月のない夜に
始めまして、お客様。ネムの街の聖堂図書館にようこそいらっしゃいました。わたくしの名前はリア・ド・カテドラル。仰々しい名前で申し訳ありません。驚かれたことでしょう。「リアの大聖堂」なんて名前、わたくし自身も名乗るのが少しばかり恥ずかしいのです。
この図書館について、そしてわたくしについてご説明致しましょう。
1人の神アトラが作りし星のかたちのヴァンドーラ大陸。その、世界の中心たるネムの街が100万人が住む大都市だということは、あなたもご存知でしょう。
アトラは創世の時、自らの肉から作り、自らの姿に似せた1人の人間に、力と使命を与えました。わたしに変わり、良く世界を導いて欲しい。それがこの街の初代君主、ミカサでありました。ミカサは神の言う通りに良く世界を統治致しました。彼は神から与えられた知識を愛し、それを後世に残そうと書物に起こし、記録をし、王宮の隣の聖堂に図書館を創りました。
それがこの聖堂図書館。古今東西、ありとあらゆる書物を収める巨大な図書館でございます。
わたくしはこちらの聖堂図書館の、すべての蔵書を管理する第一司書と、語り手を務めております。……司書はわかるけれども、語り手の役割はとは何か、でしょうか。それはあなた様のように、うっかりと聖堂図書館のこの部屋にやってきたお客様に、書物に記されてはいないこの世界の記憶、人々の営みのものがたりをお話しすることです。
本日紐解きますのは、一人の青年の、永遠のあいについてのものがたりでございます。さあ、最後までお聞き逃さぬよう、お願い申し上げます。
*
……今から遥か昔、バチストという名前の青年がおりました。彼は、アトラが描いた完璧な輪郭、蜂蜜色の豊かな髪に碧玉の瞳と、そのまま聖人画にしても遜色ないような、美しい容姿を持っておりました。
バチストは非常に勤勉で、また真面目な青年でありました。修道院学校での成績は優秀で、まさに模倣となるような立ち振る舞いでした
明晰なる頭脳に、端正な容姿。品行方正な人柄と、彼を知らない人は三物も与えたと羨望の眼差しで見たことでしょう。
しかし街の中でも学校の中でも、彼を慕う人は1人もおりませんでした。言葉の代わりに酒の空き瓶を投げ飛ばし、彼が歩いた跡は聖水をかけて清め、目があうとすぐにそらされました。その度に彼は心を痛め、傷つきましたが、誰も彼を慰めるものはおりません。
彼はネムの街の、悪名高き首切り職人の一族の跡取りであったのです。
さて。ネムの街にはこんな言葉があります。貴方も知っていますでしょうが、敢えて言わせていただきますと――「首切り職人と目を合わせるな。目が合えば地獄に引きずり込まれるぞ」、「首切り職人に触れてはなるまい。触れればたちまち体が腐敗するぞ」、「首切り職人と言葉を交わすな。呪いの言葉を吐かれるぞ」――なかなかにユニークな言葉ですが、吐かれる側からしたらたまったものではありません。民意というのは恐ろしいものですね。ですがそれがネムの街の常識であり、事実なのです。彼らの中で、首切り職人は穢れの象徴、悪人といえど人の命を奪う死神そのものでした。
ミカサが神に使命を下したように、ミカサもまた、街を統治するにあたって一人の青年に使命を与えたました。罪を犯した人の刑罰を担ってほしい、と。ですので、首切り職人の一族は、ネムの街がミカサによって統べられて以来、罪人の刑罰を代々担っております。罪状の軽さ、或いは重さにより、様々な刑を、街の中央広場で行います。ご想像にお任せ致しますが、首を切ったり、骨を砕いたり、八つ裂きにしたり、様々です。刑は街の中央広場で行われます。まあ、処刑は娯楽の一種としても見られていたのです。首切り職人については悪だ穢れだと言う割に死刑執行には嬉々して見にいくあたり、人間も矛盾した生き物です。
もし彼が、これが天から与えられた我が主命だと割り切り、人の命を断つことに躊躇いがなかったのであれば、民意などに屈することはなく、己の仕事に邁進したことでしょう。悪魔のごとき心を持っていれば、その役割に対し享楽的な想いで持って臨んでいたでしょう。
