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第三話 思い出の、紫陽花の着物

 週末。

 祖母の家に向かう陽菜子は比較的大人しい恰好――Vネックのシャツに、黒いジャケット、ストライプのパンツ姿で出掛ける。派手なキャラメルブラウンの髪の毛を見せるのは初めて。驚かれないかドキドキだった。

 右手には和菓子店で買った饅頭の紙袋を持ち、祖母の家を目指す。

 向かう先は鎌倉。駅からバスを乗り継ぎ、一時間ほど揺られた先で降車する。

 バス停のすぐ目の前にある、白いなまこ壁に沿って歩く。そこは、すべて陽菜子の祖母の家を囲む壁なのだ。

 今日は日差しが強く、額に汗がじわりと浮かんだ。絹の白いハンカチを取り出して、そっと額を拭う。日傘を忘れたことを内心悔やんだ。暴力的な陽の光で、まだ桜が満開の春なのにと、内心溜息を吐く。

 やっとのことで門まで辿り着いた。目の間に広がるのは、立派な武家屋敷。

 表札に掲げられる名は、蘆屋(あしや)

 かつて、武家の都をして栄えた鎌倉の街は、当時の名残を多く残したまま現代に在る。

 蘆屋家もその中の一つで、立派な長屋門が来客を迎えていた。

 陽菜子の母親は生まれも育ちもお嬢様だったのだ。嫁ぎ先は普通のサラリーマンであったが。

 厳しい家庭環境で育った陽菜子の母は、娘にも同じような教育を施した。

 高校を卒業するまで、習字に算盤、水泳、空手など、多岐に渡って習い事をこなしていた。

 古き良き英才教育のおかげで、成績も優秀。おかげさまで、あおい出版には一発合格だったのである。

 そんな彼女を形作るきっかけとなった総本山、蘆屋家。

 門を潜り、玄関に繋がる道が通った庭を歩く。

 まず目につくのは立派なしだれ桜。はらはらと舞い散る花びらは、鮮やかな鯉が泳ぐ池の水面に落ち、波紋を作っていく。

 美しい春の景色を堪能しているうちに、母屋へとたどり着く。

 呼び鈴を鳴らせば、使用人が返事をして戸を開いた。


「こんにちは、陽菜子お嬢様。ようこそおいでいただきました。幸恵様がお待ちですよ」


 出迎えてくれたのは勤続三十年以上だという使用人、明子。苗字は知らない。

 靴を脱げば手早く靴箱に収納してくれ、祖母、幸恵の元まで案内すると言う。土産の饅頭は明子に手渡した。それは近くにいたもう一人の使用人へと受け渡される。

 長い長い廊下を歩き、やっとのことで辿り着いた。

 ずっと会っていなかったので、若干緊張していた。幸恵は厳しい性格で、背中が丸まっているだけで怒るような人なのだ。苦手意識があるわけではないが、何か言われるのではと、構えている。

 明子が障子を引けば、窓の外の景色を見ていた和装姿の幸恵が振り返る。

 桜がはらりと舞う庭園と、幸恵の纏う古典柄の蝶文様が一つの絵画のように見えて美しかった。

 白髪に染まった髪を団子状に纏め、薄い化粧を施した幸恵は淡く微笑み、陽菜子に声をかける。


「お久しぶりね、陽菜子さん」


 声をかけられてハッとする陽菜子。ぼんやりと、見とれていたのだ。

 慌てて挨拶をして、勧められるがままに、座布団へと腰を下ろす。幸いなことに、髪の毛について非難されることはなく、内心ホッとしていた。

 まずは互いの近況語りから始める。幸恵は月に一回、友達と東京に演劇を見に行くようで、とても楽しかったと話していた。陽菜子は着物専門誌『雅』などを編集する部署に異動になった話をする。


