最終話 冬――春はもうすぐ
正月の挨拶と共に、祖母幸恵を歌舞伎に誘う。
『歌舞伎ですか。久しぶりですね』
「あ、うん。そうなんだ」
昔は月に一度、観に行っていたと話す。
『友達がね、鎌倉から出るのも億劫だって言うようになって、行かなくなったんですよ』
幸恵自身は、まだまだいろんなところに行きたいと、やる気に満ち溢れていた。
「じゃあ、また次も着物を作るから、一緒に着て出かけようよ」
『ありがとうございます。私と着物で遊んでくれるのは、陽菜子さんだけですね』
「着物友達、探さなきゃね」
『ええ、そうですね』
ここで、本題に移る。
「それで、歌舞伎興行なんだけど」
『はい』
「母さんも一緒なんだよね」
『初恵もですか。珍しいこともあるものです』
嫌じゃないかと、ストレートに聞いた。ドキドキしながら返答を待つ。
『いいえ、別に。娘とのお出かけを嫌がる親がいるものですか』
「そ、そっか。うん、そうだよね」
あっさりと、承諾してくれた。八月一日が来ることも大歓迎だと言う。
ホッとひと息吐いていたら、幸恵に驚きのご提案をされた。
『八月一日さんを、お付き合いしている人として紹介したらどうですか?』
「え、いや、それは」
『初恵がこちらに来るなんて、滅多にないので良い機会ですよ』
気が早すぎると言っておいた。
というか、また付き合っていない。この先、関係がどうなるかはわからない。のんびりと気長に見守ってほしいと頼んだ。
◇◇◇
着物は完成した。一月の下旬に陽菜子の手元に届いたのだ。
次に、合わせる帯などを選ばなければならない。
八月一日にどうするかと聞かれていたが、陽菜子は自分で考えることを決意する。呉服屋の店員である友人、優衣が一緒に選びたいと言っていたのだ。この前の事件のお詫びに、手ごろな価格で譲ってくれるとも言っている。
現在、持っているのは着物と簪のみ。必要な物をリストアップする。
足袋、裾除け、肌襦袢、長襦袢、半衿、襟芯、伊達締め、帯板、帯、帯枕、帯揚げ、帯締め、履物……と、気が遠くなりそうな品数である。
自分なりに、こういう組み合わせで着たいというイメージを固め、優衣の勤める呉服屋に向かう。
「いらっしゃいませ」
「どうも」
店内に女将がいるので、営業モードで話しかけてくる優衣。
「あら、鷹野さんじゃない」
「お、お久しぶりです」
女将にはすぐに気付かれた。
以前、呉服屋の長男義人を投げたことがあった陽菜子は、気まずげな気分でいたが、向こうは気にしている様子は欠片もない。今日は小物を買いにいたと告げると、笑顔で案内をしてくれる。
「えっと、まずは帯を……」
帯選びは難しい。それが、陽菜子が独自に調査した結果であった。
それとなく合いそうな色合いはわかるものの、同じ格の帯を合わせる知識を持ち合わせていなかった。
今日は完成した訪問着を持って来ていたので、合わせながら選ぼうと思う。その点に関しては、優衣に許可をもらっていた。
「訪問着には、どのような帯が合うのでしょうか?」
「そうねえ……」
女将が説明をしてくれる。
「街着として訪問着を着るならば、紬の訪問着に染めの帯、礼装として纏うのならば、染め着物に織りの帯」
今回、向かう先は襲名披露興行といういつもよりかしこまった場所だが、きっちりと正装していくような場面でもないという、なんとも微妙なパターンであった。
「襲名披露興行で、桟敷席であれば、華やかな装いでも問題ないと思うわ」
勧められたのは、金地の梅模様。古典的な柄は、着物の菊模様をより美しく見せる。
「ねえ陽菜子、べっ甲の簪、持って来た?」
「うん」
鞄から取り出して見せる。
女将がすぐに反応を示した。
「まあ、なんて素敵な簪なの」
ここで、簪が蘭の花を模した物だと発覚する。
