三.始まりは、澱んだ青い炎で
「……間違いございません、シェラ師団長。少女の胸元に、ギル・トメルアの紋章が縫いこまれておりました」
「そうか……」
遠視者の確たる報告に、シェラ・リグテラムドは髪に隠されていない蒼い右目を細めた。肩で切りそろえられた逆扇形の髪が風に揺れる。
額にはめた銀の頭髪飾が、風に流されかかる青い髪を半分止め置いて妖しく光った。
磨かれた白い鎧を見ただけでは、彼女がその身体に何度も返り血を浴びた歴戦の騎士だとはとても見えない。
彼女とお揃いの白い鎧を着けた漆黒の愛竜も、狩りの近いことを知ってか、その目を紅紫色にギラつかせている。
「……ずいぶん手間がかかったが、これで何とか、我がベネクス騎竜戦団第二師団も勅命を果たせるというものだ」
言い終わるや否や、シェラは白い手袋をはめた右手を上げて、団員達に合図を送る。
「偵察部隊! 娘の追跡は!?」
「……それが、途中で意識妨害され……」
「見失ったのか?」
「申し訳ございません……」
偵察部隊の遠視者のおずおずとした返答に、シェラはチッと舌打ちする。
「さすがに、神話の戦士の末裔だけのことはあるか。こちらも一流の能力者を集めているというのに、その力さえ遮るとはな。二十年も帝国から逃げのびてきたのは、伊達ではないということか。それとも、『聖地』が我らの行く手を阻もうとしているのかな……?」
師団長を務める女は、谷間からかすかに見えるゴウル山脈を睨みつける。
「見失ったとはいえ、反逆者の村がこの近隣にあるのは間違いない! よし、各小隊へ伝令! ここから山狩りを行うッ! どんな小さな手がかりも見落とすでないぞッ。一刻も早く、トメルアの集落を捜し出せッ! 見つけ次第攻撃に移るッ!!」
「はッ!!」
シェラの命令が飛ぶなり、馬よりも一回り大きな竜に跨った兵士達は一斉に散開した。後に残ったのは、かすかに咽を唸らせる漆黒の竜と、夕映えに鎧を染めるシェラだけだ。
彼女は、もう一度だけ白い山を見上げると、その右手に暗黒を収束させて一気に打ち出した。
ゴゥッと風を切り裂いて、暗黒が宙にかき消える。
途端に、辺りの風がいっせいに止まった。
「……風を読み、未来を視る者か……。確かに、我らが摂政官閣下にとってこれほど都合の悪い種族はいないな。事実、ジャネル様がこの国の影の主となられて既に数十年を経過している。なのに今もって反乱分子を根絶やしにできぬのは、ここに隠れる反逆者どもが、他の反帝国主義者どもを常に導いてきたせいなのだから……。未来を視て導くのだから、何度討伐をかけても逃げられて当然よ。ま、そのおかげで、私の出番となってくれたわけだがな」
女が右手を軽く捻ると、まるで彼女に手繰り寄せられたかのように、黒く染まった風がシェラの前で渦をまいた。
彼女は、満足そうに氷の様な笑みを浮かべる。
「いくら風読みができたとて、風を捕らえる私の敵ではないわ。くくっ……待ってるといい、ギル・トメルアのお馬鹿さんたち。たっぷり驚かせて、殺してあげるから」
* * *
いつのまにか日は暮れ、ギル・トメルアの集落には灯りがともり始めていた。
物置五軒分はありそうな大きなアーサの家からも、ぐるりとある八つの窓のうち、最も大きな入口近辺の窓からランプの灯りが漏れている。
アーサは、ティスやアガシャーに料理を勧めたり、飲物を注いだりして楽しそうに動き回っていた。
「……それにしても、高い天井だなぁ。大人だって届かないだろ、アレ……。掃除できるのか? それにさ、ところどころ金属の骨組みがあるじゃないか」
ティスがパンを食いちぎりつつ、まじまじと天井を見上げた。
「全部、木で造ってあるって思ってた?」
楽しそうにパンを追加しながら、アーサはティスに笑って問いかける。少年は大きく頷いた。彼はそのまま、今度は食卓中央に置かれた大きな照明灯を人指し指でつっつく。
「しかも、この照明灯も結構面白いよな。この照明覆い、熱帯走禽の卵くらいあるし、全面硝子張りだ……。たった一個でも、これなら部屋中に光が行き渡るもんなぁ」