しかし彼はどちらも持てませんでした。彼は善良かつ、細い心の持ち主だったのです。
ものがたりはバチストが18歳。老齢の父に変わって首切り職人の座を継いだ直後になります。場所はネムの街13地区の貧民街。窃盗も暴力も日常茶飯事。聖アントワーヌ教会の祭壇下での出来事が発端でした。
バチストには敬愛する司祭がおりました。ドミニコというその司祭はネムの街の第13地区。貧しき人びとが軒を連ねる一角の教会で、ミサと奉仕に力を注いでおりました。彼はバチストが幼き日に通っていた学校で、神学の教師を務めておりました。
バチストにとって彼は尊敬する教師であり、敬愛する司祭であり、唯1人の友でありました。バチストの家から教会までは距離がありましたが、彼は唯一の友との語らいのため、しょっちゅうドミニコの教会を訪れていました。
ドミニコの知識は幅広く、また彼が行う説教も興味を引くものでございました。神は何故、星のかたちに世を創りたもうたか。ネムの街は何故世界の中心なのか。祈りと癒し。神の言葉を語る時、ドミニコの唇は滑らかになり、愛に満ち溢れていました。
百万都市のネムの街では、毎日何かしらの刑が行われておりますので、当代の首切り職人のバチストはそれなりに多忙な日々を送っておりました。ドミニコはそんな彼を温かく迎え入れ、時に傷心のバチストを慰め、時に神について互いに語り合いました。
彼の教会で下働きをしている一人の少女がおりました。藍色の瞳は海の底のごとき深い色。秋の色彩のごとき栗毛を、腰まで垂らしていました。常にはにかんだ弱々しい微笑を浮かべております。グリゼというのが彼女の名前でした。彼女は大層うつくしい娘でしたが、バチストの目から見て奇妙なことがふたつだけありました。
ひとつは、彼女は口を常に閉じていることです。
ミサを彩るのは合唱隊が歌う聖歌です。13地区の聖アントワーヌ教会では、教会付近に住む子どもたちが合唱隊を担っておりました。合唱隊の子どもたちには、ミサ終了後、ドミニコや修道士から甘いお菓子が振舞われていました。
グリゼは合唱隊の端に並んではおりましたが、彼女の口は閉ざされたままでした。彼女は他の子供たちとあまり馴染んではいないようで、いつも1人でした。閉ざされたままの口が関係しているかもしれません。
あまりにも気になったので、ミサの終わりにバチストは思い切って尋ねてみました。グリゼは、ネムの街の言葉を知らないわけではありません。事実この教会にやってくる子どもたちは、誰もバチストに話をかけません。ですが、彼女は無視するでもなく静かな瞳で彼と向かい合いました。
彼女は常に黒の単衣を着ているだけでなく、首にストールをつけていました。バチストの問いに、グリゼは首のストールに手をかけました。みてもらった方が早いと思ったのでしょう。
白い喉に浮かび上がる大きな傷痕が、バチストの目に移ります。
『昔ミサで歌う歌の練習をしていたら、酔っ払ったお父さんに殴られたの。五月蝿い、邪魔だって。酒瓶で殴られたんだけど、当たった場所のひとつがここだった』
もう一つ、グリゼはバチストが気になっていた事を説明しました。すかすかの左の袖。箒を使うのも、ナイフを扱うのも右手で、左手を扱うところをバチストは見たことがありませんでした。それもそのはずで、彼女の左腕は、肘から下が喪失していたのです。
『左腕は壊血病を患って使い物にならなくなったから。お医者様の判断で切り落とされた。利き手じゃなかったら大変だったかもしれない』
グリゼはバチストに、淡々と感情なく、みずからの生い立ちについて語りました。声が出ないので筆談で。当時、一般市民の識字率は低かったのですが、彼女はドミニコ司祭に教えてもらっていたので、多少の読み書きができるようになっていました。
13地区でも貧しい区画に生まれたこと。父親は酒乱で悪魔のような男で、母親は淫売で姑息な女だったこと。今日食べるものにも困る生活の中で、両親から逃げるように暮らしていたこと。7日に一度の全体ミサの時が救いの時間だったと。歌うのだけが生き甲斐だったのだと。母親は梅毒で、父は泥酔したのち頭を強打して亡くなったあと、ドミニコの助力でなんとか生活できるようになったと。……そして自分のような生い立ちの人間なんて、腐るほどいるのだとも。
