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六.未来なき『農場』

 湿り気のまるでない風が吹き抜ける。

 深緑の森の真っ只中に、まるでそこだけ何かに呪われているかのように、町一つ分ほどの大きさの砂漠があった。

 その砂漠のちょうど中央に、自然にできたものとは明らかに違う岩場がせり上がっている。それは、人々が『農場』と呼ぶ、アトナルディアの古い遺跡であった。

 その中では、日に焼け、やせ細った大勢の人間が忙しく動き続けていた。

 中でも、白い面のついたくさびを規則正しく打ちこむ人々は皆、やつれた顔をしている。まるで、一つ打ちこむごとにくさびに魂を吸われているかのように、彼らはみるみるうちに青ざめていくのだ。当然、年老いた者などは次々に倒れていった。

 だが、倒れても彼らは作業をやめない。やめれば、見張りの兵士に鞭を打たれるのが分かっているからなのだろう。

 彼らが作業を止められるのは、闇に支配される夜と、死んだその時だけ――。

「……『アトナルディアで一番地獄に近い場所』……か」

 ごつごつとした岩影に隠れ、遺跡の作業の様子をそっと見つめながら、アガシャーは呟いた。

「あれから、六年か」

 あちこちすすけていた白衣は、さらに砂で汚れている。

 顔に刻まれた深い皺は、過ぎ去った歳月を現すかのようにさらにその数を増していた。

 骨張った指が岩を掴むように置かれる。アガシャーの顔が、嫌悪感に歪んだ。

「叛徒として捕らえられた人々が、『農場』と呼ばれる遺跡発掘現場で強制労働に就かされているという噂は聞いていたが、この澱んだ大気は……何なのだ? この邪気では、ここで働かされる者に事故死が絶えないという噂も事実かもしれん……」

 アガシャーは、もう一度『農場』を見渡した。

 その視界の中で、男が一人倒れた。その男は死んだらしく、兵士に乱暴に運び出されていく。

 老人の目が心配そうに細くなった。

「アーサ。本当に、お前は無事なのか……?」

「そこにいるのは、誰だきゃッ!?」

 はっとするアガシャー。振り返ると、岩影の向こうから警備兵らしき男が近寄って来るのが見える。よたよたと、がにまたで近寄ってくるその中年の兵士は、いかにも地方から駆り出された出稼ぎの田舎者という感じであった。

「おめぇは……指名手配中のアガシャーッ!?」

 アガシャーは、槍を向ける背の小さな小太りの兵士に困っ

たような顔を向けた。

「皇帝陛下と同じ名前を名乗るなんて、恐れを知らぬ謀反人だぎゃッ! ……しかも、顔までよく似せちょるし……。手配書がこんなにそっくりなヤツも珍しいだがや。へへっ、オラが今、ここで成敗してやるぎゃッ!」

 槍をピタリとアガシャーに向けたまま、男は軽く舌舐めずりする。つるっぱげの頭がキラリと輝いた。どことなく愛らしい、黒くて小さな目がちらっちらっとアガシャーを見る。。

「……うへっ……ツイてるだなや、オラは。今日は、竜騎将様もおいでになられるだで……。ここでコイツをしとめて首を持ってきゃ、オラがここの隊長だぎゃ」

「やれやれ……。ここにも、魔に間違ったことを信じこまされている男がいる」

 アガシャーはため息をついた。そのため息が、男には気にくわなかったらしい。

「おい、こりゃッ謀反人! 何落ち着いてんだがや、おめぇはよッ!」

 兵士は、槍をえいやっと突き出した。

 アガシャーはもう一度ため息をついて身体をひく。

 槍は、あっけなく老人をそれた。

 目標を外し、男は勢い余ってつんのめる。だが、不幸なことに、彼の動きはそれだけでは止まらなかった。

 つんのめった男の槍は地面につっかかり、まるで棒高飛びのようにその身体を跳ね上げたのだ。

「おわあぁぁぁぁぁぁぁあああーッ!?」

 素っ頓狂な悲鳴を上げて飛んだ男は、ほどなく地面に顔から突っこんだ。勝手に自爆した者に、アガシャーはかける言葉が見あたらない。

「これ、お主……」

 アガシャーは困り顔のまま、顔を地面にこすり付けている兵士の肩を叩く。

 しばしの沈黙――。

「――ッぱッッッ!!」

 突然、男はがばっと起き上がった。何が起きたのか分からなかったのか、彼はキョロキョロと辺りを見回している。

 その目が、アガシャーとぶつかった。

「あーーーーッ!! 思い出した~ッ!! このぉ、よくもオラを投げ飛ばしてくれただなッッ!?」

「……いや……私は、身体を引いただけだが……」

 ぴょこたんっと復活した男は、槍を取り直してアガシャーに向け直す。この男、人の話を全然聞いていないらしい……。

 アガシャーは三度、深いため息をつく。

「なに、ため息ついてるだぎゃ。おめぇはぁッ!!」

 男は、ため息にはやたらと敏感だった。田舎者の兵士は顔を真っ赤にして、アガシャーに向かって再び突進をかける。

 今度は、槍は凄まじい速さでアガシャーを狙って繰り出された。だが、アガシャーはそんな槍を全て、きれいに避け続ける。

 しばらくそんな攻防が続いたが、やがて男のほうが先に息を切らし始めた。足元がふらつき、ぜいぜいと肩を上下させる。

「無理はいかんぞ、おぬし……」

 そんな男に、まだピンピンしているアガシャーが哀れそうな声を出して手を伸ばした。

「うるさいだぎゃッ!!」

 男はとうとう我慢できなくなったらしく、手をブンブン振り回して暴れ出す。

 いらいらを募らせている男に、アガシャーは仕方ないといった様子を一瞬見せ、目を閉じた。

 直後、アガシャーの身体から重厚な気が溢れ出す。

 高貴な圧迫感に、暴れていた兵士は思わずたじろいだ。

「……貴公、名は何と言う?」

 どこかの皇族のように凛とした態度を見せるアガシャーに、男は呑まれた。

「……カ……カジベエ……だがや」

「そうか。カジベエか。私が謀反人だと貴公は言うが、何故そう言うのだ?」

 アガシャーは、まっすぐカジベエと名乗った男を見、静かに問いただした。

「……そ……それは……摂政官様が……そう、お触れを出されたから……で……はい」

 男はあっというまに卑屈になる。アガシャーは、何の警戒も見せずに近寄った。カジベエは、ブルブルと震えてその場にへたりこんでしまう。

「そうか。おぬしも、騙されていることを知らないのだな」

「……へ? ……だ、騙されている……ってぇのは……どういうこと……だぎゃあ……おめぇ様?」

 カジベエは、完全にアガシャーのペースに引きずりこまれていた。アガシャーは軽くカジベエの額に手を当てると、その手に気をこめる。フワッと穏やかな光がカジベエの額に灯もり、静かに吸いこまれた。

