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第五話 大失敗

 あっという間に桜が散り、鯉のぼりが泳いでいたと思いきや、いつの間にか雨がさらさらと降る季節となる。

 陽菜子は一年の中で一番梅雨の時期が苦手だった。

 まず、湿気が凄くて髪が上手く纏まらない。毎朝早起きをして髪の毛と格闘することになる。次に、傘を持ち歩くのが面倒で、さらに、満員電車に濡れた傘を持ち込むのも嫌だった。

 本日の天気予報は雨のち曇り。降水確率は十パーセント。大丈夫だろうと傘を持って行かなかったら、駅に到着する前に降りだした。霧のような雨だったので、鞄の中の折りたたみ傘でなんとか凌ぐが、傘を畳んでいる間に電車を一本逃してしまった。けれど、なんとか遅刻せずに会社までたどり着いた。

 陽菜子が『雅』の編集部に異動して早くも一ヶ月が経った。まだ仕事に慣れておらず、あたふたとする毎日を過ごしている。

 昨日習ったことを復習しつつ、今日のスケジュールを確認していた。

 そんな中、陽菜子しかいなかったフロアに、編集長の鈴木がやって来る。


「おはよう!」


 憂鬱な雨なんてなんのその、今日も元気よく挨拶をしてきた。


「おはようございます」

「もう毎日雨続きで、困っちゃうわね」

「そうですね」


 朝から頼まれた仕事は、撮影場所での補助作業だった。


「後藤君は直で現場に行っているみたいだから」

「あ、はい」


 後藤というのは『雅』のベテラン編集で、四十代の男性。鈴木と違い無口で、職人のような気質をしている。取材や打ち合わせ、撮影などで日中はほとんど編集部におらず、幻の存在と化している。

 撮影に行くのは二度目。『minet(ミネ)』とは違い、人数が少なく、規模が小さい撮影が特徴であった。


「じゃあ、よろしくね」

「はい、行ってきます」


 大きなカバンを渡され、現場に派遣される陽菜子。

 いくつかの小物と、カタログが入った封筒、それから差し入れのお菓子を買うように頼まれた。


「スタッフは全員で二十人くらいかしら? 女性ばかりだから、喜びそうな物をよろしくね」

「わかりました」


 撮影の差し入れの買い物は『minet(ミネ)』で何度も任されたことがあった。撮影現場の駅の近くに人気の菓子店(パティスリー)があるので、そこで買ってから行こうと考える。

 撮影現場は世田谷区にあるリノベーションされた古民家。

 しっかり差し入れを購入し、徒歩では遠いのでタクシーで向かった。

 両手にお菓子が入った紙袋を持ち、古民家の中へと入った。今日は特集ページの撮影で、写真に写らない場所ではメイク道具が広げられていたり、着物が掛けられていたりなど、雑多になっている。

 『minet(ミネ)』の撮影現場は音楽がかかっていたり、スタッフやモデル同士で会話を楽しんだりと、和気あいあいの雰囲気だった。一方で、『雅』の撮影現場は静まり返っている。

 陽菜子はスタッフに挨拶して回り、カメラマンの斜め後ろに陣取っていた後藤に声をかけた。


「お疲れ様です」


 後藤はちらりと陽菜子を見るだけで、挨拶も何もしない。こういう不愛想な人だと鈴木から聞いていたので気にも留めず、託されていた小物やカタログを手渡す。


「あ、あと、鈴木編集長に頼まれて、差し入れを持ってきました」


 紙袋を持ち上げて示せば、後藤の眉間はぐっと狭まる。


「なんだ、それは?」

「クリームチーズタルトです」


 陽菜子が答えれば、チッと舌打ちをして返す。それからぼそりと、モデルの分は持ち帰れるようにしておけと、命じられた。

 休憩時間用に買ってきたのに、なぜ持ち帰り用にしなければいけないのか。このお菓子は『minet(ミネ)』のモデルやスタッフにも好評だったのだ。問題はないはずだと、陽菜子は思う。

