力が不足だとおっしゃるなら……ホラ、そこの風の娘と貴方様の封を守るじじいの方が、私などよりよほど美味いはず! な、なんでしたら、私がヤツラを殺して……」
必死で命乞いするロンベーヌ。その指が、アーサとアガシャーを震えながら指し示す。
その身体は、引き締められた無駄のない身体から、生気を失った骸骨のような有り様へと変わり果てていた。
ガーディスは、チラリとアーサたちを見た。
『……ふむ』
「ね? 美味しそうでございましょ? ホントは私が喰らおうと思っておったのですが、母上ならばお譲りいたしますよ。だから……今日のところは、これでご勘弁いただけませんかねぇ……?」
ロンベーヌは腰を低く折ると、じっと少女と老人を見つめるガーディスに向かって、まるで商人のように手を摺り合わせた。その様は、とても最強の軍隊を統べる将の姿には見えない。ヨボヨボにやせ細った男は、ガタガタ震えながらまた涙をにじませた。
ガーディスは鼻水をすすり、卑屈な姿勢を取るロンベーヌの姿にニヤリッと笑う。
『……どうせ、余から生まれた身体なのだろうガ。そら、もっと泣け、わめケ』
「ひっ……」
ロンベーヌの涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔が、白く固まった。
直後、ガーディスの鋭い牙がロンベーヌの頭を喰い千切る。
破れた水風船のようにロンベーヌの頭と身体の切口から緑の血が飛び出し、辺りを緑に染めてその流れを消失した。
魔星王は、そのままロンベーヌの首をはぐはぐと食い尽くす。
「ひ、ひぎゃあああ……ぁぁ……」
血と魔気を失ったロンベーヌの細い身体は、そのまま土に融けるかのように萎み、砂と化して消えた。
残ったのは、喰い散らかされた血みどろのカスと、黒く汚れた緑の血の海のみ。
「――ッ!!」
醜悪な共食いを目のあたりにして激しい嘔吐感に襲われたのか、アーサは目を反らし、口に手を当ててしゃがみこんでいる。
ガーディスは、そんなアーサなど気にも止めず、辺りに飛び散った肉片からもしつこく魔気を吸収し続けていた。
風の声が、もう一度アーサにささやく。
『今、ヤツは己の完全復活のために、辺りに満ちた気を取りこむことに必死だ。今ならば、ヤツを封じられるかもしれない。いや、封じねば……次の獲物は、アーサ、お前だ』
「そんなッ! でも、どうしたらいいのッ? 封印なんて、あたし、どうすればッ!!」
アーサは頭を左右に激しく振った。彼女の悲鳴にも似た声に、一瞬ガーディスが硬直する。
固まった豹の身体から、乗っ取られていたはずのティスの声が、苦しげに響いた。
「……アーサ……俺を……殺すんダ」
どす黒い瞳に、かすかに赤い光が戻った。懇願するその目に、アーサは再び衝撃を受ける。
「いやッ!!」
「このままじゃ、俺が今度は魔王になっちまウ! 俺はお前を護るって決めたんだッ! 頼むアーサ、俺にお前を殺させないでくれッ!!」
ティスは再び苦痛に身を伏せる。
『……お……のれぇ。器が……器に選ばれし男の複製体に過ぎぬ者が……余の制御に抗うのかッ!?』
どす黒い光が、ティスの瞳の中で右往左往していた。
ティスは全身に力をこめ、何度も身体を刺すガーディスの青白い雷光に耐えている。
「せめて……お前の風紡ぎデ……オレにとどめヲ」
瞬間、アーサの平手打ちがティスに飛んだ。目をパチクリさせるティス。
「いやだって言ってるでしょ。そんなことしなくったって、きっと他に方法はあるわ。テッちゃんがあたしを護ってくれるって言ったのと同じように、あたしだってもう誰も死なせないッ! だから、テッちゃんも最後まで諦めちゃだめ、ね?」
――初めてのアーサの叱咤。ティスは一瞬呆けたものの、嬉しそうに目を細めた。
「そうだナ。……まだ、諦めるには早いよナ……」
「そうだよ」
アーサは獣姿の友人の言葉に頷くと、立ち上がって空を仰ぐ。
「誰かは知らない。でも、風と共に、あたしにいつも声をかけてくれる人。あたしの声が聞こえるなら、答えてほしいッ! あたし、テッちゃんを助けたいのッ! だからお願い、力を貸してーッ!!」