「まあ、陽菜子さんが着物の本を作るなんて、驚きました」

「うん、私が一番びっくりしたと思う」


 上手くいくか不安だと零せば、陽菜子は頑張り屋だから大丈夫と励ました。

 途中、お茶と茶菓子が運ばれてくる。

 茶菓子の饅頭はもちろん、陽菜子が買ってきた物だ。幸恵は久々に食べると言って、手土産を喜んでくれた。

 凛と微笑む祖母を眺めながら、陽菜子は将来こんな女性になりたいなと、改めて思う。

 ふと、母親の様子で引っかかることがあったことを思い出し、幸恵に聞いてみる。


「あの、お祖母さん、お母さんと着物のことで何かあった?」


 その刹那、険しい表情になる幸恵。その様子を見て、やはり何かあったのかと確信する。


「初恵が何か言っていたのですか?」

「いや、昔から、あまり着物についてよく思っていないようだったから」


 着物を愛する幸恵と、着物を嫌っているように見える陽菜子の母初恵。二人の間には、確執があるように感じていた。

 幸恵は大きなため息を吐き、事情を説明する。


「私が小さい頃から初恵に着物の着用を強く勧めていたから、嫌いになってしまったのかもしれないですね」

「そう、だったんだ」


 その話を聞いて、幼い頃の母親の言動を思い出す。


 ――着物は古くて、現代人が着るものではなの。あなたのお祖母さんみたいに、時代に置き去りにされてしまうわよ。


 そんな母親の考えが浸透していたので、成人式も振袖を着ようと思わなかったのかと、自己分析をしていた。それに加えて陽菜子自身、女性らしい着物は似合わないと決めつけていたというところもある。

 その二つが合わさって、着物への思いはややこしいものとなっているのだ。


「今思えば、幸恵には悪かったと思っています。私も、昔は大変な頑固者(がんこもの)でした」

「そっか……」


 手元にあったお茶を持ち、一口飲む。気まずい思いのまま、湯呑をテーブルの上に置いた。

 カコンと、庭の鹿威(ししおど)しの音が鳴り響く。


「それで、着物について知りたいと言っていましたね」

「えっと、はい」


 桐箪笥のある部屋へと移動することになった。

 そこは十畳ほどの和室で、箪笥の数は六つ。母から子へと、代々引き継いだ多くの着物が眠っているのだ。


「今の季節だったら、そうですね。こちらなんか、いかがですか?」


 幸恵は春牡丹の合わせを手に取り、陽菜子の肩にそっと掛けた。(とき)色の生地に、白い牡丹が描かれた一着である。

 着物を身に付けた陽菜子は顔を強張らせ、身動きが取れなくなった。


「どうですか? 今、鏡を――」


 幸恵は全身鏡の布を取り去って鏡を向けたが、陽菜子はちらりと見て、すぐに顔を逸らした。


「陽菜子さん?」

「あ、ご、ごめんなさい……ちょっと、微妙かなって」

「そうですか?」


 品のある、落ち着いたデザインだったが、薄紅色の女性らしい色合いで似合っているようには思えなかったのだ。幸恵には悪いと思ったが、着物を肩から取って返す。


「だったら、どれがいいでしょうか」

「あの、それよりも、私が子どもの時にお祖母さんが着ていた紫陽花の着物が見たいんだけど」


 そう言った刹那、幸恵から表情が消える。

 その時になって、陽菜子は思い出した。紫陽花の着物を見ていた時の幸恵は、なぜか悲しそうだったことを。


「あれ、駄目な物だった?」

「いいえ、そういうわけでは――」


 話しながら、立ち上がる。どうやら、別の場所に置いているようで、部屋から出ていった。

 数分後、たとう紙――着物を包む和紙にくるまれた着物を持って来る。

 机の上に置き、紙を広げれば、陽菜子は愕然とする。


「あ!」

「……」


 紫色の着物は色あせ、白い紫陽花の花には染みが浮かんでいた。

 すぐに着ることができない状態だったのだ。


「お祖母さん、これは?」

「ごめんなさい。保存状態が良くなかったみたいで」

「そんな……」


 幸恵は誰よりも着物を愛し、大切にしていた。なのに、こんな状態になるまで放っておくなんて、信じられない気持ちになる。

 幸恵は悲しくも切ない表情で、紫陽花の着物を見下ろしていた。陽菜子も呆然と、かつては美しかった着物を眺め、溜息を吐く。

 二人の静かな時間は、しばらく続いた。

 ブー、ブー、とスマホのバイブ音が鳴る。バッグの中から取り出せば、ネイルサロンのメルマガだった。内容は見ずに、そのままバッグの中へと滑り込ませる。

 再び見た幸恵の表情は元通りとなっていた。立ち上がりながら、話しかけてくる。


「陽菜子さん、着物は他にもあります」

「うん……」


 祖母の自慢の着物をいくつか見せてもらったが、紫陽花の着物のようにぐっとくる物はなかった。

 そもそも、陽菜子にとって着物は身近な物ではない。気になっていた紫陽花の着物以外特別な思い入れもなく、堅苦しい伝統衣装という印象があるのだ。

 ふと、八月一日(ほずみ)から、着物を着てみないかと言われた時のことを思い出す。真剣な表情で、冗談を言っているようには見えなかった。けれど、(かぶり)を振って否定する。