 何が起きたのか分からずに目をパチクリさせるカジベエ。

「……あ……の……?」

「これでもう大丈夫だ。これで、ジャネルの呪縛からは解き放たれた」

 アガシャーはゆっくりと立ち上がった。カジベエは身体をあちこち回して首を捻る。

「おんやぁ……こりゃ、どうしたことだがや? な~んか身体がえらく軽くなっただぎゃ……」

 田舎モノ丸だしな調子で驚くカジベエに、アガシャーは優しく微笑んだ。

「それが、本来のお主だ。今までは摂政官によって命をいつも吸われておったのだ。それを、今、私が断ち切った」

 カジベエは目を丸くする。

「……こ難しいことはわかんねぇだが……よーするに、あのまんまだと、オラはそのうち死んでたってこときゃ? ひぇ~。そっただこと、全然知らんかっただぎゃ」

「おぬしのように、あまり摂政官の呪縛の強くない者ならば、結界に力を削がれている私でも魔の精神制御マインド・コントロールを消せるのだが……。民、全てを解き放つには力が足りなくて……な」

 苦笑するアガシャーに、カジベエは槍を放り出し、がばっと土下座した。

「すまんかっただぎゃッ!」

 突然の男の行為に、今度はアガシャーの方が目を丸くする。

「これこれ。そんなことをしては汚れてしまう。顔をお上げなさい」

 だが、男は額を地面にすり付けたままだ。

「いんや。オラ、命の恩人に槍さ、突き付けちまっただぎゃ! とんでもねぇことしちまっただよッ! こんなんじゃ許してもらえねぇかもしれねぇけど、でも、とても頭なんざ上げられねぇだがや」

 ふるふると顔を横に振るカジベエの手をアガシャーは取る。

「……許して欲しいのは私の方なのだよ、カジベエ殿。私が摂政官の暴挙を許してしまったから、貴公のように命を吸われる者が大陸中に溢れてしまったのだから」

「……あの……ひょっとかして……都にいる皇帝様の方がニセモノで、あんたが……ホンモノの皇帝様なんじゃないのかや? オラ、こんくれぇちっけぇガキの頃に、じいさまに若ぇ頃のアガシャー様の写真さ、見せてもらったことがあるだぎゃ。おめぇ様はその写真によぉ似てるがや」

 真っ直ぐ老人を見上げるカジベエの視線に、アガシャーは暫し困ったような顔をしていたが、やがて渋々頷いた。

「……ああ、そうだ。都の皇帝は……私のニセモノだ」

「やっぱりそうだっただなや。いや、フツーの人にしちゃあ、ずいぶん品のあるお方だと思ってただよ」

「だが、カジベエ殿。これは絶対に他の人には内緒にしておくれ。私は、都から追われる身……。おぬしも、早くここから逃げた方がよかろう」

 膝を折り、頭を下げるアガシャーに、カジベエが慌てる。

「そ、そんな、カジベエ殿なんて! めっそうもねぇ。カジベエとお呼びくだされ、アガシャー様。な、顔、あげておくれん」

 アガシャーに顔を上げさせ、カジベエはふと、気になったことを口にした。

「……ところで、アガシャー様。おめぇ様は都の人間に追っかけられてる身だぎゃ? 何でまた、こんな危ねぇ場所にわざわざやって来ただがや?」

 不思議そうに首を傾げるカジベエに、アガシャーは思い出したように質問をした。

「それなのだがな、カジベエ……。もし、知っていたら教えてはくれぬか?」

「何だぎゃ?」

 アガシャーの目が深い藍色に輝いた。

「『アーサ』という、十四の娘がここにいなかったかね……?」

「アーサ……ああ、おったぎゃ。そんな名前の娘っ子なら、確かに一人、おったなや」

 カジベエの言葉に、色めきたつアガシャー。

「蒼い髪の、それはもうきれーな娘っ子だぎゃ。……でも、ちーっとおかしいんだな。きっと昔、すんごく嫌なことでもあったんだろなぁ……」

 アガシャーの顔が哀しげに曇った。

「そうか……」

「アガシャー様。……あの娘っ子はおめぇ様の娘さんだか?」

 首を傾げるカジベエに、アガシャーは首を横に振る。

「いや。私には娘はいない……。だが、あの娘は、私が知人から預った、大切な娘なのだよ。ともかく、アーサは生きているのだな?」

 アガシャーの言葉に、カジベエは首を大きく縦に振った。

「生きてるだなもし。ロンベーヌ様のお気に入りだもんで、一番楽なくさび磨きさせられてるだぎゃ」

 アガシャーは、カジベエの口から出た竜騎将の名に、苦い顔をみせる。

「そうか……。あの娘が農場に送られたことまでは知っていたが……まさか、あのロンベーヌが囲っていようとは。これは、うかうかしておれん」

 アガシャーはくるりと向きを変えて、岩場の上から『農場』を見下ろした。

「……カジベエ。今日はロンベーヌが来ている、と申したな?」

「へぇ」

「ヤツの予定を知らぬか?」

 カジベエは聞かれ、おずおずとアガシャーの前に出る。

「ロンベーヌ様の予定きゃ? ……確か……ここの駐留のベネクスの竜さまたちを連れて、明日、都さ帰るってぇ聞いたぎゃ」

「ベネクスがいなくなる、と?」

 アガシャーの目が輝く。カジベエは頷いた。

「んだ。だから、オラたちみたいな下っぱがこんな場所を見回りさせられてただよ。普通なら、農場の見回りは竜さまがやっておられるんだなも」

「なるほど……」

 彼の言葉に納得し、アガシャーは再び農場に目をやる。

「……と、いうことは……アーサを奪還するならば、明日がチャンスということだな」

 アガシャーの皺のたくさん刻まれた顔に、笑みが浮かんだ。カジベエは、心配そうに老人を見上げた。

「いくらベネクスの竜さまがおらんったって、普通の兵士はおるし、何より、ベネクスの副将軍様は残られるってのがもっぱらの噂だぎゃ。……それでも……娘っ子を助けに行くっつーだか、アガシャー様?」

 のぞきこむカジベエに、アガシャーは優しく微笑んで答える。

「うむ。……カジベエ、明日にはベネクスがいなくなるのだろう? あの凶暴な竜の軍隊がいなければ、ここの警備は無いも同然だ。これを、天が私にチャンスを与えてくれたと思わずしてどうする?」

 にっこり笑う老人に、カジベエは諦めたように手を広げた。

「……言ってもダメみたいだなもし。なら、もうオラは止めねぇだよ。……でもな、危ねぇと思ったら、すぐ逃げると約束して欲しいんだなも。オラ……、命の恩人に死んで欲しくねぇだよ」