ふいに、アーサの身体の周りを光燦めく風が巻き、天へと立ち昇った。渦巻く風に乗って、アーサが浮かび上がる。その身体は徐々に光を放ち始めた。
まるで、風と融け合う精霊のように美しく……。
『誰かを護りたい。その願いは、光の源の一つだ。風の娘よ、その想い……それを忘れぬ限り、お前の願いは、風が必ず叶えてみせよう』
光に呼応して、声が大きくなった。
アーサの心が力を与えたのだろうか。声の主はその姿を初めて風の幕へと映し出す。
ティスによく似た薄水色の長い髪の男性がそこにはいた。
透き通った蒼い瞳が、アーサにそっくりだ。
アーサは、その男性におそるおそる手を伸ばした。男を映す風の紗幕に手が触れて、かすかな波紋が生まれる。
『アーサ……我が娘よ……。忘れるな。私はいつも、風と共にお前を見守っている……』
「父様ッ!?」
アーサを娘と呼んだ男は、風と共にアーサの中に交わり、消えた。
蒼い少女は、そっと目を閉じて天を仰ぐ。その顔は、安らぎに満ちていた。
「風よ……教えて。私に真実の言葉を……」
風が、アーサの声に合わせるように流れ、白い手に紡がれていく。
だがその時、ティスは断末魔の悲鳴を上げた。
とうとう身体を蝕む邪気に耐えられなくなったのだ。途端に、その毛並みがどす黒く染まる。
魔に屈したティスは、宙に舞う目触りな光を見上げた。
『手間をかけおって……。そうか、『光』がおったのか……。不愉快だッ!』
一声吠えると、彼はそのままアーサに向かって明紫色の邪気弾を撃ち出す。
しかし、白光と融け合ったアーサに、邪気は近寄ることさえできなかった。彼女を取り巻く澄んだ風が邪気を捉え、うち消していく。蒼い少女は、キッとティス……いや、ティスに憑依した者を見据えた。
「お前はまだ、外に出てくる時じゃないッ! おとなしく封に還れ、ガーディス!」
アーサの物言いがさらに勘に触ったのか。ティス=ガーディスの目が鋭くなる。
『……死ねッ!』
氷のような呟きを放ち、ガーディスはあっという間にアーサと同じ高さに飛び上がった。すぐさま、邪気の青白い雷を全身から放つ! だが、風の壁の向こうのアーサは目を閉じ、風紡ぎを再開してガーディスを無視していた。
ガーディスはますます怒り狂う。
『おのれ~ッ、我がまだ完全に復活していないから相手にならぬというのかッ!? ならば、これで……どうだッ!』
魔星王は、全身を大きくしならせた。
さらに大量の雷が獣の身体から放たれ、雷はさらに枝別れして天を、そして地を大雨のように激しく撃つ。
アーサはその雷撃の中、ゆっくりと目をあけた。風を紡いでいた手が、それまでと違う弧を描く。それは、初めて紡いだ風紡ぎと同じ動き……。
「!! かまいたちかッ!?」
一瞬、ガーディスが怯んだ。
その瞬間を、アーサは見逃さない。
「ティエ・ヴィス・ヘス(魔に繋がれし者よ)! ファル・ラー・リィス、アン・ファ・ガー・ディエル(真実の光と闇の元に)……ガ・カオス・ラーンッ(その魔気を絶てッ)!」
「封印句ではなく、『解放句』だとッッ!? 馬鹿な、その句はとうに古き戦いで失われたはずの言葉ではないか!? どうやってそれを……ッ」
蒼の少女の言葉に、魔星王の目が見開かれた。
アーサの両手が、くんっと風を繰る。
力ある最後の言葉が、少女の口を離れた。
「――『ティス・カ・ポリトカ』ッ!!」
『おのれぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッッッ!!』
燦めく風に捕らわれ、ガーディスから断末魔の唸り声が上がる。どす黒い豹の身体に風の刃が幾つも襲いかかった。
だが、風の刃はティスの身体を傷つけることなく、邪気だけをきれいに打ち消していく。
アーサの髪が、風になびいて蒼光を放った。
「ガーディス、元の場所に――去れッ!」
『うぉああぁぁぁぁぁぁーッ!!』
ティスの身体から、二本の大きな山羊のような角を持つ影が光に追われて飛び出し、大地へと落ちる。
同時に、農場に打ちこまれていた全てのくさびが、砕けて燐光へと変わった。
燐光はそのまま、空へ昇っていく。まるで、怨霊から解き放たれた魂のように、ゆっくりと、穏やかに……。