「陽菜子さん、どうかしましたか?」

「なんでもない」

「そうですか」


 その後、陽菜子は幸恵に着物についての話を聞いて、この日は帰ることにした。

 別れ際に、今日のやりとりは取材のようだったと言われ、反省する。

 着物に囲まれ、身構えてしまったのだ。次に会う時は、孫として自然に話せたらいいなと思った。


 電車に乗り、車窓から見える(あけ)に染まった鎌倉の街を眺めながら考える。

 どうして祖母は着物をあのような状態にしたのか。いくら考えてもわからなかった。

 今日見た哀愁(あいしゅう)を帯びた顔と、子どもの時の記憶に残っていた表情がどうしてか重なる。

 着物を駄目にしてしまっただけならば、過去に見た悲しみに満ちた幸恵の感情が説明できない。

 すぐに気になったものの、どうしてか聞きだせなかった。

 それに母親とのことも、悲しかった。

 もやもやとした気持ちを抱えつつ、藤沢駅で電車の乗り換えをする。

 夕方の小田急線は、今日も満員だった。


 ◇◇◇


 それから、仕事の引継ぎなどで忙しい日々を過ごす。そんな中でも、『雅』の編集部には毎日通っていた。

 編集部員は派遣社員の吉野を入れて現在三名。陽菜子が手伝いを申し出れば、信じられないほど重要な仕事を振ってくるのだ。自分が入社したての新人だったらと考えると、ゾッとする。

 覚えることも多く、ぼんやりとしている暇は片時もない。あまりの時間のなさに、悲鳴をあげそうになった。そんな陽菜子を見かけるたびに、励ましてくれるのは、ベテラン編集の吉野であった。


「慌てなくても大丈夫ですよ。じきに、慣れますので。時間はかかってもいいので、作業は落ち着いて、確実に」

「ありがとうございます」


 毎度、心が折れそうになる寸前に、吉野はこうして声をかけてくれる。陽菜子はその度に、頑張ろうと自らを奮い立たせるのだった。

 今日は『雅』の撮影で使った小物を、浅草の呉服店に返して直帰の予定である。

 平日だというのに、町中は観光客などでごった返していた。

 浅草は言わずと知れた江戸の下町で、古い店構えが当たり前のように並んでいる。

 偶然、以前八月一日(ほずみ)と会った小虎堂の前に出たので、しばし休憩することにした。

 店に入ると、今回も店の女将が元気よく出迎える。


「いらっしゃいませ!」


 陽菜子のことは覚えていたようで、二度目の来店を喜んでくれた。

 店に品目帳はないようで、壁にはある短冊からメニューを選ぶように言われた。

 白玉あんみつ、ぜんざい、おしるこ、最中、小倉アイス、かき氷(宇治金時、いちご)くずもち、ところてん、お雑煮、いそべ焼き、おでん、とり釜飯。

 空腹なので、どれも美味しそうに見える。

 迷いながら壁を眺めていると、ある張り紙が目に付いた。


 ――着物の問題、承ります 浅草和裁工房 (はな)(いろ)(ころも) 電話番号:○×ー▼○△◇


「ん?」


 陽菜子は姿勢を正し、メニューの斜め下に張られた紙を食い入るように見る。

 祖母の色あせた紫陽花の着物が頭の中を過ったのだ。

 着物が綺麗になるのならば、見てみたい。陽菜子はそう思い、花色衣の住所を調べれば、小虎堂から近いことが発覚した。

 陽菜子は白玉あんみつを食べ、軽く腹ごなしをする。

 サービスで抹茶アイスがトッピングされていた。黒蜜をかけながらいただく。白玉はもちもちで、こし餡の甘さもちょうどいい。酸味のあるみかんなども良いアクセントになっていた。あっという間に食べ終えてしまう。

