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第九話 夏――熱を帯びたこころ

 朝、カーテンから差し込む太陽の光で陽菜子は目を覚ます。ガバリと起き上がり、首を傾げた。

 昨晩、どうやって帰ってきたのか、覚えていない。それどころか、夜の記憶が途切れていた。

 頭を抱え、ゆっくりと振り返る。

 あのあと、陽菜子と八月一日ほづみは浅草に戻り、居酒屋に向かった。とても、オシャレな店で食事をする気分にはなれなかったのだ。

 焼き鳥を食べ、酒を飲み、八月一日ほづみのしようもない話を聞いていたことは覚えている。そこから先の記憶がなかったのだ。

 体は――なんともない。心からホッとする。しかし、別の心配が脳を過った。

 学生時代、友達に「異性の前で酒を飲み過ぎるな」と注意されたことがあったのだ。その時、多大な迷惑を掛けたようで、以降、酒の飲み方は気を付けていたのに、昨晩はイライラしていたからか、ついつい飲み過ぎてしまった。

 酔ったらいったいどうなるのか。陽菜子は知らない。八月一日ほづみに向かって正拳下突きでも決めたのではないかと、青ざめる。

 時刻は五時半。電話に出ない可能性があったので、友達に酔ったらどうなるのか、確認のメールを送る。返信ではなく、電話が掛かってきた。

 相手は旅行代理店に務める友達、絵美里。


『陽菜子、やっちゃったの?』

「うん」

『相手は?』

「仕事関係の人」

『既婚? それとも独身?』

「わからない」


 八月一日ほづみについてはほとんど何も知らない。この先も仕事の付き合いをしていかなければならない人だ。酔って暴れて迷惑を掛けたのならば、全力で謝罪をしなければならなかった。


「で、私、酔ったらどうなるの?」


 正拳突きか、それとも貫手突きか。柔道の技も少しだけ使える。どんな技を決めたのかは問題ではなかったが。

 そんな心配を他所に、絵美里は意外な事実を口にする。


『陽菜子、あなたね、酔うと――可愛くなるの』

「はあ!?」

『普段滅多に笑わないのに、終始ニコニコして、相手の話を上目遣いでじっと聞き、ほどよいタイミングで相槌を打ったり、凄いって褒めたり』

「な、何それ……」


 話を聞いて、愕然とする。

 暴れるのと同じくらい、タチが悪いとショックを受けていた。


『普段の顰めっ面で不愛想、中身ゴリラな陽菜子とは大違い。酔っ払うと深窓のご令嬢になるの。毎回記憶もなくなるようだから、気を付けなって、何度か注意したでしょう?』

「し、知らない。そんなこと、してないから」

『してた。証拠のムービーもどこかにあるよ。……前から思っていたけれど、陽菜子って本当は可愛い物好きの乙女な性格なんでしょう』

「そんなことないって」

『いや、ある』


 確かに、可愛い物好きだが、中身は乙女ではない。ごく普通だ。

 けれど、絵美里は否定をする。


『普通さあ、逆なんだよね。猫被るっていうの?』


 人は本省を隠し、世間を上手く渡っていくために猫を被る。


『でも、陽菜子は逆。普段、ゴリラの皮を被っているのよ』

「何それ……。ゴリラの皮とか聞いたことない」

『多分、世界中探しても、陽菜子だけだと思う』


 学生時代、飲み会で陽菜子の様子を見た男が紹介してくれと、何度か頼まれたことがあったと絵美里は話す。


『でも、断ったの。普段の陽菜子は、気を許さない相手には猛烈な塩対応だからって』

「知らなかった……」

『その辺のチャラ男は絶対にダメ。付き合っても続かない。陽菜子にはね、普段のゴリラと、心の奥に隠れた、臆病な猫ちゃんと、両方愛してくれる、懐の広い人がいいと思っているの』