 腑に落ちなかったが、上司の言うことは絶対。不機嫌を押し隠しつつ、クリームチーズタルトをモデルの人数分、小袋に詰めていった。

 その後、スタッフ用のワゴンで休憩していたスタイリストやヘアメイク係に差し入れを持って行く。


「わあ、これ、夕方には売り切れているお菓子だ。嬉しい!」

「雑誌でも紹介されていて、一回食べたいと思っていたんですよ~」


 クリームチーズタルトはスタッフに喜んでもらえたようで、陽菜子はホッとする。なのに、なぜ舌打ちをされてしまったのか。いくら考えてもわからなかったので、隣に座っていたスタイリストに聞いてみた。


「あの、このお菓子、後藤さんに舌打ちされてしまったんですけれど……」

「あ~、わかるかも」

「え?」

「あ、ごめんなさい。私達はぜんぜん大丈夫で、とっても美味しかったんだけど、モデルさんは着物でしょう? クリームとかタルト生地を零されたら困るかな~って」

「あ!」


 着物にタルトの生地が落ちれば脂分で染みになる可能性がある。さらに、トロトロのチーズクリームが生地に付着すれば、大変な事態となるのだ。


「膝にハンカチを敷いていても、袖に付く可能性があるし、ちょっと危険かも?」

「ですよね……、すみません」

「いいの、いいの! 気にしないで」

「はい、ありがとうございます」


 着物への配慮の欠落。盲点だったと、陽菜子は反省する。思いつきもしない落とし穴だった。

 その後、夕方まで雑用をこなし、無事に撮影は終了となった。

 最後に後藤より借りていた小物を浅草の店に持って行くように言われ、落ち込みながらとぼとぼと撮影現場を離れることになった。

 世田谷から電車を二本乗り継いで浅草まで移動する。時間にして一時間ほど。

 レンタルショップに小物を返し終えた頃には、すっかり陽が暮れていた。

 陽菜子は人通りのない路地裏に入り、鈴木に報告の電話をする。そのまま直帰していいと言われ、お疲れ様ですと言って電話を切った。

 本日の仕事は終了。なのに、モヤモヤ気分がいつまで経っても晴れず、その場で祖母にも電話を掛ける。


『もしもし?』

「あ、お祖母さん……」

『陽菜子さん、どうしたのですか?』

「いや、ちょっと聞きたいことがあって……」


 祖母幸恵に、着物でも食べやすいお菓子を聞こうと電話をしたのだ。けれど、想定外の答えが返ってくる。


『別に、なんでも食べますよ』

「え?」

『私にとって、着物は普段着なので、気にしたことはありません』

「あ、そっか……そうだった」


 幸恵にとって着物は特別な服ではなく、生地を汚さないように飲食する仕草なども身に付いていたのだ。お礼を言って電話を切る。

 はあと溜息。着物のことなので幸恵に相談すれば解決すると思っていたが、当ては外れる。残念なことに、モヤモヤは晴れなかった。

 路地裏から大通りに出る。夜の街を歩いていれば、声を掛けられた。


「あれ、陽菜子さんじゃないですか?」


 目の前にいたのは、和装姿の男性――八月一日(ほづみ)。疲れていた陽菜子は、薄く微笑んで挨拶を返す。


「どうかしたのですか?」

「え?」

「なんか、元気がないように見えますが?」


 指摘されて、俯く陽菜子。弱みを見せたくない相手であったが、今は強がりを返す元気さえない。会釈をして、このまま別れようとしたが、夕食に誘われる。近くに、美味しい蕎麦屋があると言うのだ。