唐突に、パチパチと木が弾ける音がした。アーサは、窓と反対側を振り向く。
ここも、表の木とは違う煉瓦造りの壁になっていた。
その壁に半分埋めこまれる形で造られた赤茶色の暖炉の中の炎が、小さくなりかけている。
「いけない。薪、足さなくっちゃ。……テッちゃん寒くない?」
「今んとこは、な。しっかしここ、南部の暑い土地のはずだろ? なんで、夜はこんなに冷えるんだよ。昼は、そんなことなかったじゃないか」
アーサは、にこにこしながら薪をくべていた。勢いを盛り返した炎を、何とはなしに見つめるティス。
「このへん、海よりかなり高い所にあるんだって。だから、昼はいいけど、夜とか冬なんてすごく寒くなるの。ホントは、みんな木だけで家造りたかったらしいんだけど、火を焚かずに夜と冬を過ごせないんだよ」
「それで、中と外が合ってないのかぁ。木だけじゃ、怖くて火なんか焚けないよな、確かに。……そういや、ここに来る前に『エル・ファティアの村は亜熱帯だが、五百ノルの高山にある所だ』って師匠が言ってたな」
三つ目のパンを頬張りながら、ティスは頭の中の記憶をほじくり返しているらしい。
アーサは、聞き慣れぬ単語に目をぱちくりさせた。
「ノルって?」
「海から、どれくらいの高さかっていう単位だよ。何でも、だいたい五十ノル上がるごとに寒くなるんだってさ。……そっか、こういうトコに、『雷気』ってのがありゃいいのになぁ」
「エレキ?」
「ああ。都のお偉いさんの館にゃ『雷気』ってのがあって、それが火の代わりに、家の灯りや暖房やってるらしいぜ。師匠が言うには、帝国が出来る前は大陸中がその雷気ってので便利な暮らししてたんだってさ。今は、都の偉いヤツの特権になっちまってるらしいけどな」
もぐもぐと口を動かしながら、ティスは喋る。
「へぇ~! やっぱりテッちゃんって物知りだね☆ ね、この丸いパン、あたしが焼いたパンなんだよ」
「そうなのか? すっごく旨いぜ、アーサ」
「ホントに? 嬉しいッ! もっといっぱいあげるッッ!」
少年に誉められたのが嬉しくて、アーサは凄い勢いで空いていくティスの皿におかわりを盛った。
少年も、食べ物を次から次へと平らげていく。
だが、楽しそうなのは二人の子供達だけであった。
ルイザとアガシャーは、先程のアーサの報告がよほど気にかかるのか、じっと考えこんだまま、食事にも飲物にも手を付けようとしない。
しばらくは食事に気を取られていた子供たちも、お腹が膨れてくるとさすがに大人達の様子が気になり始めた。
「なぁ、やっぱし、悪い奴らが来るのかな、師匠?」
沈黙にたまりかねたのか、ティスが口を開く。それに続く形で、アーサも口を挟んだ。
「でも、あたしの勘違いの可能性だってあるし……」
「いや。それはないだろう」
それまで黙っていたアガシャーが、アーサの言葉をはっきり否定した。
「こういうことは、子供のほうが敏感なものなのだよ、アーサ。ティス、お前も覚えているだろう? ここへ来る前に出会った、風歌いの一家のことを」
「風歌い? あッ、それってピープリンダ一家のこと? そういや、あそこの家族にも俺達くらいの子供がいたっけ。……そうだそうだ! あいつら、親父さんたちより、よっぽど素直に風に反応してたッ! そうか、あいつらもトメルア族だったんだっけ、師匠?」
ティスの口から出た、自分の知らない同族の話にアーサは思わず目を輝かせた。
「トメルア……ってことは、あたしの親戚なの?」
「近い親戚ではないと思うがね。彼らはゾル・トメルア……つまり、トメルア第一族だと言っていたから……。でも、風に関係が深いという点では、間違いなくどこかでつながりがあるのだろうね」
老人のゆっくりとした返答に、アーサは頷く。
話の人物をはっきり思い出したらしいティスは、目の前の少女と比べて首を傾げた。
「でも、風と関わる姿を見てなかったら、とてもアーサと親戚だなんて思えないよなぁ。万年お祭り状態で踊りまくるわ、歌いまくるわ……ぶっ飛んでるってのは、あーゆーのを言うんだろうなぁ」
(踊って歌って、ぶっ飛ぶ? ……どんな親戚なんだろう?)
