第二十三話 大晦日にて
あっという間にやってくる年末。
陽菜子は大掃除に明け暮れていた。凝りだすと止まらない性分で、三日に及ぶ掃除の結果、家の中はピカピカになる。
本日は十二月三十一日。
八月一日より花色衣に来るよう言われていたのだ。時計は十七時過ぎ。集合時間は十九時であった。そろそろ準備するかと、行動を始める。
窓の外では、雪がしんしんと降り積もっていた。年末年始はどうしてこう、天候が悪いのか。陽菜子は疑問に思う。
温かい恰好をしようと、引き出しを開く。
この前買った服は、また今度にすることにした。せっかくの連休なのに、風邪を引くのはもったいない。オシャレの極意は我慢することだと、元ファッション雑誌編集の陽菜子はわかっていたが、今日ばかりは無理だと思ったのだ。
取り出したのは。黒とグレーのボーダーのニットに白のハーフジャケット。黒いレザースキニーを合わせ、靴はショートブーツを履く。首元が寒いので、マフラーをぐるぐる巻きにした。
家を出て、電車で浅草まで向かったが――
「ゲッ!」
駅を出てすぐの、目の前の想像を絶する光景に、思わず言葉が漏れてしまう。
大晦日の浅草は、想像を絶する人混みだったのだ。
この人達はいったい浅草の町に何をしに来ているのか。陽菜子は疑問に思う。花色衣に行くまで、大変な思いをしそうだと思っていたら、背後より声を掛けられた。
「陽菜子さん!」
振り返ると、スーツ姿の八月一日が手を振っていた。
「良かったです、会えて。……すみません、年末のこの状況のことをすっかり失念していまして」
「これ、なんなんですか?」
「全部、初詣のお客さんなんです」
「ええ……」
人々の目的は浅草寺。
大晦日の浅草寺は十九時にいったん閉堂となり、元旦になると開堂する。皆、初詣をするために、並んで待っているのだ。
さすがの八月一日も人混みではもみくちゃにされると思ったのか、着物ではなくスーツ姿であった。
見渡す限りの人混みに、陽菜子は目を細める。
続いて、八月一日に手を差し出され、さらに目を細くした。
「なんですか、その手は?」
「逸れそうなので、繋ぎましょうと」
「なっ……いや、いい、だいじょう――!」
どん! と通行人から背中を押され、転倒しそうになる――が、八月一日がすかさず陽菜子を抱き止め、ことなきを得た。
「危ないですね。陽菜子さん、大丈夫ですか?」
「……まあ、はい」
抱き止められた姿勢のまま、どぎまぎと返事をする。
「じゃあ、行きましょうか」
ごく自然に、八月一日は陽菜子から離れ、当り前のように手を握って歩きだす。
「えっ、あの、手っ!」
「足元、雪に気を付けてくださいね」
「あ、はい」
ここで気付く。八月一日は陽菜子が歩きやすいようゆっくりと、人を避けつつ進んでくれていることに。
手を繋いでいることが恥ずかしいし、エスコートをしてくれることも照れるしで、だんだんと顔が熱くなっているのを感じる。
動揺している間に、花色衣に到着した。
すでにのれんは下ろされており、閉店状態だった。
今日、呼びだされたのは、頼んでいた着物が完成したからだった。
今までとは別の意味で、ドキドキしながら店に足を踏み入れる。
店内の一段上がった畳の上の衣桁に、八月一日の仕立てた陽菜子の着物が掛けられていた。
「うわ、これ、凄い……」
八月一日が選んだ深緑生地に、大輪の菊模様が描かれた反物は、美しい着物の形に仕立てられていた。
ひと針ひと針、手縫いで丁寧に作られた訪問着は、陽菜子が着るために作られた物。
その感動は、言葉にできない。
しばし、うるうると目を潤ませながら着物を眺めていた。
「お気に召しましたか?」
「あ、はい、その、ありがとうございました」
陽菜子は八月一日に深々と頭を下げる。