「お腹いっぱいになったら、元気になります。どうですか?」


 そこで、昼食も食べずに仕事をしていたことを思い出す。確かに、空腹だった。

 食事でもすれば、言われたとおり元気になるのではと思い、陽菜子はコクンと頷く。八月一日(ほづみ)と共に、夜の浅草の町を歩くことになった。

 徒歩五分ほどで、蕎麦屋に到着する。

 店内は四人掛けが四つに、カウンター席が八という小さな店だった。

 席に座れば、店員がメニューと温かいお茶を持ってきてくれる。疲れた体に、温かいお茶が染み入るようだった。


「陽菜子さん、今は桜エビが旬なんですよ」

「そうなんですね」

「ええ、ここのかき揚げは美味しいので、オススメです」


 桜エビの旬は年に二回。春から初夏にかけてと、秋。殻には食物繊維が豊富で、血液をサラサラにしてくれる。

 陽菜子は八月一日(ほづみ)のオススメを受け、ざるそばと桜エビのかき揚げのセットを注文する。 

 蕎麦を待つ間、二人は無言だった。疲れていて、話をする元気もなかったので、ありがたく思う。不思議と、気まずさはなかった。

 しばらくすれば、蕎麦が運ばれてくる。普通の盛りを頼んだのに、結構な量が盛り付けられていた。気合を入れて挑まなければと、箸を握る。

 まずは、薬味を付けず、麺つゆにつけて食べる。麺は太めで弾力があった。豊かな蕎麦の風味が広がる。つるりとした喉越しも良い。つゆは出汁が利いていて、麺とよく絡み合う。

 わさびはつゆに溶かすのではなく、麺に載せて食べる。そのほうが、風味を味わうことができるのだ。

 桜エビのかき揚げは一口大に分け、塩を付けて食べる。サクサクとした食感と、エビの香ばしい味わいがなんとも言えない。旬ならではの磯の香りと、豊かな甘みが口いっぱいに広がる。

 旬の食材と、美味しい蕎麦をしっかり堪能しつつ、食べ終えた。

 鞄を探りながら会計をしようとすれば、前を歩いていた八月一日(ほづみ)が二人分払い終える。陽菜子が千円札を二枚差し出せば、首を横に振った。


「え、でも……」

「お知り合いに着物のことで困っている方がいましたら、うちの店を紹介してください」


 出版関係のオファーもお待ちしておりますと、八月一日(ほづみ)は笑顔で言った。


「蕎麦は仕事の斡旋料ということで」

「わかりました。大変親切な和裁士がいると、宣伝しておきます」

「よろしくお願いします。世知辛い世の中ですので」


 八月一日(ほづみ)と食事をして、会話をしているうちに気分転換になったのか、心のモヤモヤも幾分かマシになっていた。けれど、根本的な解決にはなっていない。

 着物でも食べられるお菓子について。

 偶然にも、目の前に和装姿の男がいた。迷っている場合ではない。また、現場で呆れられたら立ち直れなくなる。陽菜子は勇気を出して、質問をしてみた。


「あの、八月一日(ほづみ)さん、少し、聞きたいことがあるのですが?」

「なんでしょう」


 夜の町を歩きながら、ポツポツと話す。


「着物を汚さないで食べられるお菓子って、ありますか?」

「練り切りとかですか」

「ネリキリ?」

「白餡を使って様々な細工をした和菓子です」


 そこで陽菜子は気付く。着物には相応しい、日本の歴史あるお菓子があったと。

 餡に細工を施した和菓子ならば、ポロポロと服に落ちる心配もない。差し入れイコール洋菓子というイメージがあったので、まったく思いつかなかったのだ。


「そうだ、和菓子……」

「それがどうかしたんですか?」


 陽菜子は気まずげな表情で、今日あった出来事を八月一日(ほづみ)に語ることになった。


「ああ、なるほど」

「今までいた編集部での差し入れといったらマカロンとか、シュークリームとか、パイとか、そんなのばかり買っていて……」

「今時の若いお嬢さんはあまり和菓子を食べないですからね」

「はい。頭が固くなっていました」


 教えてくれた八月一日(ほづみ)にお礼を言う。

 軽い調子でふざけたことばかり言う人だという印象が強かったが、それは思い違いであった。陽菜子が頑なな態度でいたので、本質を見逃していたのではと考える。


「本当に、なんとお礼を言っていいのやら」

「でしたら、今度デートをしてください」

「……」


 前言撤回。陽菜子は無表情となる。

 実は紳士で真面目な人だったと見なおした評価は一瞬で消え失せ、軽薄な和裁士という印象に戻った。

 けれど、今日の蕎麦を奢ってもらったことや、和菓子について聞けたことは感謝の一言しかない。なので、デートの件については引き攣った顔で「機会がありましたら」と答えておいた。

 八月一日(ほづみ)とは駅で別れる。


 このようにして、陽菜子の大変な一日は終わったのだった。

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