初めて耳にした親戚の話に瞳を輝かせたアーサであったが、そのすぐ後に付け足された少年のすっとんきょうな説明に思わず頭を抱えてしまった。
「……ま、ピープリンダ家のことはともかく……アーサ、君の聞き取った風の声は、本当に重要なものに違いないのだよ。ルイザ殿、私は一刻も早く皆に避難を呼びかけるべきだと思うのだが……。元々、私がここへやってきたのは、帝国の切り札である殱滅部隊、ベネクス騎竜戦団がトメルア族の討伐に出発したという恐ろしい情報を手に入れたからなのですから」
ティスの話に苦笑したアガシャーではあったが、すぐに話題を引き戻す。彼の言葉に、ルイザは目を伏せて思案していた。
「アガシャー様。ベネクス……って何?」
またも初めて聞く名前に、アーサは老人を見上げて尋ねる。
今日は、いろいろ知らない言葉を耳にする。アーサは、久しく忘れていた好奇心の虫が疼くのを止められなかった。
「アトナルディアの北部に、ハノーティン竜と呼ばれる翼を持った生物が生息しているのは知っているね? 彼らは我々並みの知能を持ち、普段はとてもおとなしい生物だ。しかし、一旦怒りに我を忘れた彼らは、普段とはまるで正反対の顔を見せる。ただただ、破壊と殺戮を続けるようになるのだよ。ベネクス騎竜戦団とは、その怒りの力を無理やり引き出して、竜を兵器とした軍隊のことなんだよ」
「じゃあ、竜さんは無理やり戦わされてるの? ……可哀想」
ポツリと呟いたアーサの目には、大粒の涙が今にも溢れそうになっていた。
アガシャーは、心優しき風の少女の蒼い髪をそっと撫でた。
「アーサ、お前は本当に優しい娘なのだね。その優しさを、いつまでも決して忘れてはいけないよ」
「……はい」
アーサは、涙を手で拭い去る。
老人に誉められたのが嬉しかったのか、彼女はティスの背後にまたパンを持って寄っていった。
「テッちゃん、あたし誉められちゃった」
「よかったじゃねーか。ま、お前の聞いた風の声の話はしたんだし、とりあえず食事の続きしよーぜ」
ティスは、大人達がまだ決断を下さないのを見て、とりあえず風の声のことはおいておく気らしい。アーサの持ってきたパンをまたがぶっと頬張った。
少女は、食事に彼の関心を奪われたような気がしてちょっとムッとする。が、すぐに意地悪そうな笑みを浮かべた。
「ふーん。じゃ、さ。食べながら、あたし、もう一度風さんとお話してみよーかな? テッちゃんのホントの名前、教えてって……」
ほんのささいな意地悪のつもりで、アーサは口を滑らせる。だが、少女のその言葉に、ティスとアガシャーが突然顔色を変えた。
少年が座っていた椅子が音を立ててひっくり返る。
「いけないッ! アーサ……」
「そんなことしてみろッ、友達なんてやめてやるッッ!!」
まるで、雷が落ちたかのような激しいティスの怒りに、少女は心を貫かれんばかりに驚いた。少年の目は、怯えを含んではいるものの、有無を言わさぬ圧力をたたえて、アーサを見据え輝いている。
アーサには、なぜティスが名前のことくらいでこんなに激しく怒るのかわからなかった。激しい戸惑いに、蒼い瞳がキョロキョロと動く。
そんな少女に、アガシャーは紫の瞳を曇らせた。
「アーサ。言葉というものには、命があるのだよ。まして、モノを特定する名前には、想像を絶するほどの力がこめられていてもおかしくはない。ティスの『本当の名前』は、彼をお前が知る『テッちゃん』ではないものに変えてしまう……かもしれないのだよ……」
アガシャーの言っている意味が判らず、アーサは困惑した表情を見せる。
アガシャーは怯えるティスを見ながら続けた。
「……ティスというのは、私が便宜的につけた名前……。それは、私が彼の本当の名を偶然見つけてしまったからなのだよ。彼の本当の名前……それは古の、戦いの神と同じだったんだ」
