中編 青い鳥
「これで残り約半年、ですか。何かやりたいことはありますか?」
4年前、問われた言葉を彼へと返す。それを理解してか、くす、と彼は笑みをこぼした。とっくに馴れはしたけれど、相変わらず女の子みたいな笑い方だ。
「そうですねぇ。旅は充分楽しみましたし、終の棲家を決めませんか?」
彼と私、ふたりだけの家。それは実に素敵な提案だった。
あぁでもないこうでもないと、ふたりで探すことがまず楽しい。行く先々で、新婚さん、と呼ばれることが、私の昂揚に拍車をかけた。
最終的に購入を決めたのは、古い小さな家だった。
予算の問題、というよりも、半年後に事故物件になる可能性に配慮した結果だ。取り壊し、建て直すのにちょうど良いものを択んだ。
……寝室がひとつだったのはたまたまである。それが選別の理由に入っていたなどということは断じてない。というか新婚と思われているのなら、そもそも別室が候補として上がる方がおかしいのだ。なんで紹介者はあんあなに幾つも……
とにかく。彼と私の終わりへと向けた新生活が始まった。
4年間の旅で、非日常は充分に楽しんだ。残りの半年は、何もない日常を愛し慈しむとしよう。
何もない……いや、本当に何もないんですけど。こう、毎日同じベッドで眠っているというのに。こういう方向では、何かあっても良いんじゃないだろうか。もう少年とか少女とかいう年齢でもなくなっているんだし。私そんなに魅力無いですかそうですか。
そりゃあ? 余命(仮定)が十月十日をとっくに切っているといっても? 生まれてくるまではまだ人間じゃないなんて考え方は私だって嫌いですよ無責任なことができないのもわかりますよ? でも、こう……ねぇ!?
世の中には便利な道具があるじゃないか、と言うひとは、考えてもみてほしい。はたして、『目的』の無い『行為』をこの彼がするのか、ということを。
有り得ない、と私は思う。
いやでもその考えでいくと残り時間的な問題で今更そういうのはないということになるのか私は死ぬまで処……そんなふうにぐるぐると、無為無益な思いだけが私の内側を廻って。
「もしも、」
眠っていると思っていた彼がいきなり口を開いたので、私は飛び上がりそうになった。恨みがましく見ていたのに気づかれていないだろうか。
「はっ、はい!? な、なんでしょうか?」
動揺し過ぎだ、私。
「もしも、薬を割ることがルールで禁止されていたとしたら、貴女は、どうしていましたか?」
目を閉じたままで訊く彼に、ため息が漏れた。このひとは、まだそんなことを気にしていたのか、と。
「勿論、貴方に飲んでもらいましたよ?」
言うと、彼が目を開き、私を見た。
「――だってアレ、元々貴方のものだったんでしょう?」
驚愕に目を見開く、などということは、彼に限ってはあり得ない。そういう表情はしないひとだ。けれど絶句し、すぐには言葉を返せないでいる事実が、そのまま回答だった。
「な、んで……」
「わかったのか、ですか? 確信したのは今、この瞬間、貴方の反応を見て、ですけど。そもそも方法論を一旦横に措いて考えれば、いかにも貴方のしでかしそうなことですし」
神に祈ったのか、悪魔と結んだのかは知らない。けれど、手段を見つけさえすれば、彼がそれをするであろうことには確信が持てた。
死ぬはずだった私を、自身の命を使って繋ぎ止めるということを。
つまり奇蹟は見つけられなかったのではなく、始まりのあの部屋こそが奇蹟そのものだった、ということだ。寿命を延ばす方法を探す、と言った時の反応が微妙だったのも、このあたりが理由だろう。
さすがに奇蹟の二回目を望むのは虫がよすぎる。
「だから可能性のひとつとして考えていたのは、ワリと最初からですね。紙片の文面もなんか気取ってましたし」
貴方らしい、と。わざとおどけてそう言った。本当は一番の決め手は『9年しかない』と言った時の弱々しい、まるで自分を責めるような声色だ。
このひとは、私を生き長らえさせるために、いったい何年分の命を代償として捧げたのだろうか。
そこまでしておいて、このひとは言うのだ。9年しか、と。
私に負い目を感じさせないために黙っているのであれば、そのまま騙されるつもりだった。知らないふりをするつもりだった。