「カジベエ……」

 目を潤ませているカジベエに、アガシャーははっきりと頷いてみせる。

「わかった。約束しよう。無理はしない」

「約束だなも」

 カジベエは、アガシャーの手を取って強く握り締めた。しばらく手を握りしめた後、彼は白い歯をニッと出して笑う。

「……アガシャー様、ちゃんと生きて帰ってきてくれだよ。そだっ! アガシャー様、中のこと詳しくねぇだがや? オラが知ってること、みんな教えてやるだよ」

「それはありがたい。是非、頼む」

 アガシャーは、素直にカジベエに頭を下げた。嬉しそうなアガシャーに、カジベエはふと思いついたように口を開く。

「その代わりと言っちゃなんだども……帰ってきたら……オラをお供にしてくれんきゃ?」

 突然の申し出に、アガシャーは少しだけ目を見開いた。

「カジベエ。おぬし、自分の言っていることが分かっておるのか。私につくということは、帝国から叛徒と見なされるということなのだぞ? そんなことになれば、おぬしも、おぬしの家族も帝国に狙われ、殺されるぞ」

 カジベエは、真っ直ぐにアガシャーを見上げる。

 その目に迷いはなかった。

「アガシャー様。……オラ、家族はいねぇだよ。オラの家族は、とうの昔に帝国に殺されちまっただ」

「……おぬし……」

「オラには失うモノなんて、もうこの命くらいなモンだっただぎゃ。でも、その命、さっきおめぇ様が助けてくれただよ。だったら、おめぇ様が迷惑でなけんりゃ、オラをお側に仕えさせて欲しいだぎゃ! ホントは、娘っ子様を助けるのも一緒に行きたいんだぎゃ、オラ、鈍くさいからぜってぇおめぇ様の足手まといになるだ。だから……それは手出ししねぇだから、その後はオラを側においておくれん、な? 頼むだよ、アガシャー様。オラ、どのみち行くとこねぇだし」

 カジベエは鉄の兜を脱ぎ、つるっぱげの頭を下げて必死に頼みこんだ。

 アガシャーはしばらく黙って考えこんでいたが、やがて顔を上げて、カジベエの丸い頭を撫でてやる。

「……わかった、カジベエ。おぬしを私の供としよう」

 カジベエの目がぱっと明るく輝いた。

「ほ、ホントだがや?」

「うむ。ただし……」

 今度は、アガシャーが切り出す。

「夜の間、何が起きても、決してこの岩場から動いてはならぬ。……もし、私が夜明けまでに戻らなければ、一人でここから逃げると約束できるのならば、だ」

「夜明け……」

 アガシャーは、そう繰り返すカジベエに頷いた。

「夜明けまでに戻らない時は、私はもう生きてはおらんだろう。だが、おぬしまで命を落とすことはない。夜明けに私が来なければ、おぬしは一人で聖地に向かいなさい。私の名を言えば、土地の者がお前をかくまってくれるはずだ」

 そう言ったアガシャーの顔は穏やかだった。カジベエはその穏やかな顔に安心したのか、黙って頷く。

「さあ、カジベエ。お主の知っていることを全て、事細かに私に教えてくれるかね? 必ず生きて戻るために……」

「おぅだなも!」

 二人の男は岩場の影に座りこみ、話を始めた。

 生きて戻るための、長い長い話を……。


               *     *     *


「ロンベーヌ様……」

 ラーマンの甘美な香りが、シェラの鼻腔をくすぐる。

 寝室帳が幾重にも引かれた暗い上官用の寝室で、彼女は竜騎将サダム・ロンベーヌにしなだれかかった。

 白く長い指が、鍛え上げられた茶褐色の胸板を滑る。まるで鍛え上げたハノーティン竜を、そのまま人に置き換えたようなゴツゴツの筋肉に触れる度、シェラの身体に電気が走った。

 濡れて垂れた白髪の隙間からのぞく、鋭く細い目が金色の光を放つ。

「なんだ、まだ喰われたいのか?」

 将の冷やかで嘲りの浮かんだ目に魅いられ、シェラは背筋に走る快感に大きく身を震わせた。

 彼女の震えに合わせて、ロンベーヌの真っ赤な舌がシェラの濡れた身体をすみずみまで這い回る。

 二つに別れた長い舌がちろちろと音を立てる度に、シェラの白い身体がピクンッと跳ねた。

 ロンベーヌの舌から分泌される粘着質の不透明な液体から不可思議なホルモンが分泌されてでもいるかのように、身体が濡れる度にシェラの脳髄が正気を失っていく。

 やがて、艶めかしく開かれた口唇にロンベーヌのぬめった舌が入りこんだ。

 快感とも痛みともしれぬ何かが、シェラの魂を貫く。

 その直後、幾度目かのエクスタシーと共に、彼女は白い世界へと堕ちた……。


「……ところで、シェラよ。その方、ますます邪気の吸収が良くなったようだな」

 五人の女の血をすすりながら、ロンベーヌはシェラを見る。

 シェラは白い裸体を晒したまま、恭しく頭を下げた。

「はい。これも、機会あるごとにロンベーヌ様に愛していただいているお蔭と……」

 妖しく微笑むシェラの細い顎に、ロンベーヌは手を伸ばす。

「移動中のギル・トメルアの民を襲い、リュセ・ロギッシュを殺してお前を連れてきたのはやはり正解だったわ。お前のその優れた霊媒能力があれば、我が主ガーディス様にも、より早くお目覚めいただけるだろうて」