「鷹野さん、蘭の花言葉はご存知?」
「いえ」
「美しい淑女、っていうの」
陽菜子にぴったりの意匠だと、女将は言う。
「良かったねえ、陽菜子」
八月一日に買ってもらった簪だと知る優衣は、ニヤニヤしながら話しかけてくる。
照れて頬を染める陽菜子を他所に、女将がここでポンと手を打つ。
「せっかくなので、着物で『四君子』を表してみたらどう?」
「四君子、ですか?」
優衣は質問する。四君子とはなんなのかと。
「梅、蘭、竹、菊の美しさを、高潔な人を表す君子に見立てた言い方ですよ」
梅は高潔、蘭は優雅、竹は節操、菊は高潔。説明をしてくれたのは、呉服屋の次男である零士であった。外回りをしていたようで、スーツ姿であった。
「鷹野さん、久しぶりですね」
「ええ、お元気そうで」
「おかげさまで」
控えめな笑顔を浮かべながら「ごゆっくり」と言い、零士は店の奥へ引っ込んで行った。
小物選びが再開となる。
「帯が梅、半衿に竹を使うのはどうでしょう?」
「いいかも!」
「優衣さん、竹の半衿、あったかしら?」
「今日入荷した物の中にありますよ」
優衣が店の奥から持って来る。
木箱の中に入っていたのは、絹に白い糸で竹が縫われた、控えめな意匠であった。
「陽菜子、どう?」
「凄く綺麗……いいと思う」
「じゃ、決定だね!」
菊の着物に金地の梅模様の帯、竹の半衿、帯締めと帯揚げは全体の色が引き締まるよう、赤を選んだ。
四君子の柄が揃った状態となる。
バッグは白地に八重菊。草履の鼻緒にも同じ柄が施されている。
他の小物を三人で選んだ。こうして、必要な品はすべて揃う。
「じゃあ、着付けもうちで予約ってことで」
「よろしくお願いいたします」
「楽しみだね」
優衣の問いかけに、陽菜子ははにかみながら返事をした。
◇◇◇
そして、とうとうやって来た、初恵と幸恵が顔を合わせる日。
陽菜子の胃は朝からキリキリと痛んでいた。
着物は本番ぶっつけで着ると言っていたが、それだと動きがぎこちなくなるからと、優衣から木綿の着物を借り、美しい動作などを習った。
なので、いくぶんかはマシになっている。
「いくら着物が綺麗でも、歩き方がよろよろだったら残念だからね」
「優衣様、感謝をしております」
陽菜子は手と手を合わせ、拝む。
まずは化粧を行う。優衣が施してくれた。
いつもよりワントーン明るいファンデーションを塗る。目じりを強調するように線を引き、切れ長の目に見えるように仕上げた。アイシャドウは桜色を乗せる。頬にはオレンジ系のチークを塗ってぼかした。
口元は輪郭をリップライナーでなぞり、丁寧に塗っていく。
髪型はサイドを編み込み、後頭部で全体の毛を纏めて蘭の花の簪で留めた。
着物の着付けは女将が担当する。
まず、足袋を履き、肌着を纏う。タオルなどで体の線を調整し、長襦袢を着て、衣紋を抜く。襟を合わせ、腰紐で縛った。伊達締めを結び、着物を羽織る。襟を前で重ね、腰紐を結んで締めた。お端折を作り、襟を合わせる。
陽菜子は女将の動きを見ながら、着付けを学ぼうとしていていたが、だんだんと混乱していく。
何度も着物の皺を伸ばし、衿を綺麗にして、という工程を繰り返した。
帯を巻き、ぎゅっぎゅと締め付けられるたびに、「ウッ!」と嗚咽を漏らした。
女将の着付けは、優衣よりも容赦なかった。一瞬でも気を抜けば、背中が曲がっていると活が飛んでくる。
そして、やっとのことで着付けが完了した。
「あ、ありがとうございました……」
静々と、頭を下げる陽菜子。
女将も、素晴らしい四君子の装いだと絶賛していた。
最後に、全身鏡で確認する。
千二百年もの歴史ある日本の着物。
それは、今までのどの服よりも美しかった。
脈々と受け継がれた伝統と技術が、一枚の着物に宿っているのだ。
