後編 死がふたりを分かつまで
寝室のドアノブを、外側から両手で抑える私が居た。それもパジャマ姿の。
……本当に、何をやっているのだろうか。
寝室に閉じ込めたかたちになる彼は、一度ドアを開けようとはしたものの、私が押さえつけているのに気づくと、力比べをすることなくあっさりと引いてくれた。
『……あの、開けてもらえません?』
扉越しに、くぐもった彼の声が届く。
「……む、無理ぃ…………」
私の情けない声は、はたして彼に届いたかどうか。いやもうホントに、彼の顔が見られない。少なくとも今すぐは無理だ。だって、あんな、はしたない……
『ならせめて、場所を交代しましょう。風邪でもひいたら大変です』
微妙に論点がズレているような、そうでもないような。私が言葉を返せないでいると、扉の向こうから言いよどむような、言葉に迷うような息遣いが聞こえて。
『……えっと、貴女が体を壊して、一緒に居られる時間が減るのは、その……イヤ、です』
まるで子どもが駄々をこねるように、不器用に。
彼は、自分の希望を口にした。きっと小さな頃から、ろくにわがままも言わない子だったのだろう。だから、こんなに、甘え方がへたくそなのだ。
「……それだと、貴方の方が体を壊すんじゃないですか?」
『……あ。』
今気づいた、と言わんばかりの反応に、笑ってしまう。
笑ってしまえば、もう、意地を張り続けることはできなかった。
それでも顔は伏せて、扉を開ける。と、彼の掌が私のむき出しの腕に触れて……きつく、抱きすくめられた。
「ふぁっ!? ちょ、えっ、えぇっ!?」
「体。冷え切ってるじゃないですか」
いやどのへんが? 今むしろ熱いぐらいなんですけど、体感だと湯気でも出そうなぐらいなんですけどっ!
そのままずるずると引きずられるようにベッドまで運ばれる私。やはりお姫様だっこは彼の細腕では無理だったのだろうか。
ちょっとがっかりした私の心情が伝わったというわけでもないだろうが、ベッドに寝かせる時は抱え上げるようにしてくれた。
……そのまま覆いかぶさるように彼も倒れ込んできたけれど。
――待って。いや、待って。
あくまで結果論でしかないのだろうが、これではまるで彼に押し倒されたような格好だ。さっきまでのいろいろを思い出して、また私の内側がぐるぐるしてくる。
なのに彼の両手は、私の頭の両脇から動かなくて。4年の月日が流れても、少しも男性らしさが表れない美人の顔が、じっと私を見つめていた。
美貌がゆっくりと近づいて……え? 唇が、え? 重なる……って、えぇっ!?
驚愕のあまり、目を閉じることすら忘れていた。
まるで惜しむように――というのは私の願望か――ゆっくりと顔を離した彼が目を開き、見開いたままだった私の目を見た。
『……えっと、』
なんでこの状況でこんなのがハモるのか。
「――ど、どうぞ」
促す私に、彼はまた「えっと」から始めた。
「……その、今までちゃんと『夫婦』してなかったなぁ、と思ったので……えと、その、新婚初夜のやり直しを、と……」
あからさまな動揺を表情に出したりはしないひとだが、その頬はほんのりと朱に染まっていて。
このひとも照れたりするんだ、と思ったら、悪戯心が湧いていた。
「そもそも求婚もされてませんよ、私。」
「……さっきのじゃダメなんですか?」
「確かにそれっぽくはありましたけど……」
不満があるわけでは無かったが、求婚の言葉への憧れの方が強かった。さっきのように少しおどけた感じではなく、もっと真摯に求めて欲しい、と……
――うわ。めんどくさいなぁ、私。
さすがに多くを求め過ぎだ。そう思い、前言を撤回しようとしたところで、彼の繊手が私の頬にそっと触れた。
「死がふたりを分かつまで――私と、一緒にいてください」
……言葉が、出なかった。その代わり、というわけでもないのだろうが、涙が出てきて止まらなかった。私の望むものをくれても、彼が私に何かを望んでくれたのはこれが初めてではないだろうか。
笑いながら泣いている私に戸惑ったのだろうか、彼の掌が離れていきそうになる。それに、私は自分の掌を重ねて。
「……はい。」
どうにか、それだけを返すのだった。
もう一度、唇が重なる。そして……
そして……
そして……?