 顎を撫でる手から、ロンベーヌは静かに黒い気を発した。

 シェラの身体が黒い闇を帯びる。

 彼女は、帯びた邪気を右手に収束すると、壁際に縛られ、転がされている三人の女たちに投げつけた。

 女たちは悲鳴を上げる間もなく、皆、その首を身体から引きちぎられる。

「初めてロンベーヌ様にお会いしたあの時から、私はロンベーヌ様に忠誠を誓いました……。ロンベーヌ様の御為ならば、私はいつでもこの身を捧げますわ」

 愛に酔いしれた女の顔を見せながら、シェラはロンベーヌの手に頬ずりした。壁を滴る血の滝を楽しそうに見、ロンベーヌはクックッと含み笑いをする。

「しかし……お前も、恐ろしい女よのう、シェラ。私の愛を得るために、従姉とその夫を平気で手にかけるのだから」

 シェラは、茶褐色の手の甲の冷たさを感じながら、邪悪な笑みを漏らした。

「だって……ロンベーヌ様が望まれたんですもの。リュセとルイザの死を……ギル・トメルアの壊滅を……」

 正気を失った蒼い目の瞳孔が、蛇のそれのように縦に細くなる。その動きは、ロンベーヌの金色の目とまったく同じ。

 まるで、シェラとロンベーヌが深いところでつながっているかのようだった。

 ロンベーヌはそのシェラの瞳を確認すると、満足そうに再び血をすすり始める。

「シェラ。明日は『農場』を見てから帝都に戻る。私の『食事』はテラスに用意させておけ。……よいな?」

「はっ! かしこまりました。それでは、ただいまより、隷を選別してまいります故、失礼いたします……」

 静かに、そして冷やかにロンベーヌは部下に命じた。シェラは部下の顔に戻り、もう一度頭を深々と下げるとシーツを巻き付けてロンベーヌの寝室を後にする。

 そんな彼女を見つつ、ロンベーヌは血を舐め尽くした女の腕に喰いついた。

「愛……か。くっくっ……つくづく愚かな女だ。最初に目を合わせた瞬間に魅了の術を施されたのだということを少しも疑っておらんのだからな。この先も、私に魂を喰らわれ続ける限り、アレは私を決して裏切りはせぬ。くっくっくっ……」

 暗闇にザラついた含み笑いが響き渡る……。


               *     *     *


「よいか、カジベエ……」

 赤く染まった東の空に背を向け、アガシャーは森の出口で佇むカジベエに振り返った。

「私は行くが、私との約束だけは絶対に忘れてはならぬぞ」

 念を押すように目を見るアガシャーに、カジベエは何度も何度も首を縦に振る。

「次の夜明けになってもアガシャー様が戻らねぇ時は、オラ一人で聖地さ行くっちゅーことだきゃ? 分かってる、分かってるだがや」

 カジベエはニコニコしながら、ゴーバ葉の包みをアガシャーに差し出した。

 アガシャーは首を傾げる。

「おむすびだぎゃ。腹が減っては何とやらっていうだなもし。オラ、今朝、賄い場にこっそり忍びこんで、ちょこーっと貰ってきただよ。さ、持ってってくれだぎゃ」

「カジベエ……」

 丸っこい手から、アガシャーは麦の混ざった丸い握り飯をゴーバ葉の包みごと受け取った。その目が、カジベエをじっと見る。

「……盗みはいかんぞ」

 一瞬の沈黙。だが、アガシャーの瞳が優しく輝いているのを確認し、カジベエはニッと歯を出して笑った。

「これからは気をつけるだなや。さ、アガシャー様、早く行って早く帰ってくるんだなもし」

「ああ」

 カジベエに頷き、アガシャーはくるっと身を翻す。

「いってらっしゃいませなんだな~、アガシャー様ぁ~!」

 朝やけの中、アガシャーは岩場の向こうへと走っていった。


               *     *     *


 乾ききったガチガチの大地を掘り起こし続ける数百人のやせ細った人間たちを岩造りのテラスから見下ろしながら、ロンベーヌは杯を傾けた。

 シェラはロンベーヌのすぐ後ろに立ち、背筋を伸ばしている。その顔は、昨夜とはうって変わった、いつもの軍人の顔だった。

 竜騎将は、手酌で真っ赤な液体を杯に注ぐ。

 副将軍はファイルをめくり、作業状況の報告を始めた。

「遺跡発掘作業は、七十%まで進んでおります。このテオカントスの第三作業場の進捗が最も良いようです」

「うむ」

 ロンベーヌは赤い液体を一口含んで頷く。シェラは続けた。

「ただ、遺跡に打ちこむ白面のくさび製作が少々遅延している模様です。……しかし何故、ジャネル摂政官はわざわざこんなくさびを遺跡に打ちこませておられるのでしょう? あのくさびを打ちこむ様子が田植えに似ているからと、民どもは各地の遺跡を皆『農場』などと称しております。しかも、このくさびを打ちこむ図面だけは摂政官殿、御自ら記されたというではありませんか。……ただ遺跡を発掘なさるだけなら、こんなくさびなどの必要はありますまいに」

 白い面を刻んだ鉄の剣のようなくさびを右手で弄びつつ疑問を口にしたシェラに、ロンベーヌは再び杯を傾けて口元をつり上げる。

「これが、ただの遺跡発掘ではないからだ。……お前が私の副官になって、もう六年か。刻も近い。よかろう、教えてやる」

 ロンベーヌは杯を飲み干し、テーブルに戻した。

「我ら、魔族の四天王は知っているな?」

「はい。魔女アンティル様、魔騎士シュミール様、魔准将サーベラ様。そして、今は眠りにつかれているロンベーヌ様のお母上……魔星王ガーディス様……」

「そうだ。だが、我らは各々を決して仲間だなどとは思っておらぬ。魔は皆、それぞれを常に吸収せんと狙っているのだ。……我が母ガーディス様は、我らの中では飛び抜けてお強く、巨大な力を持つ御方。だが、今は先の光との大戦で受けた封印によって、この大陸のどこかに本体を封じられておる」

 ロンベーヌは淡々と事実を語る。ロンベーヌの一部下でしかなかったシェラは、初めて伝えられる真実にいちいち驚きの表情を見せた。

「……それでは……民が『農場』と呼ぶこの古い、石造りの遺跡は……もしや……」

「そう、ガーディス様を封じた、光の者共の巨大な封印の一部なのだ。ヤツらは、ポセイドニアから四千ネル離れた円周上の硬い岩盤地帯八つに『遺跡』という形で封印の要を築きおった。そして、フォセイディオン神殿をその封の中心に置くことで大陸の光脈を集約してガーディス様の魔力を封じこめてしまったのだ。私は、すぐに封印を破壊しようとした。何度も弾かれ、傷だらけになったわ。だが、ある時。ジャネルと名のる見知らぬ魔が、我に奇妙な提案を持ちかけてきおった」

 ロンベーヌは斜めに遺跡を見下ろす。

「……ガーディス様の封印を、ヤツが破壊してくれるというのだ。代償は、御方の復活まで、私を始めとするガーディス様の配下がジャネルの部下となって働くこと……。私はジャネルはサーベラかアンティルあたりの仮の姿ではないかと思っておる。そう考えれば、あやつらの配下には、我らのような純粋な魔族はいなかったようだからな。欲するのも当然といえば当然だった」

「それのどこが、奇妙なのですか?」

 魔同士の交渉は、ギブアンドテイクが当たり前だ。シェラはまたまた首を傾げる。

「代償だ。奇妙であろう?」

「……確かに、一度手にした配下をあっさり手放すのは……」

「ずいぶん気前の良い話であろう? 私も、まさかと思ったのだ。……だが、我らには、他に良い方法は思い当たらぬ。それに、我らが束になっても破壊出来ぬ封印をどうするのか気にもなったのでな。ヤツの誘いに乗るも一興と思ったのだ」