「綺麗だよ、陽菜子!」
「うん」
「泣かないでね、化粧が大変なことになるから」
「で、でも、なんか泣きそう」
いきなり、着物専門誌である『雅』の編集部に配属されて数ヶ月。あっという間のような、長かったような、不思議な感覚である。
今まで着物なんか興味がなかったのに、いつの間にか惹かれ、こうして身に纏っていた。心境の変化に、陽菜子自身でも驚いている最中である。
美しい着物を纏い、感極まっていた。
「陽菜子、そろそろ行かないと」
「そうだね」
祖母と母を迎えに行こうとしていたけれど、二人共直接会場にタクシーでやって来ると言っていた。なので、陽菜子は八月一日と浅草で待ち合わせをすることになっている。
「じゃあ、行って来る」
「行ってらっしゃい!」
着物姿の陽菜子は一歩、足を踏み出した。
◇◇◇
公演まで三時間。母と祖母との約束の時間まで時間の余裕があった。
墨田公園の梅の花が見頃だと言うので、花見でもしないかと誘われていた。
今年は温かく、二月であったが二十度近くあった。羽織も買っていたが、暖かいので必要ないと思い、優衣の店に置いてきた。
梅の木の下で八月一日を待つ。
平日の昼間だからか、人通りは少ない。
太陽の光がさんさんと降り注ぎ、ポカポカと温かな冬の日だった。梅の花の芽はふっくらと膨らみ、気品のある美しい花を咲かせていた。
背後より、声を掛けられる。
「すみません、遅くなりました」
遅くなったと言いつつ、時間より五分前に到着する八月一日。
陽菜子は振り返る。
薄いグレーの御召着物に、御召袴、藍染めの羽織姿でやって来ていた。
陽菜子は八月一日のことだから、似合っていようがいまいが、大絶賛したのちに褒め倒すだろうと、思っていた。
なのに、想定外の事態となる。
八月一日はじっと見つめたまま、時が止まったかのように動かなくなってしまったのだ。
陽菜子は見られることに耐えきれず、声を掛けた。
「……あの、八月一日さん?」
「えっ、あ、すみません」
らしくない様子に首を傾げるも、歩きませんかと声を掛けた。
梅の咲く並木道を、ゆっくりと堪能しつつ一歩、一歩と足を踏みしめる。
会話はなく、若干の気まずさも覚えていた。
着物姿を見た瞬間、褒めてくれると思ったのに、八月一日は何も言わなかった。
鬱陶しいくらい感想を言うだろうと確信していたので、いざ、何もないとなると物足りない気持ちとなる。複雑な気分になっていた。
「……綺麗ですね」
突然歩みを止めた八月一日を振り返る。
「ええ、ポカポカ陽気なので梅も満開で」
「いいえ。花ではなく、陽菜子さんのことです」
「はあ!?」
時間差で褒められたので、情緒の欠片もない反応を返してしまった。
言葉の意味を理解すれば、だんだんと顔を真っ赤に染めていく。
「着物もよくお似合なのはもちろんのことなんですが、陽菜子さん自身が素敵なのです」
「な、なんですか、突然!?」
「ずっと、思っていたことなので」
ひゅうと強い風が吹き、思わず瞼を閉じる。
風が止んで目を開いた。梅の花は、散らない。
八月一日は目が合うと、相好を崩す。
陽菜子の胸はどきんと跳ねた。
「陽菜子さんは頑張り屋で、一生懸命で、いつもお元気で」
「あの、最後の、いります?」
「重要なことです」
近所の中学生男子じゃあるまいしと、突っ込んでしまった。
「私はそういうところが――好きだと思ったのです」
それは、愛の告白であった。
陽菜子は目を見開き、わなわなと震える。
心構えなど、まったくなかったのだ。
あまりの衝撃に、母と祖母のことを考えて傷んでいた胃の痛みは、どこかへと吹っ飛んでしまった。
「よろしければ、お付き合いをしていただけませんか?」
バクバクと鼓動を打つ心臓。
頭の中は真っ白であった。