いや、なんなのだろう、この空白の時間は。
「……えっと、どうして今になって新婚初夜なんですか?」
間がもたなくなってそんなことを訊く。
「――ずっと、思ってたんです。『目的』の無い『行為』を貴女は望まないだろうと。だから……ですかね?」
――なんだ、そうか。
彼も私と同じことで、逆の意味で悩んでいたということらしい。
「それで……ここからどうしたら良いんでしょう?」
らしくもなく落ち着きのない様子に、くすり、と笑みがこぼれた。
彼の首に両腕を回し、抱き寄せて。甘えるように、ねだるように、耳元に囁きを流し込む。
「貴方の好きにしてください」
その夜は一睡もできなかった。
不慣れな彼と私が上手にできたかどうかは、ふたりだけのヒミツだ。
翌日はふたりで盛大に朝寝坊をした。具体的に言うと、昼を大きく過ぎるまで。こんなことは一度だけにしよう、と固く心に誓う。今回は……そう、4年分、今までの分、ということで。
さすがにこういうただれた感じは私たちらしくないだろう。
……彼がそれを望めば、きっと私は拒まないのだろうなぁ、とは思うが。
「そういえば、1年って365日ですよね」
ブランチ、と呼ぶにも遅すぎる食事を摂っていると、唐突に彼が言った。それが何か? と、小首を傾げて問う私に、彼は続ける。
「貴女が可能性のひとつとして上げたように、私の方を無効にして、貴女を5年、というふうにもできたんですが」
なんと。そこまで干渉できたとは予想外だ。それで私の方を多くしようとするあたりは予想通りだったが。
「分ける最小単位は『日』が限界でして。」
「――つまり私が183日?」
「……はい。」
……1年ではなく1日で良かったと思うところだろうか。
「なんでそこまで私の方を長く生きさせようとするんですかねぇ」
返事を期待しないぼやきに、しかし返答はあった。
「――貴女の言葉を借りるのならが、取り上げられたくなかった、ということ……なのでしょうね」
「……何に、何を?」
答えがわかっている質問を私はした。
「神様に、貴女を」
いつもの笑顔で答えた彼に、私はため息をひとつ。
「――そのクセ貴方は、私から貴方を取り上げようとしたんですか?」
「……あ。」
本当に、ため息しか出ない。ある一面においては、どうしようもなく愚鈍なひとだ。とりあえず。軽く頭をはたいておいた。ばーか。
「……ごめんなさい」
叱られた犬のような彼、というのも珍しい。いつまでも見物しているのもかわいそうだったので、彼には甘い私は赦してあげることにした。
「いいですよ、もう。仕方ないので、1日だけは未亡人してあげます。いろんな事後処理とかは、私の方が上手でしょうし」
そのへん、彼に任せると酷いことになりそうだった。
友人への最後の手紙は、家を買う前に既に託した。そのひとが忘れてしまわなければ、50年後に投函されるはずである。
行く先々で、知り合った最もノリの良かった人物に、ちょっとした悪戯だと言って委ねた手紙は、誰かが間違わない限り、これからもひと月置きに友の元へと届くはずだ。
毎月毎月、『今、私たちは』で始まる手紙が。
だからあと50年は、彼と私は生きている……ということになる。私の一世一代の詭弁である。
紙も、インクも、なるべく劣化しないものを択んだが、さすがに数十年ともなるとどこかで気づかれるかもしれないけれど。
今の家を買う時も、間に何人もの仲介人を挟んだし、身元のわかるものは全て処分済みだ。きっと、私たちの死は家族や友人には伝わらない。
彼の葬儀が、私の最期の仕事となることだろう。
まぁ、密葬となるのは仕方ない。喪主を務め、喪服のままで1日を過ごし、そして私は彼の元へ。同じ墓へ、と頼むつもりだから、周囲からは後追い自殺と思われるだろうか。そう考えると少し可笑しい。
実際は私が後を追うのではなく、彼が先に逝ってしまうだけだ。
――死がふたりを分かつまで?
いいえ。死がふたりを分かとうとしても、私は貴方の元へ。
これがこのふたりの結末。
『神様』たちの意見は、だいたい織り込めたと思います。相反するものは、仮定の話として、ではありますが。
ふたりの幸せを願ってくれた、優しい『神様』に感謝を。