 そのあと、仕事関係のメールを返信し、立ち上がると、店の女将に精算を頼む。

 花色衣は予約なしでの来店も大歓迎と張り紙に書いてあったので、一度着物について相談しようと決めたのだ。

 大通りから狭い路地裏を入った先にある和裁工房 花色衣。

 わかりやすい場所ではなかったが、なんとか辿り着くことができた。

 店にはガラスのディスプレイがあり、桜模様の着物が飾ってある。陽菜子は綺麗だと、着物に魅入っていた。

 ガラリと引き戸が開く音で我に返る。店から、和装の男性が顔を覗かせた。

 眼鏡をかけた黒髪の若い男。見覚えのある顔に陽菜子は目を丸くして、「あ!!」と叫んで指を差す。


「おや、陽菜子さんではないですか」


 驚き過ぎて言葉を失う。花色衣は八月一日(ほずみ)の勤め先だったのだ。

「奇遇ですね~」


 八月一日(ほずみ)の言葉なんて頭に入ってこない。完全に、混乱状態だった。


「名刺、書いてなかった……!」

「そうですね。出版関係は個人のお仕事なので、店の名前は入れていないんですよ」


 パクパクと口を動かすが、言葉はでてこない。

 そんな陽菜子を前にした八月一日(ほずみ)は涼しげな目元を細め、笑顔を浮かべていた。


「どうぞ、中へ」


 一人、余裕たっぷりの八月一日(ほずみ)。一方で、陽菜子は一人狼狽(ろうばい)してしまい、恥ずかしくなる。


「ご来店、ありがとうございます」


 最敬礼のお辞儀で出迎える八月一日(ほずみ)。顔を上げ、絶妙な角度で首を傾げながら、質問をしてくる。


「今日もお使い(・・・)ですか?」


 それは、前々回に会った時、着物についてまったくの素人だった陽菜子の様子が子どものお使いのようだったと、暗に言っているのだろうと思った。怒りと羞恥でカッと、顔が熱くなっていくのを感じる。言い返す言葉もなく、悔しさに奥歯を噛みしめる。

 そんな陽菜子を前に、八月一日(ほずみ)はさらに畳みかけるようなことを言った。


「それとも、着物のお勉強をしに来たのでしょうか?」


 我慢できなくなった陽菜子は、余りにも失礼な物言いに憤る。どちらも違うと、強く否定した。


「左様でございましたか。これは、失礼を」


 八月一日(ほずみ)はころころと笑うばかりで、怒りが響いた様子はない。思わず、考えていたことが口から出てきてしまった。


「なんて、意地悪な人なの」

「何かおっしゃいましたか?」

「お気になさらず、独り言です」


 まだ一歩も入っていないのに、帰りたいと思う陽菜子。けれども、ここまで来て引き返すわけにもいかないし、祖母の着物のことについても聞きたかった。感情に任せた行動をしてはいけないと、自らを戒める。