 猫ちゃんと言われて、ドキリとする。初対面で、八月一日ほづみは陽菜子をそう呼んだのだ。


「そんな人、いないよ」

『どこかにいる。絶対に。ねえ、陽菜子、もう、ゴリラ脱ぎなよ。なんで、そんなに男に対して壁を作っているの? 昔、何かあった?』


 陽菜子の中で暴れ回る、可愛くないゴリラが頑ななのは、学生時代に好きな人から言われた言葉だろう。

 誰にも話をしたことがなかったけれど、良い機会だと思って絵美里に話してみた。


『そっか、そんなことあったんだ』

「うん」


 絵美里は気にするなと言う。照れ隠しだろうと。


「なんか、馬鹿みたいにずっと引きずっていて、昨日も、着物の反物を見に行ったんだけど、綺麗な菊の花も、私なんかが着たら、色あせる気がして――」

『ねえ、陽菜子。この言葉、知っている?』


 ――(かたち)、花にあらざる時は夷狄(いてき)にひとし。心、花にあらざる時は鳥獣に類す。夷狄を出で、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり


「何それ?」

『松尾芭蕉の紀行文の一部で、花が美しく見えないのならば、野蛮人と同じ。心に思う花が花でなければ、鳥獣と同じ。一度、まっさらになって、自然のありように従い、自然を知るべきだって言葉』


 綺麗な物を綺麗と感じないのならば、理由は自分自身の中にある。何があろうと、美しい花は何も変わらない。


 だから、ゴリラの皮は脱ぐべきだと、絵美里は言う。


『そんなわけだから。ま、こんなこと言ったけれど、私は一生懸命で、頑張り屋でもあるゴリラな陽菜子も好きだから。無理しないで、ほどよく自分らしくね。じゃ、また!』


 電話はあっけなく切られてしまう。

 いろいろな情報が入ってきて、混乱状態だった。

 とりあえず、今できることは、八月一日ほづみに謝罪すること。

 まずは、メールで詫びの言葉を送った。すぐに返信が届く。「昨晩は楽しかったです」という言葉に、心から安堵した。「また、飲みに行きましょう」とも。社交辞令だとわかっていたが、その一言に救われた。絵美里は可愛くなると話していたが、暴力を振るった可能性も捨てきれていなかったのだ。


 優衣にも、一応、メールに大切な話があるとだけ打って、送信しておく。

 二人の仲を引き裂くことはしたくなかった。けれど、将来を考えたら、黙っておくわけにもいかない。


 けれど、優衣から返事は届かなかった。


 ◇◇◇


 その日から、バタバタと忙しい日々を過ごす。

 原稿チェックに打ち合わせ、予算取り、企画の話し合いなど。気づけば一ヶ月ほど経っていた。

 鬱陶(うっとう)しかった梅雨は終わり、汗ばむ季節となる。

 そんな中で、陽菜子のプライベート用のアドレスに、一通のメールが入っていた。優衣からだった。 

 内容は一ヶ月前、八つ当たりをしてしまったこと、連絡を無視してしまったことへの謝罪が書かれていたのだ。許してくれるのならば、会って直接謝りたいとも。

 今まで浴衣のシーズンで、忙しかったのだろうと予測する。

 陽菜子は仕事が終わった夜に会わないかと提案した。銀座の店で待ち合わせをしたいとも書き込んでおく。

 優衣からOKという返信が届き、緊張感が高まった。

 今日、陽菜子は義人の浮気について話をするつもりだった。

 できれば、女将さんと問題の義人も立ち合わせる形で。可能ならば、仲裁役として零士も欲しいと考えていた。

 それらの人員が揃っているかは、運だと思う。

 定時ぴったりに、陽菜子は会社を出ようと立ち上がる。止める者はいない。挨拶をしたのちに、出版者をあとにした。


 一ヶ月ぶりの銀座の街。週末とあって、賑わいを見せている。

 陽菜子はまっすぐに、呉服店を目指した。

 ちょうど、のれんを下げている零士に出くわす。兄と同じく容姿は秀麗で背が高く、着物姿が似合っていた。黒髪で清潔感があり、控えめな雰囲気の繊細そうな青年である。


「どうも」

「ああ鷹野さん、お久しぶりです」


 以前、店にやって来た時に優衣から紹介があった人だというのを、零士は覚えていた。さすが、商売人だと思う。


「優衣はいますか?」

「いますが、ちょっと……」


 店内を指差す。そこには、言い合いをしているような女将と私服姿の優衣、間に入って困惑の表情を浮かべている義人の姿が――。会話の内容を聞かなくてもわかるほどの、修羅場であった。