八月一日のことは初め、とても意地悪で、いけ好かない奴だと思っていた。
けれど、仕事関係で付き合っていくうちに、着物に関しては至極真面目で、プロ意識高い職人だということを、少しずつ理解していく。仕事に関する真摯な姿勢は、尊敬すら抱いていていた。
陽菜子の相談にも、ずいぶんと乗ってもらった。
いつかは、落ち込んだ時に励ましてくれたこともあった。
『雅』の編集部で奮闘する中、困った時に手を差し伸べてくれたのも八月一日である。
陽菜子は着物にだけ魅せられたのではなかった。
そこに身を置く人すべては、好きなのだ。
中でも、八月一日は特別な存在である。
「あの、私は……」
陽菜子のことを深く知れば、がっかりするだろうか。
そんなことを思えば、返す言葉を口にできない。
けれど、言わなければ、きっと後悔する。
困り果てた陽菜子は――左右に袖を振った。
その刹那、何をやっているんだと、自身の行動に呆れ、また恥ずかしくなって背を向けた。
ここでも、想定外の事態となる。八月一日に、背後からぎゅっと抱きしめられたのだ。
「――ありがとうございます、同じ気持ちだなんて、嬉しいです!」
陽菜子は愕然とした。まさか、八月一日が行動の意味を知っていたなんてと。
「もう、ダメかと思っていました」
「えっ、なん……」
着崩れるからと、八月一日はすぐに離れた。
またしても、頭の中が真っ白となる。
陽菜子がしたのは、昔の人がしていた愛情表現の一つだったのだ。
袖を左右に振れば好きな気持ちを示し、袖を前後に振れば嫌いという気持ちを示すのだ。
この行為は、「振る」、「振られる」の語源として現代に残っている。
「良かったです」
「まあ、はい」
晴れて、二人が恋人同士になった瞬間であった。
信じられない事態となったが、認めるしかない。
八月一日は陽菜子に手を差し出してくる。
「陽菜子さん、手を繋いでもいいですか?」
「今から親に会いに行くのに、何を言っているのですか」
八月一日は相変わらずマイペースで、この先一生振り回されるだろうと、確信してしまった。
けれどそれすらも、幸せに思ってしまう陽菜子であった
◇◇◇
問題の母と祖母の関係の修復、着物への苦手意識の問題であったが――
「あら、素敵ね」
「え!?」
あっさりと、母初恵は陽菜子の着物が美しいと認めた。
「娘が着ているのを見ると、悪くないわね」
「そうでしょう?」
幸恵が同意する。
「陽菜子さん、本当に素敵ですね」
「あ、ありがとうございます」
今までの険悪な雰囲気はどこへやら。
実際顔を合わせれば、そこまで仲が悪そうに見えない。
「この子、きっと公演のことしか頭にないのですよ」
「そ、そうかもしれない」
それから最後に、八月一日を紹介する。
「あの、母さん、こちらは八月一日さんと言って……」
「初めまして、八月一日桐彦と申します。浅草で、和裁士をしております」
営業モードになっているのではと心配していたが、八月一日は陽菜子の想像の斜め上のことを言い出した。
「陽菜子さんとは、結婚を前提にお付き合いしておりまして」
「はっ、何を」
「あらあらあら、そうなの?」
「まあまあまあ、結婚はいつ頃なのでしょうか?」
八月一日の発言に、全力で食いつく幸恵と初恵。
二人共、嬉しそうだった。
「まさか、陽菜子をもらってくれる男性に会えるなんて」
「八月一日さん、ふつつかものの娘ですか、どうぞよろしくお願い申し上げます」
「はい、こちらこそ」
三人の様子を見て、頭を抱える陽菜子。
どうしてこうなったのだと、心の中で叫ぶことになった。
◇◇◇
吹く風は暖かい。
春は、もうそこまでやって来ていた。
陽菜子の毎日は、これからも続く。
浅草和裁工房 花色衣 ~着物の問題承ります~ 完