「凄く、綺麗に仕立ててくださって、嬉しいです」
「良かったです」
これならば、母初恵も綺麗だと思ってくれるはず。着物を見て、不安が和らいだ。
「あ、そうだ。これを――お礼、というわけではないのですが」
「なんですか?」
鞄から取り出したのは、歌舞伎の襲名披露興行のチケット。
あろうことか、あおい出版の吉野が用意したのは、桟敷席だったのだ。
さすがの八月一日も、人気公演のチケットを手にして、驚きの表情を見せている。
「これ、うちのお客さんも喉から手が出るほど欲しいと言っていました」
「実は、あおい出版の吉野さんに譲っていただいて」
「なるほど」
陽菜子は母と祖母を誘ったと、最初に白状する。
「それで、前にも話したとおり、母と祖母は犬猿の仲で……八月一日さんにも、その場に立ち会っていただけたら、と」
なんて図々しい願いをしているのかと、恥ずかしく思う。
けれど、二人の間を取り持つことが不安だから誘ったこともあるが、着物姿を八月一日に見て欲しいと思う心もあった。
「多分、八月一日さんに作ってもらった着物姿を、母に見てもらったら、きっと、考えも改めてもらえると、思うのです」
「なるほど。責任重大ですね」
「ですよね。すみません、なんか……」
「いえいえ、嬉しいです」
八月一日はチケットを受け取ってくれた。
「私も、最後まで見守らせていただきますね」
「はい、よろしくお願いいたします」
陽菜子は再度、深々と頭を下げたのだった。
話がひと段落すると、トントントンと、花色衣の出入り扉が叩かれる。
「あ、ちょうど良かったですね」
「?」
そう言って、戸を開く。
「こんばんは、そば吉です」
「ご苦労様です」
八月一日は蕎麦のどんぶりと二つ、受け取った。
「では、来年もよろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
ぱたんと閉められると花色衣の扉。
「蕎麦、出前を頼んでいたんです」
「さすがですね」
先ほどの浅草の町を思い出せば、飲食店に行こうという気持ちは湧いてこなかった。
手渡された蕎麦のどんぶりはあつあつで、ラップを剥ぐと出汁の香りが漂う。
八月一日はレジに置いてあった急須にポットから湯を注ぎ、お茶を淹れる。
陽菜子は湯呑を差し出された。
「はい、どうぞ」
「何から何まですみません、ありがとうございます」
「いえいえ」
それから、畳に座って蕎麦を食べる。
蕎麦の香りが豊かで、麺はコシがあり、つるつるとした喉越しも良い。甘めの味付けのつゆも、麺によく絡んで美味しかった。
大満足の一杯で、陽菜子は手と手を合わせて、ごちそうさまでしたと言う。
「大晦日でなければ、お店に案内したんですけれど。揚げたての天ぷらは絶品でして」
「いいですね、天ぷら。この前行った店とは違うのですか?」
以前、陽菜子は八月一日と蕎麦屋に行ったことがあったのだ。桜エビのかき揚げが美味しい店だ。
「はい。そこより少し遠い場所にあって。今度一緒に行きましょう」
陽菜子は素直にコクンと頷いた。
時刻は二十一時前。そろそろ帰ろうかと、申し出る。
八月一日は陽菜子のために、タクシーを呼んでくれた。
「このあと初詣でも、と言いたいところなんですが、本当、えげつないくらい混むので」
「ですね」
花色衣の戸を開くと、さらに人が多くなっていた。うんざりするような混みようである。
「タクシー、来たようですね」
「ええ」
ここで、お別れとなった。
「では、陽菜子さん、良いお年を」
「八月一日さんも」
着物は後日、宅配される。手元に届く日を、今から心待ちにしていた。
「気を付けて帰ってくださいね」
「はい」
外まで送ってもらい、タクシーに乗り込む。
手を振る八月一日に、陽菜子は会釈をした。