「すみません、きっと長くかかると思います。なんでしたら、その辺に喫茶店にいたほうが……」


 そんな零士の言葉を無視して、陽菜子は店内へと入る。


「あ、鷹野さん」


 零士も慌てた様子であとを追った。


「――だから、どうして女将さんが反対するんですか! これは、私と義人さんの問題です!」

「いいえ、許すわけにはいかないわ!」


 再び、女将と優衣は結婚を巡って大喧嘩をしていたのだ。


「女将さん、理由をはっきり言って下さい! 私が、義人さんに相応しい女じゃないって!」

「そうじゃないって言っているでしょう!」

「じゃあ、なんなの!」


 女将は証拠を掴んでいないので、この場で言うことができないのだろうと推測する。恐らく、過去の義人の所業を知っているとか、女の勘で物を言っているとか、そんな感じなのだろうと思った。

 激しい言い合いをする中、陽菜子は間に割って入る。


「優衣、女将さんの言う通り、結婚は止めた方がいいよ」

「はあ!?」


 この時になって、優衣は店の中に入ってきていた陽菜子の存在に気づく。女将は、恥ずかしいところを見せたと言って頭を下げていた。義人は、相変わらず困った表情でいる。


「私、見たんだ。優衣の婚約者が、新宿のホテルで女と密会しているところを」


 愕然とする優衣。「嘘でしょう?」と震える声で呟く。女将は怒りの表情を浮かべ、義人を問い詰めていた。


「あなたって子は!!」

「か、母さん、それは……」

「はっきりなさい! 昔から、女関係にだらしなくて!」


 あろうことか、義人はこの場で浮気を否定した。優衣は一瞬嬉しそうにしていたが、女将は信じていない。


「優衣さん、この子は昔からそうなの! 呆れるくらいの女好きで!」

「母さん、俺も心を入れ替えたんだ。優衣と付き合いだしてから」

「嘘おっしゃい! 前にね、聞いたのよ、常連の加藤さんに」


 表参道のブランド店の前で、義人が女性と腕を組んで歩いていたと。その日、優衣は非番だったのだ。


「その場に、優衣さんがいなくて、ホッとすればいいのか、悪かったのか、判断に苦しんだわ」


 この件を明るみにすれば、せっかくの婚約も解消となる。女将も、優衣との結婚で心を入れ替えるかもしれないと、心のどこかで望んでいたのだ。


「でも、日に日に、罪の意識に苛まれて……」

「それで、女将さんは優衣に藍染めの反物にメッセージを込めて渡したのですね」


 コクリと頷く女将。


「ねえ、陽菜子、どういうことなの?」

「藍染めは虫除けの意味があるの」

「それは、知っているけれど。昔の野良仕事をする人達は、作業着とかにも使っていたのでしょう?」

「そうじゃなくって、女将さんは優衣に暗に伝えたかったの。自分の息子は悪い虫だって」


 その発言に待ったをかけるのは、悪い虫本人である義人。怒りの形相を浮かべ、陽菜子に迫る。


「あなた、失礼じゃないですか? 家の問題に勝手に踏み込んで! それに、私が悪い虫だという証拠がどこにあるのですか?」


 陽菜子は無表情でスマホを取り出し、義人だけに浮気相手とホテルの受付でイチャついているムービーを見せた。絶句する義人。だが、すぐに我に返り、暴言を吐く。


「あとをつけていたのか? 最低だ。それに、プライベートを勝手に撮るなんて!」

「いいえ、偶然あなたが映り込んでいたんです」


 彼氏ができて、初めてのホテルで浮かれていた。記念にムービーを取っていたら、偶然義人が映りこんだのだと、作り話を語って聞かせる。


「なっ!」

「奇遇でしたね」

「あっ、お前、エレベーターに一緒に乗り込んでた女っ、見覚えあるなと思ったら……やっぱり尾行じゃないか!」


 威勢が良かった義人だったが、映像が弁解のしようのない場面に移り変わり、呉服屋の空気が凍り付く。


「優衣、こいつは本当に友達なのか?」

「え?」

「品がない。礼儀も知らないようだし、閉店後の店に押しかけるのもどうかしている」