「……そうでございましたか。で、伯が行った封印の破壊方法が、この『遺跡発掘』だったのですね」

 ロンベーヌは邪悪な笑みを浮かべた。目の前に並べられた血の滴る鮮肉料理にかぶりつく。

「そうだ。……だがな、ヤツはやはり、そんなに気前のよいヤツではなかったのだということに、私は途中で気づいた。ジャネルの部下として、古の遺物をいろいろ見つけるうちにな……」

「?」

 生臭い肉を鋭い歯で引き裂きながら、ロンベーヌは目をギラリと光らせた。口の端から鮮やかな血が滴る。

「……不思議には思わなんだか? この遺跡では、我らに逆らった重罪人どものほとんどが、たかがくさびを打ちこむというだけの単純作業に従事させられておる。なのに、その単純作業がどういうわけか事故が続出して死人が絶えない。その上、ここで死んだものの身体はすぐにひからびて塵一つ残らぬではないか……。それで、私は気づいたのだ。奴はガーディス様が放つ魔気を利用して自分の力を高め、やがては御方様を吸収するつもりなのだ、ということにな」

「まさか……! たとえ、伯が少しばかり力をつけられようと、ガーディス様を吸収するなど……」

 ロンベーヌは貪るように食事を続け、再び赤い液体を咽の奥に流しこむ。背もたれに身体を預けてシェラを見上げた。

「普通ならばムリだ。だが、奴はかつて、光が膨大な力を得た方法を逆利用するつもりなのだ。今、ヤツは人間と神殿を負の想念に染め変え、全てを自分の中に取りこんでおる。さらに自分の制御を受けるこのくさびを使えば……可能な分ずつ御方

の力を自らに取り込むことも不可能ではあるまいて」

「それを知った上で、どうして黙っておられるのですか、ロンベーヌ様」

 シェラはテーブルに手をついて、その上半身をロンベーヌに近付ける。竜騎将は食事を終えると、汚れた口回りを白拭き布で丁寧に拭き取った。その布が彼の手の中で紫炎を上げて、あっという間に燃え尽きる。

「好きで黙っているはずがあるまい。気づいた時には、もう私の力ではジャネルに触れることすら叶わぬようになっておった。もう、ヤツに刃を向けることすらできんわ。まったく情けないことだがな……! だから、私も御方の本体復活まで力を蓄えることにしたのだ。。叛徒狩りと称して、『光』の末裔達を喰らうことでな」

 ふと、思い出したようにロンベーヌは顔を上げた。

「ところでシェラ、あの娘はどうしておる? 確か、アーサとか言ったのう。間違っても、他の隷のような扱いはしておるまいな?」

 嫌らしい笑みを浮かべた最愛の人に、シェラは一瞬だけ嫉妬の色を見せる。だが、彼女はすぐにそれを軍人の仮面の下へ巧みに隠した。

「はい。ロンベーヌ様の目に叶った娘、『農場』でも最も楽な仕事に就かせております故、身体に傷を負うようなことはまずありますまい。しかし、いくら力を得るためと言われましても、何もあんな未成熟な風読みの一族の娘をご所望にならずとも、他にもっと美しい女子はおりましょうに……」

 つい漏れたシェラの本音に、ロンベーヌの目が鋭く光った。

 椅子に立てかけられていた巨大な鎌が唸る。鎌を支える杖の中程が、シェラの腹部を痛烈に襲った。

「――がはッッ!!」

 叩き付けられた腹部の痛みと、したたかに打ちつけた背中の痛みが、女の身体を地面に這いつくばらせる。

 ロンベーヌは、岩のような顎をゆっくり動かした。

 その口の中に鮫のような牙がいくつも見え隠れし、瞳孔が蛇のように不気味に縦に細く、長くなった。

「未成熟だからこそ、なのだ。アレはただの風の娘でははない。『力』を持つものは成熟させて喰らってこそ、我が力となるのだからな。……それに、どうせ喰らうなら美しいほうがいい。本当は『農場』などへやることすら不満なのだが……摂政官の目を盗むにはこれしかなかったのでな……」

 ロンベーヌは、忌々しげな視線を、遥か彼方の中央政庁へと向ける。

「娘が成就した暁には……私が、全てをこの手に入れるッ! 風の娘よ……我のために育つがよい。くっくっくっ……」

 真っ黒な、竜の耳ひれを模した冠が、ロンベーヌの白い髪の中で邪悪な輝きを放った。

 咳きこみつつ立ち上がる女は、ただただ将に頭を下げる。

(見せしめにするために捕らえよ、と仰せられたのだとばかり思っていたのに……。あんな小娘ごときが、ロンベーヌ様の関心を奪うなど……許せるものかッ! 機会さえあれば……抹殺してやれるものを)

 女のどす黒い想念を知ってか知らずか。ロンベーヌはゆっくりと立ち上がり、シェラを見下ろした。

「シェラ。お前にこの農場を任せる。農場の作業完了に乗じて、都に吸い上げられるはずの御方の力を、お前の霊媒能力を応用して私に回すのだッ! これは、お前にしかできぬ事……期待しておるぞ」

「はッ!」

 ロンベーヌの魅惑の瞳に魅いられ、シェラは身体の芯が熱くとろけるような感覚に襲われて跪く。

 竜騎将は、真っ黒なマントを大きく翻した。

「私は、お前のベネクス騎竜戦団を引き連れて都へ帰る。今度は北方征伐の命が下った故、部隊を再編成せねばならぬのでな。魔としては新米のお前ならば、ジャネルに我が計画を気づかれることもまずあるまい」

 ロンベーヌは黒い手袋をはめる。シェラは鎌を彼へと手渡した。そのシェラに、ギロリッと目だけを向ける竜騎将。

「だが……分かっておろうな? くれぐれも、光の者どもだけには注意せよ。先日、アガシャーめがこの地区へ向かったとの報告があった。万一、アーサを奪い去られるようなことがあれば……その命、無いものと思えッ!」

「ははッ!」

 シェラはさらに深く頭を下げる。ロンベーヌはそれ以上彼女を見ることもなく、竜の発着場へと姿を消した。


               *     *     *


 彼方へと飛び立っていく竜の軍隊を岩影から息を潜めて見つめながら、アガシャーが息をつく。

「やっと、行ったか……」

 邪悪な気が遠ざかるのを再確認し、アガシャーは緊張の糸を緩めた。

「ベネクス……邪悪な竜の軍隊め。アトナルディアが帝政を敷いてから数十年。その間に、一体どれほどの部族が彼らに叛徒として消滅させられてきたことか……」

 アガシャーは、悔しげに口唇を噛んだ。

「炎の戦闘種族ファルツス。光の民ナートス。そして、風の民トメルア……。皆、私の力不足ゆえに――」

 再び深いため息をつくと、老人は農場に目を移す。

「壊滅させられた部族の民は、女子供問わず全て捕らえられ、二度と不遜な考えを起こさぬように『精神制御マインド・コントロール』なるモノを施されたという……。おそらく、アーサも……」