 導かれるがまま、足を踏み入れた。

 店内は反物など見当たらないが、巾着や下駄の鼻緒、小銭入れなど、着物の生地を使った小物は販売しているようだった。

 店自体の規模は小さい。いかにも、下町の店といった風情であった。


「どうぞ、狭い店内ではございますが」


 壁際には年期の入った和箪笥が壁に沿って置かれており、一段上がった床に畳が敷かれ、艶やかな菖蒲(しょうぶ)の着物が展示されている。

 ぼんやりと眺めていたら、背後から八月一日(ほずみ)が声を掛けてくる。


「それ、試着用なんです。よろしかったら、どうです?」

「え?」

「うちの店、仕立てのお客様がなかなか増えなくて、実際に着物を着てもらって、購買意欲を掻き立てていただく作戦を取っているんですよ」

「そうなんですね」

「どうぞ、触れるだけでも。とても良い生地ですので」


 生地は昔なじみの呉服屋が提供し、八月一日(ほずみ)が仕立てたと言う。客が気にいれば、まず呉服屋を紹介するようになっているのだと話す。


「初対面の時から、凄い着物を勧めますよね? 営業だったんですね。納得です」

「とんでもない。本心から、似合いそうだと思ったので言っただけです」


 疑心に満ちた視線を向けるが、八月一日(ほずみ)はケロッとするばかりである。


「似合いそうって、具体的には?」

「色白で、首が細くて、楚々(そそ)とした印象があるので、そう思いました」


 突然褒められ、思わず赤面してしまう。けれど、不審なくらいに微笑む八月一日(ほずみ)と目が合えば、すぐに我に返った。


「あの、それって、店に来た女性全員に言っているんじゃないですか?」

「そんなことないですよ。陽菜子さんだけです。心外ですね」


 先ほど仕立て着物の売り上げを伸ばす話を聞いていなければ、信じてしまうところだった。危なかったと、二、三歩、後ずさりながら思う。


「一度着てみませんか? ぜひとも、お召しになった姿を見てみたいのですが」


 着物を強く勧められて、反応に困る。


「そんな気軽な気持ちで着るわけには」

「別に、着物は特別な装いとは思いませんが」

「着るのに時間もかかるし、ちょっと面倒だなって」

「着付けを覚えれば、さして時間はかかりませんよ」

「それに、なんか、着ていたら苦しそうで」

「苦しくないです」


 次々論破され、陽菜子は追い詰められてしまう。最後に、言いたくなかったが、体型を言い訳にすることにした。


「私、凄く肩幅とか張っているし、腕とか腿の筋肉も凄いから、似合わないと」

「そんなことないですよ。陽菜子さんすらりとしていますが、きっとお似合になると思います」

「で、でも……」


 最後の砦だと考えていたことが否定され、頭の中が真っ白になる。八月一日(ほずみ)はそんな陽菜子に(とど)めの一言を口にした。


「ちなみに、今まで着物を着た経験は?」

「ないです、一度も」


 それを言った途端、負けたと陽菜子は認めた。まだ何か言われると戦々恐々としていたが、八月一日(ほずみ)は眉尻を下げ、少し悲しそうな表情を浮かべるばかりであった。

 そして、潜在意識の中に隠していたことを、あっという間に見抜かれる。


「どうやら、着物に苦手意識があるみたいですね」

「それは、否定しません」


 女性らしい恰好が似合わないと言われた過去、それから祖母と母親の確執。その二つが相俟って、陽菜子の着物への考えを歪めていたのだ。

 けれど、祖母幸恵の紫陽花の着物だけは別だった。心から綺麗だと思っていたのだ。

 気まずい思いを押し隠すように菖蒲の着物の袖に手を伸ばす。指先でそっと触れようとしたが、寸前で止めた。

 陽菜子にとって着物は、ショーケースの中にある高価な宝石と変わらなかった。触って汚したら、大変だと思う。


「どうかなさいましたか?」

「あ、すみません」

「大丈夫ですよ、安心してください。着付けは私ではく、女性のスタッフがしますので」

「それは当たり前です!」


 物思いに耽り、沈んでいた気持ちが一瞬で吹っ飛んでしまった。脱力してしまう。

 今日は時間があまりないと言って、試着は断る。まだまだ、着物への思いは複雑であった。


「申し訳ありません、立ったまま話し込んでしまって。どうぞ、そちらの畳に」


 座布団が敷かれた畳の上に座るように促される。陽菜子は素直に腰を下ろしたものの、落ち着かない様子でいた。


「それで、何かご相談でも?」


 にこにこしていた八月一日(ほずみ)であったが、仕事の話を始めると真面目な顔つきになる。

 陽菜子は一時休戦だと言い聞かせながら、着物の事情を語った。


「祖母の着物なんですが、保存状態が悪かったからか、染みとかが酷くて」

「左様でございましたか」


 もう一度、美しく鮮やかな着物を見たい。それが陽菜子のささやかな願いである。


「多分、大丈夫です。着物は綺麗になりますよ」

「本当に?」

「ええ、ここは着物のクリーニング屋ですから」


 花色衣は着物の仕立てや小物の販売などを行っているが、メインは着物のクリーニングであった。客は一般人から落語家、舞台役者など多岐に渡る。


「他に和服の寸法直しをしたり、生地を取り替えたり、綻びを直したりと、さまざまですね。この辺りは演芸ホールなどもあるからか、着物のクリーニング持ち込みが多いんです」