ティスは、ギュッと二の腕を握りしめる。アーサはまっすぐアガシャーを見上げた。
「戦いの神様なら、別に悪くないじゃない。それに……アトナルディアの神話って、この大陸が統一された時の話がおとぎ話風に語られてるだけでしょ?」
アガシャーが首を振る。
「確かに、一般に語られている神話はただのおとぎ話ではない。歴史の真実を大いに含んでいる。だが、彼の名は、『邪神』として神話から削られた神のものなのだよ。……あまりの力の強さに、『禁忌』として神話からも消されてしまったほどの……」
「そんなのがいるなんて……あたし、聞いたことないよ」
アーサは母を振り返る。だが、母は眼を閉じ、じっとしたままだった。
「普通では、絶対に判らぬところにしか、この記録は残っていないからだよ。……だが、誰がティスにその名をつけたのかはわからなかった。しかし、そんな普通では絶対に判らぬ筈の名前がつけられているということは……最悪の場合……」
「場合?」
アガシャーの顔が曇る。
「……現在、それを知り得る立場に唯一いる者――つまり、帝国を統べる者が絡んでいるということなのだよ。それは、ティスの身体に、遺伝子か何かの操作が加えられているということを意味するのだ」
アーサは、ようやくティスの怯えを理解した。
自分の知らないところで、身体に何かの細工がされているかもしれない……これが、どれほど恐ろしいことかくらい、彼女にだって判る。
「だから……ティスの本名は、軽々しく口にしてはならないのだよ、アーサ」
その言葉に、アーサはシュンとなった。
少年は、おそらくこの老人から、本名が彼を変えてしまう危険性を聞いたのだろう。
それ故に「テッちゃん」と呼ばれることを欲していたのだ。
アーサは、自分の軽はずみな言動を恥じいった。
同時に、辛くて悲しくてしょうがなかった。このまま少年が、自分を嫌いになったらどうしよう……そう思うと、アーサは苦しくて切なくて、涙が出そうになる。
「ごめん……テッちゃん」
少女が絞り出した謝罪の声に、ティスもようやく表情を和らげた。
「判ればいいんだ。俺も師匠からその事聞いて納得したんだ。初めて、師匠に本名を語られ始めたとき、俺の中に何か底無しのどす黒い穴が開いてく感じがして……俺、それにおしつぶされそうになったんだ。その時は、師匠が途中で止めてくれたから助かったけど、本当に全部言われたらって考えると……怖いんだ」
初めての友達の、心底心細そうな姿を見て、アーサは胸が痛くなる。
「ごめんね、テッちゃん。もう二度とこんなことしない」
「うん」
ティスは頷くと、アーサの手を引いて隣に座らせて滲んだ涙を人指し指で拭った。少女は、そんな少年の優しさに再び顔をほころばせる。
「なあ、アーサ。このプディングも、お前が焼いたのか?」
「うん。おいしい?」
「ああ、すっげー甘いけど、うまいッ!」
少年と少女は、改めて仲よく食事を始めた。
その光景に、アガシャーが安心の色を浮かべた。
「……どうやら、アガシャー様のおっしゃる通りにしたほうが良さそうですわね」
それまで沈黙を保っていたルイザが口を開いた。
その顔には、アーサがこれまで見たこともないほど、険しいモノが浮かんでいた。
「風が、応えてくれないのです。さっきから何度も呼びかけているのに……。きっと、誰かが故意に、風を束縛しているのに違いありませんわ」
「それ、どういうことになるんだ、おばさん?」
ティスは意味が掴めないらしく、顔をしかめる。アーサも一緒になって首を傾げた。
「つまり、私たちの風繰りを抑えつけるだけの『力』を持った誰かが……おそらくは、敵でしょうね。その人物が、すぐ近くに迫っているという何よりの証拠なのよ。私たちに先を読ませまいとしているのね。これは、私たちトメルアにとってはものすごく危険なことよ。手助けとなるはずの風が、敵になってしまうんですもの」