『わたし、あなたが羨ましい。あなたには立派な家があって、社会的に役割がある。……あなたの仕事はとても立派で、愛に満ちた仕事だと思うわ。』
つるりとした腕。閉ざされたままの口が、バチストの仕事を褒め称えます。深海の瞳は、バチストの神なる造形をまっすぐに捉えておりました。海の底には水晶が眠っているのかもしれません。瞳に秘めた水晶は、バチストの目にはまるで鏡のように思えてなりませんでした。
『司祭様には感謝しています。わたしはもう歌えないけど、わたしに文字と生きる術を与えてくださったのです』
バチストは己に恥を覚えました。今まで、どうして自分が、人から恐れられるような役目に従事しなければならないのか。……そんな自分を哀れんでばかりで、もっと周りを見ようとしていなかったのではないか。みずからの浅ましさを突きつけられた気分になったのです。
その日から、バチストはもう一人の友を得ました。ミサが終わり、誰もいなくなった教会で、グリゼとバチストは静かに語り合いました。
ドミニコもグリゼには特別に気にかけているようでした。グリゼは司祭の館の下働きをしておりましたので、他の子供よりも、彼女に手を添えるのも、確かに理解ができることではあります。
だんだん、だんだん関わりを持つうちに、バチストはグリゼに強い思いを抱くようになりました。彼女は甲斐甲斐しく働き、それを誇張しない控えめさをもっておりました。欠けたからだで、当たり前のように働くグリゼの姿が、バチストにはいとしくてたまりませんでした。
グリゼもまた、バチストと話すうちに彼の穏やかで繊細な人柄や、優しさに惹かれていったのでございます。
この子の、この人の隣にずっといられたら。
互いにそう思うまで、それほど時間はかかりませんでした。
それは、ある夜のことでした。バチストは聖アントワーヌ教会の、隣の粗末な小屋に向かって歩いておりました。
グリゼが首に巻いていたストールは穴だらけでぼろぼろになっておりましたので、バチストは彼女に新しいものを贈ろうと決めておりました。この日の夕方に注文していたものが届いたのです。早く彼女に渡したい一心で、足を動かしておりました。
ですが、小屋を叩いても反応はありません。失礼を承知でとびらを開けましたが、判明したのは彼女の不在でした。
心当たりは教会しかありません。そっと、今度は聖堂の扉を開けてみました。
……月のない夜でした。天は闇。雲は無く、すべての光が天から消え失せております。満月は人を惑わせるといいますが、神の光が沈黙した夜こそ、人の汚れた所業を覆い隠すには丁度いいのでしょう。
バチストの呼吸が止まります。目の前の光景があまりにも受け入れがたいものだったからです。
祭壇の横。そこは会衆からは死角になっております。跪いた司祭の下に、ほそい人影が組み敷かれていました。蠟燭の火もともされぬ暗闇の中、人影の肌の白さだけが、やわらかく光っているかのようでした。
……神について説いた唇が、少女の喉元に残る大きな傷を執拗に舐め回しておりました。祝福を与えた右手はからだの奥へ奥へと潜っていきます。乱れた長い栗毛が一面に広がります。真っ暗な海の底のようでした。手慣れた仕草でした。彼は、今までも、彼女か、それとも別の誰かにしたことがあったのかもしれません。司祭の舌は喉元から胸元にくだり、少女のからだをなめくじのように這いずり回っていきました。あたりには、衣類と穴だらけのストールが散乱しております。
少女は、されるがままでした。声を上げようにも、喉は今は亡き父によって潰されております。片腕では抵抗も出来ません。無にしてすべてが過ぎるのを待つより、彼女に残された道はありませんでした。
ただ、老いたる司祭の醜悪な息遣いだけが鮮明にバチストの鼓膜を震わせました。