 実績があると聞けば、陽菜子はここに着物を持ち込みたいと思った。もちろん、祖母が許してくれることが大前提にあるが。

 その点について、八月一日(ほずみ)に伝えておく。


「承知いたしました。それでは、またのご来店をお待ちしております」


 陽菜子はすっと立ち上がり、店を出る。なぜか、八月一日(ほずみ)も一緒に出てきた。隣に並ぶので、眉間に皺を寄せつつ、質問をする。


「……なんですか?」

「遅い時間なので、駅まで送ろうかと思いまして。女性の一人歩きは危険ですので」

「心配ご無用です、空手を習っていましたので。不審者が寄って来たら目潰し突きをします」

「それ、禁止技じゃないですか?」

「試合での話です」


 目潰し突き――空手技の一つで、正式名称は『二本貫手突き』。人差し指と中指で目を突く攻撃で、危険なので試合で使うことは禁止されている。

 陽菜子の話を聞いた八月一日(ほずみ)は、口元を手で隠し、笑いを堪えていた。


「なるほど。でしたら安心ですね」


 陽菜子は一度会釈をしてくるりと(きびす)を返し、早足で浅草の町を行く。

 まだ時刻は五時過ぎである。太陽は茜色で、屋根やガラス窓を真っ赤に染めていた。

 歩きながら、はあと憂鬱(ゆううつ)な息を吐く。

 八月一日(ほずみ)という男は仕事の話をしている時は至極真面目であったのに、それ以外だと意地悪で軽薄な印象があり、心底苦手だと思ってしまう。

 なるべく深く関わらないようにしようと、決意を固めたのだった。


 ◇◇◇


 陽菜子の祖母、幸恵は着物のクリーニングに難色を示した。けれど、熱心に頼み込めば折れてくれた。数日後、桐の木箱に入った着物が届けられる。

 今日は日曜日で休み。花色衣に着物を持って行くことにした。

 日中は暑くなると天気予報士が言っていたので、薄着にしようとチェストを探る。選んだのは七分丈のトップスに、白いスキニーパンツ。化粧はいつもより薄くして、時間短縮。

 髪の毛は簡単に櫛を通し、ブローをかけてワックスで前髪を斜めに方向に固めた。

 片手にクラッチバッグを持ち、片手に着物が入った風呂敷を持って家を出る。

 日曜日の浅草の町は大変賑わっていた。外国人観光客も目立っている。

 人と人の間を器用にかき分け、陽菜子は進んでいく。こうして辿り着いた花色衣。他の和裁士がいることを願ったが、店内に佇んでいたのは――八月一日(ほずみ)であった。


「いらっしゃいませ。あ、陽菜子さん」


 どうしても名前で呼んでくる八月一日(ほずみ)に、呆れて物も言えなくなる。けれど、指摘しなければなあなあになってしまうので、強めの口調で「鷹野です」と訂正した。


「すみません、どうも鷹野さんと呼びにくくて」

「だったら、お客様とかでも構わないので」

「この先もお付き合いがあるかもしれないのに、他人行儀で呼ぶなんて、とんでもないことです」

「親しくない異性を名前で呼ぶほうがとんでもないと思ってください」


 ひと通り言い合いをすれば、どっと疲れてしまった。陽菜子は頭を抱え、「死ぬほど気が合わない!」と正直な気持ちを叫んだ。

 そんな反応を示されても、八月一日(ほずみ)にはまったく響いていない。飄々(ひょうひょう)としながら、さらなる一歩を踏み込んでくる。


「では、私達はもっと知り合う必要がありますね。どうでしょう、今晩、お食事でも?」

「いいえ、結構です」

「そんなこといわずに、物は試しと思って。あ、着物デートはどうでしょう?」

「もっとお断りです!」


 断固拒否の姿勢を崩そうとしなかった。その頑な過ぎる様子を見た八月一日(ほずみ)は、朗らかに笑っていた。

 本日も、陽菜子は口で勝てなかったのである。

 八月一日(ほずみ)は店内にある着物を眺めながら、しみじみと話しかけてきた。


「着物デート、憧れなんですよね~」

「高校生の制服デートみたいですね」

「そうです。それくらいの気軽さで、行きたいんですよ」


 普段着物を着慣れている八月一日(ほずみ)は気軽かもしれないが、付き合わされる女性側は大変そうだと思ってしまった。


「なんか、着物を汚さないようにすることで頭がいっぱいになって、食べ物の味とかしないような気がします」

「大丈夫ですよ。汚しても、私が洗いますので」

「それもどうなんだろう」


 汚した服を洗ってもらう。それは、女性としての面目など丸潰れになるのではと思った。


「え、でも、彼女の着物を洗うとか、ちょっと興奮しますよね?」

「私に同意を求めないでください。それに、多分それは特殊な性癖だと思います」

「そうでしょうか?」

「他の女性に聞いたら駄目ですよ。完璧に引かれますので」

「ちなみに、陽菜子さんは?」

「こう見えて、全力でドン引きしています」


 無表情で話す陽菜子の回答に、八月一日(ほずみ)は大笑いしていた。

 閑話休題、話は本題に移る。


「以前、染みと言っていましたが、着物を見ても?」


 返事はせずに、コクリと頷く。


「では、失礼をして」


 するりと、着物が入っている風呂敷の結び目を解き、たとう紙の紐を引いて開いた。


「これは……」


 色あせた紫陽花の着物。かつては色鮮やかで、美しい物だった。それを眺める幸恵の表情を思い出し、陽菜子は胸がぎゅっと締めつけられるような気持ちとなる。