けれど、負い目を感じているのが彼の方となれば話は別である。
――もう、全部ぶちまけてしまおう。
「ねぇ、私からも、ひとつ質問です。貴方は……相手が誰でも、同じことをしていましたか?」
一番の恐怖を、まず問うた。此処でこうしているのも『私だから』ではなく、たまたまそれが『私だったから』ということなのではないかと。
彼は苦みの足りない苦笑を浮かべる。
「いや、さすがに私もここまでしようと思うのは、あとひとりしかいませんよ」
あとひとりが誰かは、問うまでも無かった。
「じゃあ、彼でも同じことを?」
「いえ。アイツなら、やらなかったでしょうね。たぶん、アイツはそれをした私を赦してくれないと思うので」
迷う気配すらない、即答だった。
「……私なら赦す、と思ったんですか?」
自分がどう思うかはさて措いて、彼の感想が気になった。
「――わかりません。いつだって貴女は、私の理解を超えている。でも、怒られても、叱られても、最終的には赦してくれるという気はしていました。
……私に甘すぎますから、貴女は。」
いつものように微笑む彼が、何故か泣いているように見えた。
「――わかっているじゃないですか」彼に顔を寄せ、こつん、と額をぶつける「そうですよ。私は貴方にどこまでも甘いので、赦してあげます」
愛しいひとが、自分のために、命を削った。普通はそうまでして生きている自分に嫌悪感を覚えたり、苦悩を抱くものななだろう。
けれど、私の身内を満たす感情の大半は喜びであった。
彼が、長く続く生よりも、私と共に在る4年半を択んでくれたことが嬉しい。
「狂ってるなぁ、私」思わず漏れた呟きに、
「自覚的な狂気は狂気とは呼べない、知り合いがそう言ってましたよ?」どこかズレを感じる返答は、いかにも彼らしい。
苦笑が漏れた。
「逆理になりませんか? それ」
この感情はきっと愛ではない。純粋な愛と呼ぶには、少しばかり汚れ目が目立つ。そんなことを考えた私に、笑いの衝動がわいた。
自分の抱く想いが愛とは違うナニカだ……なんて考え方、まるで目の前にいるこのひとだ。そうか、彼はこんなふうに考えていたのか。
「――でも、これだけはちゃんと言わせてもらいますね」
言って、私は近すぎる顔を彼から離し、真っ直ぐにその瞳を見つめた。
「誰よりも愛しいひと、貴方の命を、私に分けてくださいますか?」
たった4年半で貴方を死なせるのは、私のわがまま。だから、罪の在り処ははっきりさせておかなければならない。
彼の善意には、甘えられない。
なのに彼は小首を傾げると、言うのだ。
「私の回答は、既に行為で示したと思うんですが……?」
「……貴方には風情が足りない」
むぅ、とむくれてみせると、彼は起き上がってベッドから下りた。つられて半身を起こす私の手を取り、片膝をついて、
「誰よりも私を想ってくれた貴女、私が共に逝くことを赦してくださいますか?」
私の手に、キスをした。
嬉しいとか、恥ずかしいとか、それよりも。おかしさが先に立って、笑ってしまう。見れば彼も、私同様にくすくすと笑い声を響かせていた。
「いつか一緒にやったお芝居を思い出しますね」
「私もやっていて同じことを考えてました」
それは私が彼への恋心を自覚して間もない頃の話だ。友達と一緒にやった、なにげない戯れの話。
ベッドのへりに腰掛けて、目の前で膝をつく彼と笑い合う。なにをやっているんだろう、と思うとまた笑えてきて、暫くは治まりそうになかった。
「もうひとつ、謝っておかないと」
まだ笑いの余韻が残る私に、彼がそんなことを言う。貴方が謝るようなことは何もないのにな、と思いつつも、視線で先を促す。
「今更、になってしまいますけど。生殖能力を残すことはできませんでした。だから、もし、子どもが欲しかったとしたら……」
「なんでそれを早く言わないんですかばかー!」
……思わず。立ち上がってそんなことを叫んでしまって。
これではまるで、そういうことをしたくてたまらなかったと言っているようなものだと気づいてでも子を遺して逝くことを気にしなくて良かったのだとしたらそれなら私は……
私は。いたたまれなくなって逃げ出すのだった。
その日、私は一睡もできずに過ごすことになる。