 アガシャーの顔が険しくなった。

「ベネクスがいないのは幸運だが……アーサの精神の鎖が、あの娘の救出の妨げとなるかもしれんな……」

 いつのまにか、太陽はアガシャーの真上を通り越している。

 アガシャーは動き出す予定の夕刻まで、もう少し身体を休めることにして岩影に身を潜めた。

 乾ききった風が吹きぬけていく。


               *     *     *


 アーサが『農場』に来てくさび磨きを始めてから、すでに六度目の秋を向かえようとしている。

 これは、『農場』では異例の長生きだった。

 それは彼女を気にいったロンベーヌの特別の計らいのおかげというのが、何とも皮肉な話ではあったが。

 元々骨ばってか細かった身体は、この地獄の地にありながらもロンベーヌの加護のおかげで少しは肉がつき、女らしい丸みを帯びてきていた。

 首筋までだった蒼い髪は筆のようにすらりと腰まで伸び、母の面影を漂わせる。

 これで、蒼い瞳に生気さえあれば……というのは、『農場』管理の兵士たちの言葉だ。

 確かに、アーサにも他の隷同様、帝国への絶対服従という「精神制御マインド・コントロール」は施されていたのだが、そんなものがあろうがなかろうが、彼女の心は六年前のあの日に壊れたままだったのである。

「アーサ、食事の時間だよ。行こう」

 隣に座っていたそばかす顔の太った女が、茫然と仕事をしていたアーサの肩を軽く叩いた。

 少女は、まるで幽霊のように、表情を変えることも伸びをすることもせずにフッと立ち上がる。

「しょ……く……じ」

 かすかに動かした口唇から、小さな声が漏れた。

「そ、食事。あんたに食べさせないと、あたしらがヒドい目にあわされるんだから、ちゃんと食べなッ! ……まったく、竜騎将さまのご寵愛を受けてるからって、いい気なもんだよ……」

 アーサは女にせかされ、配られた食事を持って食卓についた。落とした目線の先に丸いパンを見つけて、彼女の瞳にかすかな動揺が走る。

(丸いパン……テッちゃんがおいしいって言ったパン……)

 パンの上に、アーサは初めて出来た友人の顔を重ねた。

 そうイメージした途端、彼女の心は真っ暗な闇の世界へと堕ちていく……。


 周囲は真っ黒だった。誰も見えず、何もない。

 アーサは一人、暗闇の中で心細げに立ち尽くしていた。

『アーサ』

 優しい声。それが、少女の初めての友人であるティスの声であることに、彼女はすぐに気づいた。

『アーサ』

 友人は、再び優しい声で少女を呼ぶ。アーサの顔には自然と微笑みが浮かんだ。

『テッちゃん!』

 アーサは彼に駆け寄ろうとするが、足が動かない。

 優しいはずの笑み……。だが、その笑みに身体は硬直し、少年の真紅の瞳だけが異様に頭に焼き付く。

 少女は、言い様のない不安にかられた。

 暗闇の向こうに、鼻をつく鉄の嫌な匂いとどす黒い血の海が広がる。

『……ここ……どこ? テッちゃん……?』

 急激に広がる生臭い血の匂いにむせかえりつつ、少女は辺りを見回した。身体を必死でひねる。心細さから、その目に涙が浮かんだ。

『……アーサ。俺はこっちだ』

 再び聞こえてきた優しい声に、泣きそうだったアーサの顔がぱっと喜びに満たされる。

 ティスはあいかわらず、暗闇で笑みを浮かべていた。

 彼の姿を認めた途端、身体が動く。アーサは半べそをかきながらティスに向かって走り出した。

『テッちゃん! テッちゃん!』

 少女は叫ぶ。嬉しそうに、少年に飛びついた。

『テッちゃんだ。あたしの知ってるテッちゃんだ! やっぱり、アレは夢だったんだね。そう、夢だったんだ』

『夢?』

 首を傾げるティスに、アーサは涙を人指し指で拭いながら答える。

『あたしね、すっごく怖い夢、見てたの』

『どんな?』

 淡々と口を開くティスに、アーサは次々と溢れる涙を拭い続けた。

『こんな血の海の中に、隣のカイおじさんや角のケメラおばさん、近所のタフくんやネイちゃん……それから……母さまが、母さまが倒れてるの。ああ、でも夢だったんだ。そうだよね、あんな怖いコト、ホントのはずないんだ』

 泣きながら自分に言い聞かせるように呟くアーサに、ティスは能面のような顔を向ける。

 その紅の目が、キラリ、キラリと光を放った。

『夢か……。それってこんなヤツか?』

『え?』

 妙なティスの言葉に、アーサは思わず顔を上げる。途端に辺りに響き渡るうめき声の数々……。

 身体が、縦にまっぷたつに裂かれた男や首のもげかかった女がアーサの方をくるりと振り向き、意識なく笑った。

 手足がちぎれた子供が、ケタケタと耳障りな笑い声を立てながら少女へと近寄ってくる。

『ひぃッ!!』

 血みどろの子供がアーサに触れんとしたまさにその時、黒い肌のハノーティン竜が頭からその子を喰らった。ギシャッと骨のひしゃげる音がアーサの鼓膜を貫き、飛び散った血しぶきが少女の顔を濡らす。