ことりと、少女の頭が傾きます。少女の瞳にバチストの姿が映っているのかは、その時の彼にはわかりませんでした。
少なくともバチストの両目は、彼女の瞳を捉えておりました。何もない、虚無な瞳。
これは夢だ。私は今、悪い夢を見ている。ではなければ、敬愛する師が愛する人を組み敷いたりはしない。事実であるはずがない。
バチストは音も立てずに足を動かし、その場から去りました。去ったあとも、バチストの心に残った、虚ろな深海の底に潜んだ水晶が鏡となって問いかけます。
……それが事実であっても。
それが事実であっても、あなたはわたしを受け入れてくれるのかと。
それから数日、バチストはグリゼに会うことはありませんでした。教会に行っても、13地区を回ってもグリゼの姿は見当たりません。
バチストは、やはりあれが夢であって欲しかったのです。司祭はいつも通りの穏やかさで、バチストと会話を交わします。
ただ、彼女だけが欠除していました。
さらに数日が経ったある日。バチストは王宮に赴き、いつものように、刑の命令書を受け取りました。
名前を見て、大きく目を見開きます。
明日刑を執行する死刑囚の名前は、グリゼ・バッティスタ。
罪状は姦通罪。告発したのはドミニコ司祭でした。
刑が執行される前の死刑囚は、監獄に収監され、面会できるのは限られた人間だけです。家族、弁護人、そして首切り職人だけでした。
司祭の言い分はこうでした。彼女は可憐で人々の同情を買うような姿をしているが、何人もの男性を堕落させ、関係をもった悪女だと。彼女は自分も誘惑してきたが、大いなる神の力で打ち克てたのだと。
それが嘘だということを、バチストは確信せざるを得ませんでした。あれは夢ではなく、バチストの目の前に横たわった現実だったのです。
ですが、事実かどうかなど関係はありません。誰が言ったのか、が、この場合大事なのです。そして、聖職者と貧民街に住む少女なら、前者の言葉を裁判官は信用するのです。
……バチストはグリゼに会いに行きました。牢の中で、グリゼは静かに佇んでおります。腰までの豊かな髪は顎先までの長さになっておりました。首を切るとき、髪は剣の邪魔になるのです。髪を縛るよりも、刑の邪魔にならない長さに切る方が効率がいいのです。
バチストはグリゼに駆け寄り、欠けたからだを抱き寄せました。初めての抱擁に、バチストは身が焼けるほどの熱を己のからだに感じました。
瞬間、バチストは悟りました。たとえあれが現実でも関係ない。自分は、彼女という人間を心の底から好いているのだと。
このやわらかい熱を、バチストは死んでも離したくはなかったのです。だから彼はグリゼに提案しました。今からでも間に合う。一緒に戦って、無実を勝ちとるべきだと。
『だめ』
グリゼは静かに拒絶します。片腕で、自分を絡め取る男の腕から逃れました。
『あなたの綺麗な手に、わたしのからだは釣り合わない。あのとき、あなたがわたしを見ていたのを、わたしは知っていた。去ってしまったあなたを見て、辛くて、悲しくて、わたしには冷たくて暗い絶望しか残らなかったわ。この世では、ぜったいにあなたとは結ばれないってわかったから。……でも思ったの。このまま身を任せていれば、いつかきっと公になって、あなたがわたしを殺してくれる。その時だけ、わたしはあなたと交わることができるって』
グリゼはバチストの手を取りました。首を刈るバチストの手を綺麗だと言ったのは、彼女が初めてだったのです。
彼女はすべて知っていました。知った上で、バチストを責めるでもなく静かに受け入れたのです。
『お願いバチスト。わたしを殺して。わたしはあなたの隣にはいられない。このまま生きていても、きっと苦しいだけ。でも、あなたの手にかかるなら、わたしは幸せなの』
バチストは必死に思考を巡らせました。自分は一体、彼女に何を伝えるべきなのだろうか。事実に耐えきれず、結果的に逃げてしまったことへの謝罪だろうか。それとも、自分はまだあなたを慕っているという愛のことばだろうか。