ルイザはそう言うと、おもむろにまぶたを閉じる。途端に、母は暖かな橙色の光に包まれていった。
まるで女神のように輝き、ルイザは繭から絹糸を紡ぐかのように、ゆっくりと燦めく風を繰っていく。
「これが……風繰り……!」
初めて母の風繰りの様子を見た少女は、その幻想的な美しさに息を呑んだ。
突然、意識を集中し続けていたルイザの細い指先がピクリッと動く。顔に苦痛の色が浮かんで、彼女の身体が揺らいだ。
「母さまッ!!」
アーサは、慌てて駆け寄り、母を支える。
「……大丈夫よ、アーサ」
ルイザは、娘に精一杯の笑顔を見せて応えた。その笑顔にアーサは安心を取り戻す。目を輝かせて、母を見た。
「今のが『風繰り』ね? あたし、初めて見たッ! 母さま、すっごくきれいだったよッ!! 今ので何が判ったの? ねぇ、あたしにもできる?」
「もちろんよ。いつか、あなたにも必ずできるようになるわ。だって、あなたは私の自慢の娘ですもの……」
興奮して矢継早に話しかける少女に、ルイザは息を整えながらゆっくり答え始めた。見上げる娘とアガシャーを交互に見ながら、蒼い髪の母は判ったことを口にのぼらせていく。
「今ね、束縛されていた風をほんの少しだけ解放したの。……風は苦しんでいたわ。かすかにたどり着いた風は、ベネクス騎竜戦団が迫っていることだけを教えて、そのまままた囚われてしまった……。帝国軍は、もう森の向こうまで迫っている」
ルイザは腰まである長い髪を高い位置で一つに束ねると、アーサを引き寄せたままその場に立ち上がった。
今まで裏の部屋に控えていた二人のアーサの「ごえい」が、ルイザの動きに合わせ、母子の前に姿を現し膝をつく。
「もはや、一刻の猶予もなりません。約二十年に渡って私たちを帝国軍から隠し続けてくれた村ですが……名残を惜しんでいる暇はありませんね。ミュール、リスカ。すぐ皆に伝令を」
「はッ!」
凛としたルイザの声に、若者二人は一陣の風のように駆け出していった。
その慌ただしさに怯えるアーサの手を、ティスはそっと握り締める。寄り添う二人の子供の肩を抱き、白衣の老人はただただ黙って、苦渋に満ちたその顔を子供に見せぬようにすることしかできなかった。
* * *
その日は、月のない夜だった。
小さく、小さく、まるで蛍のように灯もされたたいまつの灯りだけを頼りに、五十名を越えるギル・トメルアの村人たちは、真っ暗なエル・ファティアの森の中を、息を殺して足早に移動していく。
迫りくる狂気の騎竜戦団を恐れ、人々の足は嫌でも早くなっていた。万一のことを考え、集団のちょうど中ほどには、戦うことのできない子供と老人が、若者達に護られるようにして移動の列に組みこまれている。
無論、危機をいち早く感じとった蒼い髪の少女・アーサの姿もそこにあった。
しかし、族長である彼女の母は、指揮のために隊列の前におらざるを得ず、彼女の側にはいない。
「ねぇ、アガシャー様。何で、帝国は私たちを追いかけてくるの? 帝国の偉い人たちって、ホントは人間じゃない悪いヒトたちなんでしょ? なのに、何で元々アトナルディアに住んでる私たちが追いかけられなくっちゃならないの?」
「そのことを知っているからだよ、アーサ」
「?」
アガシャーの答えに、アーサは首をひねった。
「それ、俺も不思議に思ってた。なぁ、師匠。何で都の大人達は、この村の人達のこと悪く言うんだ?」
アガシャーは、アーサとティスに細かく話すと難しい話だからと断りを入れた上で、淡々と話し始める。
「アトナルディアは、元々、大陸に根付く七部族の代表による共和制の国だった」
「七部族?」
アーサは、老人の話にさっそく問いを差し挟んだ。