 口の中にぐちゃぐちゃになった子供の頭を覗かせながら、竜の口がアーサを向いた。

『て、テッちゃんッ!! 助けて、怖い!!』

 アーサは頭を抱え、その場にしゃがみこむ。が、竜はそれ以上動かない。

 少女がそっと頭をあげると、竜はハリボテのように止まっていた。その向こうに、ティスの姿が見える。

 だが、その口は真っ赤だ。彼の口と同じ紅の穴が、竜の背中に開けられている。

 アーサは茫然となった。

『……テッちゃん?』

 ティスは黙って竜を押す。竜はあっけなくその場に倒れ、砂となって崩れ去った。

 その様子を、少年はケラケラ笑って見送る。

『やっぱり、こんなんじゃ腹膨れねぇや。やっぱうめぇのは、人間だよな』

 そう言ったティスの左手には、長く、蒼い髪が掴まれていた。夏の青空のような、少女とよく似た蒼い髪……。

『か……あさま』

 アーサは息を呑む。……嘘だ、こんなの。少女の頭はぐるぐると同じ言葉を繰り返した。

 少女の頭の中を見透かしたように、少年は邪悪な笑みを浮かべて、ぐったりしたルイザを持ち上げる。

『嘘じゃねぇよ、アーサ……。俺、お前のかあちゃん喰いたかったんだ』

 くあっとティスの口が開かれた。獣の鋭い牙がいくつも光り、よだれが垂れた。

 いつのまにか、少年の姿は水色の毛並みを持つ豹へと、その姿を変えている。

『や……めて』

『いただきまーす!』

『やめて、テッちゃんッッ!!』

 少女の叫びと母の悲鳴が同時に響いた。獣の鋭い牙がルイザの身体に深く深く食いこみ、白い肩を喰いちぎる。

 血に塗れ、目を見開いた青白い母の顔と腕が少女の目の前に倒れこむ。それはわずかに、本当にわずかに震え、口唇が少女の名を刻むように動いた。

『あ…………さ……』

『母……さま……』

 震える少女の目の前で、水色の獣は容赦なく彼女の母を喰いちぎっていく。蒼い瞳から大粒の涙がとめどなく溢れた。

『ど……して……テッ……ちゃ……』

 口を真っ赤に染めた豹は、真紅の瞳をアーサに向けながらニヤリッと笑う。

『お前が約束を破ったからだよ、アーサ』

 ――そして、アーサの視界は硝子が割れるように砕け散った。


「あっあああああああああーッ!!」

 丸いパンを前に、茫然としていた少女から悲鳴が上がった。

「あ……あ! あたし、あたしッ! ごめん、ごめんッ、テッちゃんッッ!! あたしがみんな悪いのッ! だから、母さまを殺さないでぇーッ!!」

 頭をかきむしり、泣き叫ぶ少女。だが、周りの人間は一瞥しただけで誰も手を差し延べようとしない。

「またかい。ああ、手間のかかる子だねッ」

 隣で食事をしていた女は、仕方ないとばかりに面倒臭そうに兵士を呼んだ。

「駄目だろ。この娘、丸いパン見ると錯乱するんだから。前の隊長さんから聞いてないのかい?」

「こんな娘一人に、そんな気を遣えるかッ!」

 横柄な態度の兵士に、女は気を悪くしたのか凄味をきかせて早口で叫ぶ。

「馬鹿だね、あんた知らないのかい? この娘はロンベーヌ様のお気に入りなんだよ。死なれでもしたら、あんた死刑だよ!」

「り、竜騎将、ロンベーヌ伯爵の!?」

「わかったら、とっととこの娘、医務室に連れてっとくれ」

 女の言葉に弾けるように駆けつけた兵士は、ひきつけを起こしたようにガクガクと身体を揺らす蒼い髪の少女を医務室へと抱えていった。

 その様子をみながら、女はやれやれと肩をすくめる。

「いっくら顔立ちが整ってたって、あんなおかしな娘がいいだなんて竜騎将さまも変わってるよ」

 その途端、女の首が血の帯を引いた。


               *     *     *


「あれが、『農場』か……」

 荒れ果てた遺跡を遥か眼下に見下ろしながら、ティスはかすかに苦々しさをこめて呟いた。

 まだ細身だった身体に六年分の日焼けと肉付きがついて、少年は青年に近くなっていた。獅子のたてがみのような淡い水色の髪が風に流れると、真っ赤な瞳が岩場を探って動く。

「警備は……他のとこよりは薄めってところか」

 それでも、彼の目に止まる兵士の数は、どう少なく見積もっても三十では足りそうにない。

 ティスは用心深く、さらに侵入路を検索し続ける。

「一番入りやすそうなとこは……あれ?」

 自分よりもかなり低い岩場の影によく見知った人影を発見して、ティスは思わず声を上げた。

「師匠!」

 あまり大きな声ではなかったのだが、少年の声に老人も反応して、上を見上げた。

 ティスは、もう一度周りを確認すると猫のように飛び降りてアガシャーの元へと駆け寄る。白衣の老人は、懐かしそうに皺の一層増えた顔を和らげた。

「よかった、ティス。無事だったのだな。六年ぶりか。すっかり大きくなって……。ああ、本当によかった。あの日、お前は戻ってこなかった。てっきり、ベネクスに殺されてしまったのだと私は……」

「師匠……」

 涙を滲ませて少年を強く抱き締めるアガシャーに、ティスの心は痛みを覚える。

「俺、六年前……とんでもないことしちまったんだ……。俺、アーサとおばさんを……」

「言わなくてよい……。それより、お前の話を聞かせてはくれまいか?」

 アガシャーは唇を噛みしめるティスの言葉を遮り、優しく頭を撫でた。おそらく、アガシャーはアーサと同じ風の一族であるピープリンダ家の人々に真実を調べてもらったのだろう。青年に近しい少年はそう悟ると、一瞬泣き出しそうになったものの、グッと飲みこんでアガシャーの言葉に頷く。

「俺、アーサに酷いことしちまった後、風の噂に竜騎将ロンベーヌがトメルアの娘を寵娘にしたって聞いたんだ。俺、すぐにそれがアーサのことだってわかった」

 少年の師は、黙って彼の話に耳を傾けた。ティスは続ける。

「六年前のあれは、アーサが悪いんじゃなかったのに……アーサも俺も操られてたの分かってたのに、俺はアーサだけに当たっちまった。友達だと言っといて、裏切ったのは俺のほうだ。俺、正気に戻ってアーサが捕まったこと知って、すごく後悔した。苦しくて、辛くて何日も何日も泣いた……。目が真っ赤になって何日も腫れたよ。お化けもまっ青だったね」

 当時を思い出した少年は、目を指さして苦笑した。

「思いっきりたくさん泣いた後、俺、決めたんだ。今度は何があっても、俺はアーサを裏切らない。例え、アーサが俺を裏切ることがあっても、俺は絶対にアーサを護ってやるって!」

 アガシャーは優しく細めた目線を少年に落とす。

「それで……ここに来たということは、大切なモノを護れる自信がついたということなのだな?」

 だが、師匠の少し期待の見えるその問いかけに、ティスは大きくブンブンと首を横に振った。

 アガシャーの目と眉が困惑を示す。

「俺、アーサを助けるためにこの六年間、ずっと仲間を集めてた。アーサを助けるってことはまた帝国とやり合うってことだ。でも、そうしたらきっと奴らはまた俺の封印を解こうとするはずだ。もう一度、奴らの言いなりになるなんて、冗談じゃねぇッ!」

「仲間からは、言いなりにならぬ方法を見つけられなかった、ということか」

「悔しいけど……。俺みたいな獣人はいっぱい見つかったけど……みんな、俺みたいに帝国のせいで大事なモノを奪われていたけれど……誰も、奴らの呪縛を逃れる術を知らなかった。でも、もうこれ以上待つわけにはいかなかったんだ」

