一章 第二話エミシとキビ団子
―4年前、ヤマトの国大市近郊
アキツ島の奥深く、山々に囲まれた場所に実り豊かな国が在る。
名をヤマト国と言う、中央には湖が広がり、その周りの土地は全て、稲を植えればこと如く実り豊かな穂がつく。
山々は全て彼等の守りの盾となり、湖も川も外敵も容易近付けることも出来ない壁となる。
山の中の奥地にあると言うのに水運が盛んで、諸国との輸送も連絡も容易でもあった。
この実り豊かで、外敵も襲わず、船で諸国と繋がる事で交易も盛んだった、当時のヤマト国。
その中央に広がる湖を、今一艘の船が、北風に運ばれて湖南東の太市へと流れつく。
船は丸木をくりぬいて作られた船、帆は無い。太陽の下を導かれる様にゆっくりと進む。
編まれた莚がその上部を覆い、中の人間を冷たい風から隠していた。
秋も終わりのころである。
水が絶えず舟底を叩く、その鈍い音を聞いていると、船の持ち主はこの水を飲めれば良いのにと思った。
持ち主の名はコムクリと言う。
ヤマトの海の水は真水であるが、決して飲めない、必ず腹を壊す。
腹を壊せば水はさらに体から出て行き、さらに体を枯らす。
ソレを知るコムクリはもう二日も水を飲んでいない。彼は櫂を失い陸に辿り着く事が出来ないで居た。
目の前には陸地が遠くにある、だけどもそれは全て遠いのだ。
コムクリは泳げない。
泳ぎを学べば良かったと、船底で波に丸二日揺すられながら、コムクリは強く後悔をしていた。
運命を天に任せ、船に積まれていた莚と、身に纏うエミシ装束で風をしのぎ、太陽をしのぐ。
そして今……夜が来るまでは、顔を此処から出す事もしないで、二日を終えようとしている。
この二日雨が無かったのは幸いだった。あれば体は冷える。
火も焚けぬ船の上では、それは命の危険を招いた、天候だけは彼に味方する。
そんな彼が、陸地の上に居ない事に何も感じない筈も無く。湖の水に恐怖し続けた。
船が転覆したら死んでしまう等、陸地にいたら考えもしない事が頭をよぎる。
そんな恐怖の中、船底のコムクリは、筵の下で身をよじり、手を動かす。そして傍らにあるか肩掛けの、荷物袋を見た。何度見ても袋の中身は変わらない。
思わず「食うモノも、残り僅かだ……」と呟いた。
自分のうかつさを呪う、櫂がこれほど重要だとは思わなかったコムクリ。追撃者と争う内に、湖に流されてしまった時は、きっとなんとかなると思ったのだが、今は高い代償をこうして払う事になっている。
(水……水が飲みたい。
いっそ湖の水を飲もうか?
いやだめだ、のんだら腹を壊してしまう……)
この一両日、そんな事ばかりを考え、そして同じ答えが胸で反復する。
やがてこんな彼を憐れんでくれたのか、夕方から北の風が勢い良く吹き始めた。
勢い良く動き始めた舟、コムクリは思わず莚より顔を出し、舳先の方へと目線を投げた。
舳先には黒い人型が宙に浮く様に佇んでいる、人型に顔は無い、ただ茫洋と浮いている。
人型はやおらに声をコムクリにかけた『良かったではないかコムクリ、おそらくそなたの苦難は終わるだろう』
「エツ王、それは真で。
助かりました、感謝します!」
黒い人型の本当の名は知らない、コムクリはエツと言う国から来たと言う、このアヤカシをエツ王と呼ぶ。コムクリにとりついている亡霊である。
エツ王は言った『私に感謝する必要はない、神がそなたに恩寵を授けたのだろう』
エツ王の言葉には親しみが混じっていた。
エツ王はコムクリを導く、そして物事を教える教師でもある。
……彼にも目的が在った。
その説明は後にする。舟はこの言葉通りに動き続けた。
船は風に運ばれて念願の陸地へと向かう。
水辺に近づくにつれて、ザーザーと言う潮騒の音がコムクリにも聞こえて来た。
音の違いが明らかになるにつれ、コムクリは生き残ったと思った。
まず真っ先に思ったのは水である、川の水を飲もう。すぐに跳び出して川を見つけよう。
水への欲望で心が逸る……
やがて船は丈の高い葦の林を押し倒すように陸地へと近付いた。
やがて舟底からズッ……ズッ……と言う音が、波が低くなる度に立ち始め。その度に右へ、右へと舟が回る。
舟底を岸辺の土がこすり始めたのだ、いよいよ舟が陸地に辿り着いた証拠である。
荷物を持って降りようとした時、エツ王が言った『コムクリよ、降りるのは待て、もう少ししてからの方が良い』
喉の渇きと、二日に渡って自分を苦しめた湖への恐怖で、思わずコムクリが声を上げる。
「エツ王、降りなければまた風が変わる、そうしたらまた湖に戻されてしまう……」
“我はそんなの嫌だ”と言う前に、風を切る音がして、コムクリの目の前を矢が通り過ぎた。
「!」
思わず頭をかがめ、舟底の奥へと身を沈めるコムクリ。葦の林の向こう、それほど遠くない場所から人の話し声が聞こえて来た。
「卑怯だぞ!貴様等、恥は捨てたかっ」
「なんとでも言うが良い、最早ヤマトはイズモの国主が納める所では無いのでな。
別に命までも取ろうとは思わん、ただ私に詫びを入れ、装束を正しく改めて、これから生きれば良いだけのことよ」
(諍いか……此処からでは良く見えぬ)
高く生い茂る葦が壁となり、声は届くがその姿をこちらに見せない。
船底で耳をそばだたせていると、声がさらに聞こえてくる。
「私はスサノ神の末裔として、何ら恥ずかしい装束を纏った覚えは無い!」
「ふん!スサノ神を崇める者は皆お前の様に装うと言うのか?