 八月一日(ほずみ)はさきほどの軽い調子が嘘のように、真面目な顔で着物を見下ろしていた。

 しばらく眺めていたかと思えば「わかりました」と言って、たとう紙で着物を包み込む。そして、陽菜子を見ながら、説明を始めた。


「残念ながら、これは染みではなく、変色ですね。一部、染みもございますが」

「変色、ですか」

「はい。詳しく説明しますね」


 八月一日(ほずみ)は店のカウンターから一冊のファイルを取り出し、着物の端切れが張られた紙を示しながら話し始める。


「着物の染みは化粧品や汗、雨などに濡れてできたり、箪笥の中のちょっとした保存状況によってできたりするものです。これは、比較的簡単に取り除くことができます」


 どんなに大切に保存をしていても、できてしまうのが染みだと話す。


「一方で、変色は着物の生地の色が変わってしまうことを示します」


 変色の原因は多岐に渡る。経年変化によるもの、虫干し中に起こるもの、金糸や銀糸が発する化学変化など。


「じゃあ、もう着られないと?」

「いいえ。生地は復元することができるのです」


 ホッとする陽菜子。


「ですが、クリーニングには時間――数ヶ月ほどかかるかと……それに、この範囲であれば、お値段も少々」

「数ヶ月……まあ、それは構わないけれど」

「お召しになられるのは来年になってしまいますね」

「それは、どうしてですか?」

「こちらは、裏地のある袷の着物になります」

「もうすぐ単衣の時季だからってこと?」

「はい。それに、この紫陽花の柄は五月から六月に相応しい物とされています」


 四季の花々で彩られた着物は、その時季に着ることを良しとしている。

 さらに、季節を先取りして、帯や小物などでコーディネートし、美しく着飾ることを『粋』、そして『雅』なのだと八月一日(ほずみ)は説明していた。


「というわけなので、こちらの着物をお召しになる季節は限られてしまうのです」


 紫陽花柄で袷の着物。単衣の季節は通常六月くらいからなので、五月限定の着物となる。


「そうですか」


 再び、落胆する陽菜子。


「何か、こちらの着物に深い思い入れでも?」

「ええ、まあ、そんな感じです。近々、もう一度、祖母に着てほしいと考えていたんです」


 紫陽花の着物を着た姿を母親に見せたら、印象も良くなるのではと考えていた。

 二人に確執があるとしたら、どうにかしたい。そんな思いがあったのだ。


「お気持ち、よくわかります。素晴らしい京友禅の花模様です。さぞかし綺麗だったんだろうなと」


 けれど、幸恵はクリーニングに乗り気ではなかった。いったいどうしてなのか。想像もできない。


「どうかされましたか?」


 思いつめた表情で着物を眺めていたと指摘される。一人で考えてもわからないことだった。八月一日(ほずみ)に相談するのは癪だったが、他人に話すことによって判明することもある。陽菜子は事情を軽く話すことにした。


「祖母が、今回のクリーニングに乗り気ではなくて……。なんか、この着物を見る目が切なそうだったから、どうしてかなと」

「なるほど、確かにこれは……」


 何かわかったことがあるのかと聞いても、憶測なのでこの場では言えないと首を横に振る。


「もう一度、お祖母様とお話しされてみてはいかがでしょう?」

「それは……」


 幸恵の表情は陽菜子の中でも引っかかっていた。なんとなく、何も知らないままクリーニングを施すのはいけないような気がして、八月一日(ほずみ)の言葉に渋々頷くことになる。


「こちらは、お預かりをしておきましょうか?」


 電車の中で着物がもみくちゃにされたくないので、お言葉に甘えることにした。一応、着物を預けているという書類を交わす。


「では、責任を持ってお預かりをしておきます」


 八月一日(ほずみ)が着物を奥の部屋へと運んでいる間に、着物を纏った二十代前半くらいの若い女性がお茶と茶菓子を運んでくる。


「よろしかったら、どうぞ。お口に合えばいいのですが」

「ありがとうございます」


 お茶請けで出されたのは餡を柔らかな餅で包み、綺麗な抹茶色の粉が餅にまぶされた『うぐいす餅』。一口大の者物が長方形の皿に四つ並んである。

 上にかかっている物はうぐいすきな粉と呼ばれる物で、上品な香りと甘さがある。

 陽菜子はまず、見た目を楽しむ。餅の楕円形はうぐいすをイメージした物である。

 春の若草を感じるような甘い和菓子を、一口食べて熱いお茶で流し込む。

 陽菜子はしばし、至福の時を味わった。

 お茶を楽しんでいれば、八月一日(ほずみ)が戻ってくる。


「お待たせしました」


 陽菜子の緩んでいた頬は、八月一日(ほずみ)の登場で顰め面に戻った。

 八月一日(ほずみ)も何故か、陽菜子に出されたうぐいす餅を見て、眉間に皺を寄せる。そして、一言。


「ああ、うぐいす餅ですか……」


 目が合い、八月一日(ほずみ)が浮かべたのは困惑の表情。


「これは、うちの若い者が持ってきましたか?」


 陽菜子はコクリと頷く。


「それはそれは、すみませんでした」

「何か問題が?」

「うぐいす餅は春を告げる和菓子と呼ばれていましてね」


 通常、一月から二月くらいに食べる和菓子だと八月一日(ほずみ)は説明する。最近、外国人の観光客に向けて、さまざまな和菓子を売る店があって、そこで買ってきたのだろうと推測していた。