「アーサが、ロンベーヌに献上されることを知った……」

「ああ。あんな色ボケした帝国の犬野郎に、俺の大事な友達を渡すもんかッ!」

 ティスの拳がギリギリと音を立てた。

「ティス……お前には教えていなかったが……ロンベーヌがアーサを所望した訳は、実はそれだけではないのだよ」

 アガシャーは静かに錫杖を下ろすと、遠くなった空に目をやる。少年はふと曇った師匠の顔に怪訝な顔をした。

「……詳しい話は追々しよう。とにもかくにも、まずはアーサを捜さねば」


               *     *     *


 普通の強制労働の場と違い、『農場』では夜間の作業が禁じられている。

 灯りがもったいない、というのが表向きの理由だった。

 故に、夜は遺跡侵入者にとっては絶好の時間である。

 ティスとアガシャーは、陽が落ちるのを待ってから静かに、そして速やかに行動を起こした。

 二人は闇に紛れ、岩影から岩影へと移る。カジベエのおかげできっちりと下調べのできたアガシャーの指示に従い、夜目のきくティスが的確なポイントへと導き進んでいった。

 三分の一刻ほど走った頃、二人は、隷たちの宿房のある石造りの建物まで首尾良くたどり着いた。見れば、眠そうな兵士が二人、入口を見張っている。

「……見張りか。どうする、師匠。他の入口捜そうか?」

 アーサの元に近付いているのは確かだが、まだ距離はある。

 ティスはまだ騒ぎを起こすべきではないと判断したらしい。だが、アガシャーは彼の問いに首を横に振った。

「いや、ここから入ろう。この建物は、隷を逃がさぬように石組みにも隙間はまったくない。見て見るがよい。窓一つとてないであろう?」

「ホントだ」

 アガシャーの言うとおり、他の建物は木造の簡素な手作りであるのに、ここだけはきっちり切り出した白っぽい石を組み合わせて造られている。ただただ四角いその建物に開けられた穴といえば、各々の部屋の真上にある拳一つ入る程度しかない空気穴と見張りの置かれた入口だけだ。

「当然、潜りこめそうな裏道もここだけはないのだ。……ちょうど、見張りの兵士も眠そうだな。ここは一つ、彼らに安らかな休息を与えることにしよう」

 アガシャーは右手の人指し指の先に気を集め、そのまま一気に腕を兵士たちに向けて伸ばす。シュッと小さな音が指先を走り、蛍の光のような幻惑の炎が見張りの目を奪った。

「な、何だ?」

 一瞬戸惑う兵士たち。だが、次の瞬間には、見張りたちは幻影の炎に誘われ、深い眠りに落ちてしまった。

「はぁ~、さすが師匠」

「ほら、さっさと行くぞティス」

 感心して兵士たちをつついているティスを、アガシャーは苦笑いしながら呼ぶ。二人は兵士たちを入口の両端に立てられている四角い柱に寄りかからせると、速やかに建物内部へと進んでいった。


 中に入って程無く、辺りを伺いながら、ティスは途中になっていた話を切り出す。

「ところで、師匠。さっきの話だけど……ロンベーヌが、アーサを欲しがった訳ってなんだよ?」

「少し待て。結界を張る」

 さすがに寄る年並みには勝てないのか、全力疾走と気の消費で息を切らしたアガシャーは休憩を提案した。

 錫杖で宙と地に小さな弧を四つ描き、四角錐の形をした結界を張り始める。

 周りの色に見る間に溶けこんでいく小さな結界の不可視の効力を確認し、水色の髪の少年はその結界の中に身体を丸めて滑りこんだ。アガシャーは平らな岩に腰を下ろすと、ティスに水筒を勧めながら口を開く。

「『光の戦士』の伝説は知っているだろう?」

「この大陸が出来たときに、魔と戦ってヒトを護ったってゆーアレか?」

「そう。アーサがその戦士たちの末裔だという話もしたな?」

「聞いた。でもそれだけじゃ、ロンベーヌがアーサを特別扱いした訳が分かんねぇ」

 軽く一口二口唇を湿らせて、ティスはアガシャーに話の続きを促した。

 アガシャーはさらに注意深く辺りを探って人の気配を確認する。気配が何もないことを確認し、彼は少年の質問への答えを切り出した。

「アーサは、ただの風の末裔ではない。あの娘は、間違い無く『光の戦士』の生まれ変わりなのだ」

「うそぉ……」

「真実だ。六年前のことをよく考えてみよ。まだ八つであったアーサが、ルイザ殿ですら使えなかったかまいたちを突発とはいえ使ってみせたのだ。攻撃的な力は、通常なら一度でその魂を砕いてしまうものなのだ。だが、アーサは初めてのことで少々反動を受けて倒れはしたが、まもなく回復したであろう? いくら次期族長とはいえ、そんな力限界域を通常の人間が持ち得ると思うか?」

「難しい……だろうな。ま、あいつが伝説の戦士かどうかなんてことはどうでもいいや。でも、それならなおさら『魔』に組するロンベーヌは、アーサを殺さなきゃならなかったんじゃないのか?」

 ティスは、まだ納得いかないという様子で師の顔をのぞきこんだ。アガシャーは険しい顔つきになる。

「今も言ったが、アーサの……いや、『光の戦士』の精神力は、成長すればほとんど例外無く無限に近い巨大なものになるのだという。それは彼らが、その源を全ての生命の『光』に置いているからだ。だが『魔』は反対に、命の『影』を喰らって生き、成長する。その上、喰らった相手の力限界域を自分に取りこむことができるのだ。おそらく、取りこんでもなお残る元の生命の負の相念が為せる業なのだろうな。そして、ロンベーヌは『魔』に組するものではなく、『魔』そのものなのだ」

「つまり、何か? ロンベーヌはアーサ自身というより、あいつの力限界域ポテンシャルを欲しがったってことなんだな?」

 ティスは、敵の目的を確認するようにゆっくり呟いた。アガシャーが頷く。

「間違いあるまい。そうでなければ、宿敵である『光の戦士』の転生体を、彼らが生かしておくはずはない」

 アガシャーはそう断言すると、ゆっくりと顔を上げた。

「『魔』そのものとはいえ、ロンベーヌは奴らの頂点ではない。あくまでも一将校にすぎぬ。……ということは、自分の力を蓄えるために、アーサのことはきっとトメルアの生き残りとしか報告しておらぬはず。だが、ここから出されれば、ロンベーヌの糧か、摂政官ジャネルの刃にかけられるかのどちらかしか未来はなくなる。となれば、アーサを助けられるのは、どのみち今をおいてチャンスはない……未来は閉ざされるのだ」

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