嘘を吐くな!貴様はその怪しげな姿で心を惑わしておる。
今日ここで装束をこれから改めると誓え!」
スサノ神は荒ぶる神であり、かつてヤマトを支配したイズモ人の神だ。
今ヤマトは天孫と呼ばれる、アワジから来た人間が支配しているので、どうやら両者がそれぞれイズモと天孫側の人間なのだろう。
コムクリは荷物の袋の口をきつく縛り直すと。船のヘリに、自分の木杖を立て掛けた。
太い木杖だ、灌木の丸太ほどもある。
諍いの声はその間も届き、やがて「やれ!」と言う声と共に、弓弦が鳴りやがこちらに再び矢が飛んだ。
首を狩る様に葦の茎を宙に切り飛ばし、矢がコムクリの脇を掠める。
切り飛ばされた葦の向こう、僅かに開けた視界から、諍いの様子が見える。
得意げに笑う4人の男が、一人のミズラを両耳の横に結った背の高い男を取り囲んでいる。衣服から察するに共にウェイ人である。
(なんと言う卑怯!)
ソレを見たコムクリは激昂した。
4人の男が一人の男を嬲ろうとしている、しかも弓矢まで持ち出して。
諍いの理由は知らないが、相手の衣服にケチをつけ、謝罪を求める為に徒党を組むのに飽き足らず、飛び道具まで用意した事にコムクリはもう我慢が出来なかった。
コムクリは、やおらに立ち上がると荷物を持ち、ソレを両者の間の葦原に投げ入れる。
音を立てて投げ入れられた荷物、諍う者共がコムクリと、その荷物を見る。
エツ王はコムクリのこの様子を見ると、苦々しげに呻き、そして姿を消す。
見て居られなくなったのだ。しかしコムクリはそんな事はお構いなしで、木杖を持つと水でぬかるむ葦原に突きいれ、棒に体を預ける様に高跳びして、両者の間に分け入った。
「な、なんだそなたは!」
卑怯者共の内、唯一髪を両耳の横に備える、髪型の男がコムクリに咎める様な声を送る。
コムクリは言い返そうとしたが、喉が渇き、ひりつく様な痛みで喋れなかった。
コムクリはそのままつらそうな表情で顔をしかめ、そして脅されていたもう一人の方に顔を向ける。
彼もまた乱入者に驚き、言葉も無い。
コムクリはその腰にヒョウタンが在るのを目ざとく見つけるとガラガラの声で言った。
「水をくれ……水をくれたら加勢する」
「!」
コムクリは綺麗なヤマト言葉をしゃべった、囲まれていた男はコムクリよりも背が高く、そして大変整った容姿をしていた。
男は面白い者を見たと言わんばかりに、目を輝かせながらニヤリと笑い、コムクリにヒョウタンを差し出す。
「すまない……」
コムクリはヒョウタンを受け取ると、栓を取り、一気に飲み干した。
ヒョウタンの繊維が少し喉に入る、それでもお構いなしに飲むコムクリ、片目でこちらを囲む4人の男達を見ていた。
喉からひりつきが取れ、気道が開いて行く。
二日ぶりの水、どれほど恋い焦がれたか……
飲み干したコムクリは一息つくと、4人の男達に向きあった。
[卑怯であろう!どのような諍いが在るにせよ、4人で一人の男を嬲る等。
しかも弓矢まで持ち出して……恥ずかしくないのか!」
「な、なんだと!