「なるほど。和菓子も、着物の柄と似たようなことをすると」

「まあ、そうですね。着物ほど先取りをしているわけでもないですが」


 通常、春は桜餅、花見団子など、桜をモチーフにした和菓子を出すことが多いと言う。


「私はそこまで気にしてないので。うぐいす餅、好きですし」

「ありがとうございます。安心しました」


 なので、どうか先ほどの若い女性を怒らないでくれと、心の中で願う。一見微笑んでいるように見えて、眼鏡の奥の目がまったく笑っていなかったのだ。

 そんな八月一日(ほずみ)は、陽菜子を見つめ、ぽつりと呟く。


「陽菜子さんは、優しいんですね」

「別に、普通です」

「またまた、ご謙遜を」


 これ以上八月一日(ほずみ)と会話を続ければ疲れるので、陽菜子は無言で二個目のうぐいす餅を食べる。柔らかな餅と餡は、瞬く間に口の中からなくなっていった。


「それにしても――」 


 八月一日(ほずみ)はうぐいす餅を眺め、しみじみとした様子で感想を述べる。


「うぐいす餅って面白いですよね」

「面白い?」

「うぐいすの画像を検索してみてください」


 陽菜子はスマホを取り出し、うぐいすと打って画像を見る。


「――あ!」


 うぐいすの羽の色は抹茶色ではない。淡い茶色だ。それなのに、食べ物で表現されるうぐいすは決まって鮮やかな抹茶色なのだ。花札などでも、梅の花にうぐいすの絵柄は有名である。

 正確に言えば、梅の花に止まるのはメジロだ。昔の人がうぐいすとメジロを間違えたという説もある。


「これ、なんでメジロをうぐいすと言っているのですか?」

「それはですね、うぐいすを若草色で表現するのは日本の古くからの文化らしいですよ。風情ある、美しさを表現する技法なのです」

「それは、わからなくもないような」


 うぐいすという言葉は響きが美しい。春を告げる言葉に相応しいと陽菜子は思う。

 日本の文化は奥が深いと、うぐいす餅を食べながら改めて思う陽菜子であった。

 お茶と茶菓子をしっかり堪能すれば、そろそろお(いとま)しようと立ち上がる。昼間であったが、今回も八月一日(ほずみ)は駅まで送ろうかと言ってきた。


「結構です。今日は夜でもないですし」

「ですが、今日の陽菜子さんはぼんやりしていて、なんか心配で」


 パチパチと瞬きをしながら、八月一日(ほずみ)を見る。

 母親や祖母のことを考えていたので、確かにぼ~っとしていた。そのことは認める。


「平気ですよ。私、そこそこ戦えるので」

「空手をされていたとおっしゃっていましたね」


 信じていないような声色であった。陽菜子はムッとして、ある提案をする。


「だったら、今、八月一日(ほずみ)さんが全力でかかってきてください」

「私が、不審者役を?」

「そうです。大丈夫だということを、実戦をもって証明してみせます」


 ぽかんとする八月一日(ほずみ)を前に、陽菜子は真剣な顔で拳を構える。

 陽菜子は高校時代まで近所の道場へ空手を習いに行っていたのだ。


「いやいや、でも、男女の体格差では、どちらが勝るかなんて、やるまでも――」

「私の中学時代のあだ名は、修羅の王、略してラオウです」


 想定外の異名に、八月一日(ほずみ)は目が点となる。


「なぜ、そのような名前で呼ばれていたんですか?」

「腕試しをしたくて、クラスの柔道部とか空手部の男子に戦いを挑んでいたんです。気付いたら、そう呼ばれていました」


 陽菜子の話を聞いて、ぶはっと吹きだす八月一日(ほずみ)。ちなみに、好きな人に「ラオウとは付き合えない」と言われ、空手は大学受験を理由に止めた。


「え~っと、もしかして、このまま襲ったりしたら、目玉とか潰されちゃいますか?」

「そうですね」


 両手を挙げ、八月一日(ほずみ)は降参のポーズを取る。陽菜子は拳を突きだす構えから、腕を組む格好に変えて満足げに頷いた。

 八月一日(ほずみ)には一度、実力を示しておきたいと考えるが、後日の楽しみに取っておくことにした。今日のところは、見逃しておく。


「では、また」

「ええ。またのご来店をお待ちしております」


 会釈をして、花色衣をあとにする。

 まずは幸恵に連絡をしなければ。そう考えながらの帰宅となった。

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