考えた末に、バチストにはどちらも言えませんでした。自らの弱さを簡単に許してほしいなんて、これから生きていく人間の傲慢だとしか彼には考えられなかったのでしょう。また、逃げた人間が今更愛しているなんて、浅ましいにもほどがあるのではないか。
何も言う資格がないのなら、せめて彼女の願いは叶えたい。それが彼女からバチストへの愛に対し、唯一応える行為に他ならないからです。
わかった。ならばせめて、君が苦しくないように、綺麗にいのちを刈りとってあげる。
もう一度、バチストはグリゼを抱き寄せます。先ほどよりも強く、深い抱擁でした。
少女はその言葉に応えるように、片腕を愛する男の背に回したのでございます。
グリゼはその後、望み通りバチストの手によって首だけになりました。大勢の観衆の前で。神の使徒を誘惑した悪女として。
刑は昼に執行され、彼女の首はその日の陽が沈むまで広場に晒されておりました。
穏やかで、幸福に満ちた死に顔でした。
……誰もいなくなった広場で、バチストは一人きりでグリゼの首を持ち上げ、向かい合いました。死後、時間が経った大事な少女の首は、青白く、微かににおいを放っています。腐敗が始まっておりました。断面はまだ赤く、乾ききってはおりません。ぬらぬらとバチストの手のひらに絡みついていきます。バチストは首に顔を近づけ、どす黒く変色した唇にそっと己の唇を重ねました。
グリゼはその瞬間こそ、私たちの交わりだと言っておりました。
彼女の言った通りでした。
――その瞬間。バチストは確かに、愛する女との交わりを感じたのです。手に握った鈍い光を放つ鋼鉄の刃が、むき出しの白いうなじに食い込む瞬間。剣に感覚器官はありませんが、肌の滑らかさ、柔らかさがバチストの右手に伝わり、全身にかけめぐって行きました。それはどうしようもなく甘やかで、さざなみのような痺れでした。
人々からすれば瞬きをする間もない一瞬。
しかしバチストにとっては永遠にも似ていました。
血に濡れた手のひらを見て、バチストは密かに思いました。
真紅の血はやがて皮膚に染み渡り、からだの一部になるのだろう。
だからこの血は拭わない。
この血こそ、彼女と確かに交わった証になるからだ。
*
……以上が、ネムの街の第25代首切り職人と、彼があいした少女のものがたりです。
蛇足をお伝え致しましょう。
その後、バチストはグリゼの処刑から数年経った後に、父に請われて親戚の女性を妻に娶りました。彼らの間には一人息子が生まれ、バチストは彼女をとても大事にしました。しかし、妻からは何処か夫が一線を引いていると感じられていたようです。
ドミニコはその後も何食わぬ顔で聖アントワーヌ教会の司祭を務めておりましたが、ある晩秋の夜、季節外れの雷が教会に落ちて亡くなりました。それは満月の、神の光が煌々と闇を照らす夜だったそうです。不可思議な現象に誰しも首を傾げ、また善良な司祭の死に涙を流しましたが、死を伝えられたバチストは静かに眼を閉じるのみでした。
バチストは死ぬまで誠実に仕事を行い、苦しまずに罪人が天に召されるように工夫を凝らし、自分の手にかかった人間が安らかに眠れるように祈り続けました。仕事を行う彼の首には、彼女に渡すはずだった黒いストールが常に巻かれていたそうです。
この2人のものがたりについて、わたくしが言えることはひとつだけです。それは、グリゼと同じように、愛するものの手にかかるなら、わたくしも本望だということです。
これをお聞き下さるあなたにも、これを語りますわたくしにも、ここまで思いあい、愛し合える人に出会えるのでしょうか。
もし出会えたなら。
彼女のように刹那の幸福を手に入れることも、悪くないのかもしれませんね。
……あら、お客様。申し訳ございませんが、閉館のお時間がやってまいりました。お相手は、あらゆる記録を網羅し、記憶を語ることを生業とします、ネムの街の聖堂図書館の、第一司書にしてものがたりの語り手。わたくし、リア・ド・カテドラルがお送りしました。ご縁がありましたら、この図書館でまたお会い致しましょう。その時にはまた、別のものがたりでおもてなし致します。
それではお客様。ごきげんよう、さようなら。