エミシが我々に意見する等、無礼にも程が在るわっ!」
支配民族のウェイ人に、此処まで直言するエミシなど普通は居ない。
あってはならない侮辱に、4人の男の怒りが一気に膨れ上がる。
コムクリは叫んだ「我はエミシでは無い!太市の生まれだっ。訳在ってエミシ装束を纏っているだけだ!」
ミズラを頭に備えた男は叫んだ「たわけた事を!こいつを叩きのめせッ!」
3人の男は彼の部下であろう、一人は弓に矢を番え、ある者は棒きれを持ち、コムクリに向かう。
コムクリは手にした木杖を頭上に構え杖の先を。相手に向けながら下に垂らす。
そして足を開いて腰を少し落とした。
衝突前の、独特な緊張が両者の間に流れ、そして共に黙って互いに睨みつけて行く……
戦いのきっかけはコムクリから作った、大きく踏み込み、弓を携えていた男の手首を、跳ねあげる様にしたたかに打つ。
「貴様っ!」
たちどころに他の二人がコムクリに打ってかかる、コムクリは足を動かし、右に一歩ずれながら右に居た相手の足のくるぶしを撃つ。
まるで灌木の様な木杖の一撃は重く、そして動きは小枝の如く早い。
男は立ちどころに横に回転しながら地面にたたき落とされた。
ブンッと猛々しい音を立て払い終えた木杖。
その尻がコムクリの背後に回る、ソレを正す事無くコムクリは木杖の頭と尻を無駄なく役割を入れ替える。
そして再び木杖を残る三人に向けた。
木杖は側面の全てが刃であり、その両端が突きいれる切っ先であり、石突だ。
その戦い方は他の武器よりも自由度が高い。
丸太の様な木杖を軽々と振り回すコムクリに、思わずたじろぐ敵達。
ミズラを結った相手が「貴様、何者だ?」と尋ねるとコムクリは「我の名はコムクリ……」と答える。
そして再び腰を落とし、そして頭上に掲げる様に木杖を構えた。
切っ先が再び相手の足元めがけて垂れる。
ミズラの男はその様子を見ると苦々しげな表情を浮かべた。
そしてコムクリの背後に居る、優男に目線を投げると苛立たしげに言った。
「イサゼリノモモカヒメ!
今日の所はこれで引いてやるっ。
だが忘れるな、そのような装いは、ミコトもまた許さぬ!
今日の事はミコトに報告するからなっ」
やがて彼は周りの者に「行くぞ……」と告げると、踵を返していずこへと歩き出した。
倒れた者も、そして手首を撃たれた者も、痛みに顔をしかめながらその後を追う。
「…………」
残る一人は、未だ構えを崩さないコムクリを凄味のある形相で睨みつけると、殿を務めてこの場を立ち去った。
敵が居無くなったことで安堵したコムクリは、構えをほどいて、溜息を吐く。
パン、パン、パン……
背後から拍手の音がしたので振り返ると、先程自分に水をくれた、優男が満足そうに微笑みながらこちらを見ていた。
「見事な腕前だ、コムクリとやら」
「いえ……通りすがっただけですから、水を馳走頂きありがとうございます」
それだけを言い、このまま立ち去ろうとしたコムクリ。しかしこの優男は「コレはお前のだな?」と言って、荷物を持って話しかける。
「あ、ソレをお返しください」
「もちろんだ、しかし随分と重いな。
その木杖を手に持ち、これだけの荷物を持って何処に向かう?」
「……西の果てです、その前に生まれ故郷を見たかっただけです」
「うん?生まれはヤマトか」
「ええ、太市の片隅に生まれました。
再び故郷を見る事は無いかもしれませんので、見納めのつもりで……」
コムクリは、此処で初めてマジマジとこの優男の顔を見る。
先程諍い相手の男は、彼をイサゼリノモモカヒメと言った。当然“ヒメ”と呼ばれるからには女性な筈だが、目の前の人間は男性の装束で、しかも身分が高い者らしく、ミズラを両耳の横に備え、手首には赤と黄色の玉髄の腕輪、そして首元には白みを交えたヒスイの首環を付けていた。
衣服も見事な麻の装束である。
身長は高く、大柄と云われたコムクリよりもさらに高い。まるでアヤ人のようだ。
確かに顔立ちは女性と言われても通じる様な、整った甘い顔立ちではあるが、意思の強そうな瞳の色を見ると女性だとは、思えなくなる。
(聞き間違えたのだろう)コムクリはそう解釈した。
「急ぐ旅か?」
優男の声に、コムクリは黙って首を振る、期限が設けられた旅では無い、だが必ず果たさなければならない旅である。
「私はイサゼリヒコ、双神山の造(長官と訳すべきか?)オオシバヒコと、双神山の巫女であるキヌカワノ巫女の子である。
助けてもらった礼がしたいのだが、家に来てもらえまいか?」