 豹変した義人に、愕然とする優衣。女将は呆れたとばかりに、溜息を吐いている。


「お前も、家庭の問題に口を出して、どう落とし前を付けてくれるんだ!」

「浮気なんて最低最悪。こんなの、家庭の問題にするほうが馬鹿げているんだから!」


 そう言い返した刹那、義人は陽菜子に手を挙げた。

 手の平が頬に当たる瞬間、陽菜子は手首を取り、一歩踏み出して義人の踵を掬うように刈って倒す。

 大柄な義人はあっさりと、床の上に倒されてしまう。綺麗な小内刈こうちがりだった。

 すぐに立ち上がり、顔を真っ赤にして怒り狂う義人。

 暴行を受けたので、警察に連絡すると言う。

 それに待ったを掛けたのは、意外な人物だった。


「先に手を出したのは兄さんだから、そんなことをしたら捕まってしまうよ。それに、品がなくて、礼儀がなっていないのは兄さんだ。鷹野さんに謝って」

「は?」


 淡々と、静かな怒りを表情や言動に滲ませる零士。陽菜子を庇うよう間に割って入り、兄に詰め寄っていた。


「ずっと、兄さんのスーツに染みついた香水が気になっていたんだ。取引も何もないのに、こそこそと、出かけている様子も、おかしいなって。浮気がバレていないと思っていたのがめでたすぎる」

「零士、何を――」

「証拠を見せられて尚、しらばっくれるんだ。着物には誠実に接するように言っていたのに、人は簡単に裏切るんだね。優衣さんが可哀想だ」


 義人は今まで弟に歯向かわれたことがないのか、カッと顔色を赤く染め、零士の着物の襟元を強く掴む。

 拳を握って振り上げたが、優衣が体当たりをするようにして、義人を引き止めた。


「止めて、喧嘩しないで!」


 すぐに、乱暴な仕草で振り払われる。ふらついた優衣を、零士が支えた。

 我を失ったように見える義人は、呆れた質問を投げかける。


「優衣、こいつらの言うことを信じるのか?」


 優衣は目を伏せ、頷いた。そして、やっぱり結婚はできないと言う。


「母さんのいうことは聞かなかったのに、零士の言うことは聞くと言うのか?」

「違う」

「何が違うんだ!」

「陽菜子が言ったから」


 優衣は語る。山梨から東京の大学にやって来たとき、身に纏っていたギャルファッションは田舎者みたいだと馬鹿にされたことを。


「けれど、陽菜子は違った」


 可愛いけれど、流行からちょっと遅れているみたいと、こっそり指摘してくれたのだ。それから二人は仲良くなり、一緒に雑誌などを回し読みしながらオシャレについて研究をした。


「私、着物も好きだけど、ギャルっぽい恰好も好き。ここに就職するから卒業したけれど、陽菜子は今でも変わらなくて、バリバリ仕事もしていて、羨ましいと思っていた」


 そんな学生時代からの親友が言うことなので、絶対に間違いないと話す。


「だから、義人さんとは結婚しない」


 優衣ははっきりと宣言し、女将と零士に深々と頭を下げた。

 それから、陽菜子の腕を掴んで店を出る。

 二人は逃げるように走った。誰も追いかけてこなかったけれど、そうしたい気分だったのだ。

 駅前のカフェに入り、ひと息吐く。

 注文していた柚子レモンティーを、優衣は生ビールのように一気飲みしていた。

 そして、眦に涙を浮かべて内なる気持ちを爆発させる。


「陽菜子~~、ごめんねえ~~!!」

「いや、いいけれど」


 どうやら落ち込んだ気配はなく、あっけらかんとしていた。


「でも、いいの?」

「何が?」

「結婚。話し合いとかしなくても?」

「いいの。陽菜子に暴力を振るおうとしたり、暴言吐いたりする人と結婚なんてできないから」


 理由はわからなかったが、ここ最近胸騒ぎみたいなものを感じていたと話す。


「零士君の話を聞いて気づいたんだ。香水とか、挙動不審な様子とか、わかっていたのに見ない振りをしていたんだなって。結婚すれば、胸のざわつきも治まるだろうって、思い込んでいたの」