「ああ、アーサにはそこから説明しなくてはいけなかったね。……七部族とは、自然界を構成する基本の物質である光、炎、雷、大地、鉱物、そして風の、六つの力をそれぞれの源とする人々。そして、特に源を持たない人々の七つの民族分類のことだ。当然のように、各種族はそれぞれに得意な分野が違っていた。それ故に、互いに手助けし合う事を本分とする共和制は、実に理想的に機能していたのだよ。ところが、その理想的な平和は、ある日突然破られてしまった……」
「それが、今から数十年前に起こった、『異形の者による中央政庁陥落』ってヤツだろ、師匠?」
ティスが割りこむ。アガシャーは少年の言葉に頷いた。
「……もっとも、表向きには第一執政官のクーデターとしてそれは認識され、彼ら異形の者のことなど歴史のどこにも記されていない。彼らは、殺した人間の皮を被ることで、自分達の襲来をあざとく覆い隠したのだ……。その行動は実に素早く、計算され尽くしたものとしか言いようがなかったよ……」
実際にその場を見ていたように語るアガシャーに、アーサは首を傾げる。尋ねてみようかとも思うのだが、老人のひどく哀しげな瞳にためらった。
「中央にのみ、密かに現れた正体不明の異形の者たち。――それが、遥か昔にも、この地に滅びをもたらさんとして侵攻し、撃退されたと伝えられる邪神……『魔』であることを……当時、第一施政官であった私は、私を助けてくれた光の天使に聞かされたのだ。……中央政庁の人間の中で唯一生き残ってしまった私は、その事実を伝えるために、急ぎ故郷のゴウルへと向かった」
「アガシャー様……」
やはり、アガシャーは現場を見ていたのだ。アーサは老人の心を思い胸を痛める。
「伝説に謡われている光と魔の戦いは真実だったのだ。過去に真正面から侵攻して撃退された魔軍は、今度は内部に密かに潜りこみ、内からアトナルディアを切り崩しにかかった、というわけだな。ともかく、私の報告で真相を知った風と炎の民は、すぐに魔の作り上げた『帝国』に反旗を翻した。……だが、すでに中央を抑えていた魔軍にとって、彼らを叛徒とすることぐらいたやすいことだった。風と炎の民は、全ての民のために侵略者と戦うはずだったのに、侵略者に踊らされているとは知らない他の民から刃を向けられることになってしまったのだよ」
一気に話し終え、アガシャーはフッと息を吐いた。
「悪いのは、民ではない。やすやすと魔の侵攻を許してしまった、この私なのだ……」
アガシャーは、真っ暗な空を仰いで誰にともなく呟く。
アーサは、悲しげに震える老人の手を強く握り締めた。
「アガシャー様のせいじゃない。時が、来たんだよ……」
自分で口にしながら、アーサはそれがどういう意味なのかは判っていなかった。だが、それが何故か真実であると確信が持てる。真っ直ぐに見つめる蒼い瞳に、アガシャーは笑みを取り戻した。
その時。突然、玉のように浮遊する青い炎が彼らの頭上に閃いた。
照らし出されるトメルアの民たち。
「ぐぎゃああぁぁぁぁぁーッ!!」
後方から断末魔の声が上がった。続けて、悲鳴と怒号と、肉の引き裂かれる音が辺りに満ちる。
「帝国だーッ!!」
叫んだ若者は次の瞬間、頭からまっぷたつに切り裂かれてその場に倒れた。その向こうに現れるのは、血まみれの剣を握った騎竜の騎士の姿――。
「キャーッ!!」
「こわいよ、ママーッ!!」
女子供の悲鳴が錯綜し、人々は蜘蛛の子を散らすようにその場から逃げ出した。
だが、全ての者の足は次の瞬間、凍ったようにその場に止まる。村人は、いつのまにか囲まれていたのだ。ハノーティン竜に乗った、黒い鎧の騎士たちによって。
邪悪な竜の目が細められ、真っ赤な舌がベロリと口元を舐める。師団長らしき白鎧の女の右手が振り下ろされた。
――そして、悪夢が始まる。