双神山の造と聞いてコムクリは、愕然とする。
双神山の造と言えば、かつて天孫との戦いに敗れたイズモ衆の頂点に居る者であり、ヤマト衆からは睨まれている者達である。
自分が、かつて全く縁がなかった高貴な身分の、人間を助けた事に驚く。
急ぎコムクリは言った。
「い、いえ……恐れ多いので。
それに旅の垢にもまみれ、我は汚穢に覆われております。
身を清めても居ないのに、そのような場所に赴くなど……」
この時、コムクリの腹が“グゥ”と鳴った。
言えに招かれて礼を言われると言うのは、食事をふるまわれると言う事である。
湖の波に揺すられる事が二日続いたコムクリは、まともな食事を食べていない。
心よりも体が、礼と言う言葉に反応する。
イサゼリヒコはこの音を聞くと「わはははは」と豪快に笑い、腰に下げた袋から、麻布にくるまれた黄色い団子を取り出し、コムクリに差し出す。
「まずは最初の礼だ、キビで拵えた団子だが夕餉(夕食)まではこれで腹を持たせ。
旅の垢も私の家で落とすと良い。
何心配はいらぬ、今家は母とバァさんと私だけだ。
丁度男手も欲しかった事だし歓迎されよう」
「し、しかし……」
「そなたオオシバヒコが子、イサゼリの馳走は受けぬと申すのか?」
そこまで言われると、コムクリは断る事が出来ず「よ、よろしいのですか?」と尋ねるのが精いっぱいになる。
イサゼリはカラカラと笑うと「ついて参れ、コムクリ」と言って太市に向かって歩き始める。
沈む日差しを背に道を行くコムクリとイサゼリ。
広大なヤマトの湖が、太陽で黄金色に輝き、水面が風で光ってうねる。
ひろがる葦原に、トンボ(あきつ)が飛び交った。
遠くの田んぼは、稲狩りが終わったばかりと言う事もあって水だけを満面と讃えて静かに揺らぐ。
コムクリは北を見た、自分が着た方角、フワの関はあのはるか向こうにある。
そこを強引に破ってここまで来てしまった。
追手は太市にまで手を伸ばして居ないだろうか?
途中イサゼリは、湖の淵に佇む大岩を見てコムクリに言った。
「コムクリ、そなたは何時までこの太市に居た?」
「いつまで?冬の雪を八季はワダで見ておりました。
なので八年になるかと思います」
「ワダ?ワダとはどこだ」
「スワの湖のさらに奥にあります」
「スワの湖か……噂には聞く。
私の叔父がそこに向かったと、聞いたが、知っておるか?」
「……タケミノ方様ですか?」
「そう言う名前だったかな?
生まれてすぐのこと故、詳しくは知らぬ」
「私の育て親が、ワダのエミシでオンジと申します。
オンジは彼にイノシシを売ぎました、タケミノ方様は、その後追手に討たれて死んだと聞きます」
「な、なんとっ!そなたはソレの縁者かっ!」
イサゼリは驚き、嬉しそうに目を見開いた。
「嬉しい、まさかこのような所で巡り合うとは。
イズモの縁者なら、我が家はそなたを粗末に扱わぬ!」
そう言ってイサゼリはさらに気持ちを高ぶらせ、コムクリを招く。
コムクリは、心から歓迎されると知って、思わず心から喜んだ。
道すがらコムクリはヤマトの湖の淵に佇む大岩を見る。
かつて、あの大岩は湖の中にあった筈だと思った。
一瞬湖が小さくなったのか?と思ったがたちどころにかぶりを振りイサゼリの後を追う。
日が暮れきる前、キビの団子を喰らいながら歩くコムクリは、遠く幾つもの見張り櫓が立ち並ぶ街を見つける。
他の場所では決して見る事がない大きな集落"太市"が湖の水を引き込んだ、環濠のむこうで、幾つもの焚火を焚きながら二人を出迎えている。
かつて奈良盆地は広大な湖であったそうです、そして当然ですが弥生時代の遺跡、縄文時代の遺跡はその湖が在ったと推定される場所の周りを囲むようにして存在します。
湖の水運はきっと彼らの生活を支えた大動脈であった事でしょう。古代日本の首都が何故奈良県でなければならなかったのか?そこにはちゃんとした理由が在るのです。
太市のモデルは纏向遺跡です、此処は神武天皇が作った最初の都、橿原宮が傍にあり、古代大和からの文化や富の蓄積がなされていた所でした。地図を片手に古代大和に思いをはせるのも面白いですね。
古代奈良の湖は、最後の痕跡が、平城京建設時に湿地を埋めた事で完全に消滅します、その前の飛鳥時代にはもうほとんど消えても居ますから、神武天皇が見た大和の姿に、古代の奈良湖は存在しなかったかもしれません。
感想、評価、関係が無さそうな雑談、お待ちしております