「そっか」


 今回のことで店を解雇になっても構わないと言う。そうなれば、髪を金に染めて、ギャルファッションで働ける会社に再就職をすると、嬉しそうに語った。


「でも、女将さんは優衣を手放さないと思うな」

「どうして?」

「なんとなく」


 そういえば、昨晩八月一日(ほづみ)から着物のクリーニングが完了したと連絡があったことを思い出す。


「ごめん、陽菜子。あの反物、拾ってくれていたんだ」

「まあね。クリーニング終わったらしいよ」

「うわ、クリーニングまで。本当にごめんね。今度、お寿司を奢るから」

「楽しみにしている」


 反物はどうするかと聞けば、このあと店に戻らなければいけないので、今日は難しいと言う。


「話し合いはしたほうがいいね」

「うん……また、後日に」

「今日、そこに行こうと思っていたから、ついでに受け取って来ようか?」

「いいの?」

「いいよ。お寿司に飲み放題つけてもらうから」

「わかった。よろしくね」


 陽菜子は気になっていたのだ。藍染めを見て気づいた八月一日(ほづみ)の憶測が。

 優衣と別れ、浅草の花色衣へ向かう。


 ◇◇◇


 閉店後だったが、八月一日(ほづみ)は笑顔で陽菜子を迎え入れた。


「こんばんは。お久しぶりですね」


 八月一日(ほづみ)とは以前一緒に尾行をして以来だった。


「あ、藍染めのクリーニングの受け取りでしたね」


 八月一日(ほづみ)は桐箪笥の中から、たとう紙に包まれた反物を取り出す。

 泥まみれだった反物は、元通りの綺麗な姿を取り戻していた。陽菜子はお礼を言って受け取る。


「実は、この反物を巡る事件が解決したんです」

「ああ、それはよかったです」

「多分、八月一日(ほづみ)さんの推理通りだったかと」

「それは、残念でしたね」


 陽菜子は問う。どうして、藍染めの悪い虫のメッセージに気づいたのかと。


「まずは、婚約者の方が弟さんのお師匠様だったという点ですね。有名な、藍の言葉があるでしょう」

「……青は藍より出でて藍より青し?」

「そうです。意味はご存知で?」

「青は藍よりも青いって意味だったかと」


 八月一日(ほづみ)は正解ですと笑顔で返す。

 藍とは染料の元である藍玉のことで、染まった青は原料よりも青く染まることから生まれた荀子(じゅんし)の言葉だ。


「あと、もう一つ意味があるんですよ」


 それは、弟子が師匠の技量などを超えることを意味する。


「きっと、女将さんはご長男よりも、次男と結婚して欲しかったのかな~と」

「なるほど」


 さらに、芝草にも込められた意味があると話す。


「芝草自体に意味はなくてですね、凄くわかりにくいメッセージなのですが」


 スマホを取り出し、キノコが移った画像を陽菜子に見せる。


「これ、零芝草(レイシソウ)というキノコでしてね」

「あ!」


 音の響きを聞いて気づく。

 弟の零士(れいし)零芝草(レイシソウ)の音の響きはよく似ている。

 そして、零芝草(レイシソウ)の漢字の中に芝草があったのだ。


 藍染めの『虫除け』。

 青は藍より出でて藍より青しにある、メッセージ。

 着物の柄の芝草に込められる、『零芝草』と『零士』の、言葉の共通点で選ばれた反物。


 義人は浮気性で優衣と結婚しても、長くは続かない。それよりも、真面目で一途な零士を選んでほしい。


 女将はそんなメッセージを込めて、反物を手渡した。


 謎のすべてが解明され、がっくりとうな垂れる陽菜子。


「こんなの、気づくわけが……」

「ですよね。よく作り込まれたメッセージでした」

「でも、なんで、こんなの知っているのですか?」

「偶然です」

「そうだったんですね」

「はい。うちの師匠せんせいがボケ防止に飲んでる薬膳酒に、零芝草が含まれていまして」


 零芝草(レイシソウ)は薬用酒の原料などに使われる。毎回、八月一日ほづみが注文していたので、名前を覚えていたのだ。さらに、零士の名を聞いて、もしかしたらと、女将のメッセージに気づいたと話す。


「教えてくれたらよかったのに」

「いや~、ちょっと無理があるかなと。憶測で口にできる話題ではありませんでしたし」

「まあ、青は藍より出でて藍より青しとか、何も知らない他人の婚約者に対して、失礼にもほどがあるし」

「ええ、私もそう思いましてね」


 陽菜子ははあと、盛大な溜息を吐く。モヤモヤは綺麗に消え去ったが、酷い疲労感を覚えていた。


「大丈夫ですか?」

「大丈夫じゃないです。精神的に疲れました」

「でしたら、陽菜子さんも師匠せんせいの薬膳酒を飲みますか? 神経衰弱にも効くそうですよ」

「いいです。お酒はしばらく控えておきます」


 酒の話で思い出す。

 この前のお詫びにと、銀座でお菓子を買っていたのだ。八月一日(ほづみ)に手渡す。


「すみません、これ、この前のお詫びに。遅くなってしまい、申し訳ありませんでした。少しバタバタしていまして。……まさか、家まで送っていただいていたなんて」

「いえいえ、お気になさらずに。しっかりしているように見えたのですが、心配だったので」

「ありがとうございます」


 にこにこしている八月一日(ほづみ)に、恐るおそる尋ねる。空手の技を決めなかったかと。


「そんなことなかったですよ。終始楽しくお話をしただけです」

「申し訳ないことに、まったく覚えていなくて」

「大丈夫です。大した話はしていなかったので」


 再度頭を下げ、謝罪をした。


「恥ずかしい限りです」

「そんなことなかったですよ。酔っ払った陽菜子さんは、いつもと違っていて――」


 陽菜子は絵美里の話していたことを思い出す。


 ――陽菜子は酔っぱらうと、可愛くなるのよ。


 顔を真っ赤にさせ、耳を覆って八月一日(ほづみ)の感想を聞かないように努めた。


「陽菜子さん?」

「あれは、普段の私じゃなくって」


 子どもの頃、可愛い物が好きで大人しかった陽菜子。お人形遊びばかりしていて、友達の輪の中に入って行くのが苦手だった。

 それを見かねた母親が、習い事をするように勧めたのだ。兄にくっついていくようにして始めたのが空手。ふと、幼い頃の記憶が蘇る。


 酔っ払った時にでてしまう姿も、陽菜子の本当の姿だったのだ。


「す、すみません」

「いいえ、とんでもない。どちらも可愛らしいので、得した気分です」


 その言葉を聞いた瞬間、憑き物が落ちたような気分となる。

 陽菜子は顔を逸らすだけでは照れを隠しきれないと思い、くるりと踵を返す。


 不思議な気分であった。

 心の靄が晴れたような、軽くなったような。


 その中で記憶の中にあった、華やかな反物の菊の花を思い浮かべる。

 今ならば、受け入れられるのではと思った。


 数年経ち、やっとのことで忌まわしい出来事から吹っ切れることができたのだ。


 最後に、八月一日(ほづみ)に伝えた。

 仕立てに使う反物は、この前選んでくれた菊模様に決めたと。


「え、本当ですか?」

「はい。今から、買いに行こうかなと」

「だったら閉店後、一緒に買いに行きましょうよ」

「いいです。一人で行きますので」

「そう言わずに」


 街中では、ジジジジ……とひぐらしが切ない鳴き声を奏でていた。

 一日中暑い毎日であったが、夕暮れ時になれば、幾分かは涼しくなっている。

 瞬く間に、季節は移り替わろうとしていた。

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